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「奥様?」

ソフィに声をかけられて気づく。知らない道に入ってしまった。


彼との約束どおり夕方には帰れるよう、家の近くの町の病院に慰問に行くつもりなのだが、初めて行くところなのだ。

慰問を始めた頃に侍女が作ってくれたリストにも載っていたそこは、他の貴族女性もよく行くので、私が行かなくてもいいかと思って行かないでいたところだ。

でも、一度くらい行ってみるべきなんじゃないかということと、何より彼との約束の範囲で行けるところが限られるっていうこともあって、そこにしたのだけれど。


リストと一緒に訪問先地図も持って出たが、心そぞろに歩いていたからどこを歩いているのかわからない。

「ごめんなさい、考え事をしてたわ。ここ、どこかしら」

困って振り返ると、ソフィは地図の一点を指さした。

「ここですね。早く引き返したほうがいいです。この先はあまり治安がよくありません」

「そうなのね。……あら?」

この道の先に孤児院のマークがある。

「あ、それは!」

「この孤児院、リストにあったかしら?」

「いえ、すみません、あの、地図から消すのを忘れていて」

「行ってみましょう」

「ああ、そうおっしゃると思ったからリストから消しておいたのに! 駄目です! 治安が悪いんです。奥様が行かれるようなところじゃありません! って、もう!!」


すがりつくソフィを引きずって孤児院へ向かう。

自力で止めるのを諦めたソフィは背後に向かって「奥様を止めて!」と叫んだ。

その手がゆるんだ隙に私は走り出す。幸い、孤児院の場所はそう遠くない。

ソフィの声に反応した護衛の騎士たちの気配を後ろに感じながら全力で走った。

それでもあっという間に追いつかれ、腕をつかまれそうになる。

「痛い!」

大げさに言って、ひるんだところを振り払う。


右手に門、その門に孤児院の字を見てとると私はそこに走りこんだ。

ドアノッカーをたたく。

護衛が横に立ったが、ここまで来たら止められない。むしろ、何かあったら助けてくれるはず。

そう思ったのだが、ノッカーの音に反応はなかった。


「奥様、帰りましょう!」

他の護衛とともに追いついてきたソフィを手で制して、ドアに耳を寄せる。

ドアノブを引いた。

開けるとともに鼻をつく異臭。ここに来るまでの道も匂いはしていたが、この建物の中はさらにきつい。

薄暗い廊下の奥にあるいくつかの部屋のどこかから、かぼそい子供の泣き声が聞こえる。ドアの外からもわずかに聞こえていたそれは一人のものではない。


護衛たちの緊張を感じる。

唯一、灯かりの見える部屋に向かう。半開きになったドアの前ですっと息を吸うと腐った空気が肺に入って後悔した。


ドアを押そうとしたとき、「うるさい!」という男の声と何かがたたきつけられて割れるガシャンという音がした。子供の泣き声がより一層高く響く。

あわててドアを開けようとすると護衛に肩を引かれた。

一歩下がると、護衛は私を背にしてドアを開ける。


子供が数人、一人は汚い床に這いつくばって泣きじゃくり、他の子は壁際に座り身を縮めている。

テーブルの上には少しのパンと具のないスープの器。

そして、テーブルの正面、一つだけある肘掛け椅子にはだらしない体形の男がもたれかかっていた。


酔った男の前にはワインの入ったジョッキ。泣きじゃくっている子供の前には割れた瓶。何があったかは誰でもわかる。

泣いている子供に駆け寄る。顔を上げさせると頬の切り傷から血がうっすら流れている。素早く全身を確認したが、ガラスによる傷はそれ以外にないようだ。

ただ、ガラス以外のものは、ある。

袖口から見えている青黒いのは打撲痕。他の子たちを見渡すとどの子にもある。ここの子たちは日常的に殴られているのだ。


立ち上がって男を見下ろす。私を見上げて「ああ?」という男の目はアルコールで赤くにごっていた。

男から顔をそむけ、護衛に声をかける。

「子供たちを家に連れていって」

「全員、ですか?」

「全員。他の部屋にいる子たちも。誰か表に出て辻馬車を雇ってきて。一台じゃ足りないわね。まずは子供を全員集めて人数を把握しないと」


男が椅子から上半身をわずかに上げた。

「おい、何言ってるんだ! 勝手なことをするな!」

つばを飛ばして叫ぶが酔いのせいで立ち上がれない。

「こいつはどうします?」

「今日は置いていくわ。明日、アル中を受け入れてくれそうな病院を探す。こうまでなってたら私じゃどうにもできない」


集められた子供たちは12人、一番年上の子でも7歳くらいだ。

「これで全員?」

近くにいた子に聞くとうなずいた。

護衛の一人に辻馬車を探しに行かせる。ソフィも急いで食べ物を買いに行った。

残りの護衛たちと子供たちを連れて外に出た。誰も孤児院を振り返らない。


3台の辻馬車に分乗し、中で食べ物を子供たちに食べさせた。

子供たちは食べている間は必死で口を動かしていたのに、その後は何も話すことはなかった。

知らない人間に連れてこられたことにおびえているんだろうが、空腹でなくなったことでおびえる余裕ができたと思えば悪い反応じゃない。


家についたところで、迷惑料としてかなり多めのお金を御者に渡し辻馬車を返すと、子供たちを見渡した。

「まず、お風呂に入れないと。着替えはあったかしら?」

「寄付用に用意してあったものがあります」

「そう」

子供たちを自分の風呂に連れて行こうとしたら、執事に止められた。

「使用人用の風呂のほうが大きいですから」

たしかに。


男女分けて、男の子たちは執事たち男性陣にまかせて、私は女の子のほうに向かう。

「奥様、そのドレスでは」

「どっちにせよ、もう汚れてるわよ」

あの孤児院の汚い床にひざまずいたところで既に洗濯必須だ。

服を脱がせると、子供たちは案の定がりがりに痩せていた。

孤児院には補助金が出ているが、あの男はそれをほとんど飲んでしまっていたのだろう。

大きい子供がいないのもそれで説明がつく。自分で稼げるような年齢の子はあの孤児院から逃げてしまっているのだ。


ソフィと一緒に子供たちを一人ずつ手早く洗う。年上の子は自分で洗えるかと思ったのだけれど、この子たちはまともにお風呂に入ったことがないらしい。

それでも、なんとか全員を洗い終え、服を着替えさせた。

行先が決まるまでここで世話しないといけないし、まずは、どこに寝かせるか、執事に相談しないと。


小さい子の服のボタンを留めながら考えていたその時、頭上でカンと音がした。

音、違う、何かの響き。

そして、ストっと何かが落ちてくる。

「奥様! 光って」

落ちてきたものがそのまま体の中に染みるように入ってくるのを感じる。

「何?」

「わからないですけど、奥様の周りに何かきらきらしたものが!」

「え……」


ボタンにかけていた手に光の粒がまとわりついている。視線をずらして身の周りを見ると体全体をその光は覆っていた。

とまどっていると、その光は少しずつ消えていく。

「何だったのかしら」

「わかりません、わかりませんけど、すごくきれいでした……」

そうソフィは言うけれど、自分ではほとんど見えなかったし、変なものだったらどうしようという不安のほうが強い。

彼が帰ってきたら、話しておこうかしら。いえ、それより子供たちのことを説明しないと。

まだ仕事中だろうけれど、帰ってきてから驚かないように、先に手紙で子供たちのことを知らせておこう。

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