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そして、あれから一か月。せっかく泊まりがけの慰問の許可を得たというのに、私は毎日、家に帰っている。
もちろん、抜け殻の飲みすぎ防止のためである。
本当に中毒とまでなっていたら医者の領域だが、今の抜け殻はちょっと飲みすぎている程度だ。話している間は酒を飲まないのなら、いくらでも聞いてやる。
リリアーヌ様の話なんてまったく興味がないけれど、抜け殻は話したいだけなのでこっちに興味があろうがなかろうがどうでもいいのだ。
抜け殻は相変わらず帰宅が遅く、どこかで飲んで帰ってくる。それは止められないが、私が起きて待っていれば家で飲むのだけは止めさせられる。
そう思って帰宅を出迎えていると、いつからか「ただいま」と言われるようになった。
私が「おかえりなさい」と返すと、ふにゃっと笑って私の手を引いてソファまで連れて行く。
あとは延々リリアーヌ様の話を聞かされるわけだが、飲み物は紅茶になった。
家で飲まない分、体の調子もいいようだ。朝会うときに気をつけて様子を見ているが、酒の匂いが残っているようなこともないし、二日酔いもしていない。手の赤黒さも消えてきているから、私も苦行の甲斐があるってものだ。
というのは、リリアーヌ様の話は同じ話が何巡目かしていて、私も話の流れを暗記してしまったくらいなのだ。
たかだか一年くらいの出来事だし、リリアーヌ様は他の男性とも仲良くしていたので、抜け殻との時間はそこまでなかったんだろうと推察している。
さすがに最近は抜け殻も違う話をし始めたが、最終的にリリアーヌ様の話に行きつくことも多い。
今夜もそうだ。
「なんか、君っていつも同じドレスだよな。リリアーヌはさ、いつも違うのを着ていたよ? そこまでおしゃれじゃなくてもいいと思うけど、たまには違うのを着れば?」
うるさいな。
リリアーヌ様は男性からしょっちゅうプレゼントされてたからでしょ? あいにく私は夫からも何ももらったことがないんですよ。いえ、もともとおしゃれしたいって意欲もないからいいですけど。
とは言わずに「そうですね」と曖昧に笑ってみせる。
「そうだよ。そりゃあさ、リリアーヌはすごくかわいいけどさ、君だってさ」
顔が近いよ、抜け殻!
君だってさ、の後は何も続かない。近づけた顔は眉間にしわが寄っている。
「んん? あれ、なんで君?」
不思議そうな顔をして、なんでと言われても。
抜け殻はしばし考え込んだが、酔いで頭が回らないらしく放棄したらしい。
いきなり立ち上がる。
「寝る!」
そうですか、寝てください。
それから数日、抜け殻は帰ってこなかった。
いつ帰ってくるかわからないから私は毎日家に帰らなきゃいけないし、何より最近酒量が減ってきたっていうのに外で飲んできちゃったら元の木阿弥だ。
気をもんでいたら、やっと抜け殻は帰宅した。
いつもより早い時間に、倒れて、運ばれて。
「睡眠不足」
「はい、寝ないでお仕事をなさっていたそうです」
まさかの理由に茫然とする私に執事が答えた。
そんなに王宮には仕事があるのだろうか。それにしては義父が倒れたという話は聞かない。宰相が倒れないのに補佐が倒れるっていうのはどういうことなのか。
抜け殻の眠るベッドの横に椅子を運ぼうとすると、執事が運んでくれる。
「奥様、私が付き添います」
「いいえ、あなたは明日も仕事があるでしょう? 私が付き添うわ。寝てるだけだから何もすることはないし」
「しかし」
「もし何かあったら起こすわ」
押し問答の末、執事はしぶしぶ下がった。
年寄りに無理をさせるわけにはいかない。それに私は付き添いは得意だ。
こんなところで慰問の経験が役だとうとは。
本を手にして椅子に座る。
あ。
夜に付き添ったことがなかったから、暗くて本が読めないことに今、気がついた。明かりをつけると抜け殻がゆっくり寝られないだろうし、本は諦めるしかない。
幸い、抜け殻はただただ健やかに眠り続けた。
一度、執事が様子を見に来た。
義父母から状況確認の連絡があったらしい。そっと廊下に出て話す。
「奥様が付き添われて、今は眠っていらっしゃいます、とお答えしました」
「お義父さまとお義母さまはご存知なの? その、睡眠不足だって」
「はい、執務中に倒れられたので」
「そう…..。私がもっと気をつけていればね」
「奥様のせいではありません。旦那様が帰ってこられなかったのですから」
「帰りたくない家にしたのは私にも責任があるわ」
「そんなことは」
そんなことは、ある。
執事を帰して部屋に戻った私は、月明りの中でずっとぼんやり抜け殻の顔を見ていた。
結婚後、目の下にクマがあったり、頬がこけるほど痩せたり、酔っぱらって目が充血していたりで、まともな顔を見たことがなかったが、本来、抜け殻は美形だ。
結婚前は遠くからしか見たことがなかった。
銀色の髪をなびかせてさっそうと歩いていく。遠目からも目立つ人なのだ。
いつもは厳しい表情だけれど、友人と話すときは子供っぽい笑顔になる。友人と、リリアーヌ様といるときは。
私はリリアーヌ様の代わりにはなれない。私と彼女はまったくタイプが違う。
やわらかいウェーブのかかったピンクの髪、ミルク色の肌、菫色の瞳は明るく輝いていて、いつも楽しそうに笑っていた。
私は自分がほがらかとは言えないことを知っている。美人とも言えないし、髪だってまっすぐで茶色だ。
美しい絵画を見るように、私は抜け殻の顔を見続けた。
酔っていない彼と話したことがほとんどない。結婚前の一度だけ。例の「君を愛することはできない」って言われたとき。
ずっと仕事で王宮にいて、家にいるときも朝しか一緒にならず、早朝に出かけることが多かったから、それすらほとんどない。朝食を一緒にとったことは何度かあったけど会話はない。あとは酔っていて、話したというか、一方的にリリアーヌ様の話を聞かされていただけ。
最近、あまり飲まなくなっていたから、正気に返ったのかも。
それで、家にリリアーヌ様と正反対の辛気臭い女がいると思ったら帰る気をなくしたのかな。
寝顔を見ながらずっとぐるぐる考えていた。
病院で寝たきりのおばあさんにつきそって、話し相手をしたことがある。
おばあさんの旦那さんはもう亡くなっていたのだけど、なんというか、あまりしっかりした人ではなかったらしい。
それなのに恋愛結婚だというから、きっとそれを補うほど魅力的な人だったのでしょうね、と言ったら、おばあさんに大笑いされた。
「全然そんなことないの。ただ、この人は私がいてあげなきゃだめだ、って思ったの」
今の抜け殻も私がいたほうがいいんだと思う。
でも、本来の抜け殻に戻るまでだ。本当の抜け殻は自信たっぷりで魅力的な人だ。そんな人が私を必要とすることはない。
穏やかに寝息をたてる抜け殻の顔に触れてみたくなるけれど、荒れた手で触れたら不快だろう。
結局そのまま。私はずっと抜け殻を見ていることしかできない。
明るくなっても抜け殻は起きなくて、でも起きたらどうしたらいいのかわからない。
起きたときに傍にいるのが辛くて、執事か誰かに付き添いを替わってもらおうかと思ったけれど、替わりたくない。
……変なの。
そして、そんなことがどうでもよくなるほど時間がたって、朝も昼も過ぎ、さすがに心配になってきた夕方、抜け殻は目を開けた。
まぶたが上がり、紺碧の瞳が覗く。
上掛けをのけて弱弱しく抜け殻の手が上がり、こちらに伸びる。思わずそれを両手で捉えた。
「大丈夫ですか?」
「ん」
「みんな心配していますよ。すぐに執事を呼んで、お義父さまとお義母さまにもお知らせしましょう」
「いや、もう少し」
「はい?」
「もう少し、このままで」
起きて早々、いろいろ言い過ぎた。
反省した私は今度は肯定の「はい」を言った。
抜け殻はぼんやりと私の顔を見上げながら、手を握り返してくる。
「なんで君がここに」
「王宮で倒れて運ばれていらしたんですよ。どうしてそんなに無理をなさったんです?」
「どうしてって、君の」
「はい?」
「……なんでもない。仕事に行く」
いきなり起き上がろうとする。
「もう夕方ですし、お義父さまからも数日お休みを取るように言われています。行っても追い返されますよ」
あからさまに不機嫌そうな顔をしているが、不機嫌な患者にも慣れている私は頓着しない。
「執事を呼びましょう。お食事をとってください」
「君は」
「私は寝ます。あなたはもう寝られないかもしれませんが、今夜はお酒を召し上がらないでゆっくりなさってください」
まだ持っていた手をそっとはずして立ち上がる。さすがにもう限界だった。
自分の部屋に戻ると寝る支度もそこそこにベッドに倒れこむ。
そのまま眠り込んで、起きたときは夜明け前。
朝日が差し込んできている。まだ、起きるわけにはいかない。今起きると使用人たちに迷惑をかける。
お腹がすいた。昨日の昼過ぎに軽食をとったが、もちろん、そんなものはもう胃のどこにも残っていない。
せめてもと枕元に用意されている水差しに手を伸ばすと、トレイには布巾がかかった皿も載っていた。布巾を上げると菓子が盛られている。
手に取り、かじった。これで朝食までもちそうだ。
空腹がおさまると眠気が戻ってきて、次に起きたのはソフィが起こしにきたときだった。
「朝食はどうなさいます?」
「食堂に行くわ」
髪をとかしてもらいながら菓子の礼をすると、「お礼は旦那さまに」と言われた。
夜になっても起きてこないので、すぐ食べられるものを置いておくように指示があったらしい。
そんなに気がきく人だったとは。
一応、礼を言っておこうと思ったら、既に仕事に出かけていた。
追い返されないといいけれど。
追い返されなかったうえになかなか帰ってこなかった。しばらく起きて待っていた私が執事にうながされて寝た後に帰宅した。起こされなかったところをみると酔ってはいなかったようだ。
それから数日、同じことが続いて、私も待たずに寝ることにした。
そもそも私が起きて待っていることなんて知らないのだ。酔っているときの記憶がないんだから。