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その日も夜遅くに抜け殻は帰ってきた。
抜け殻は私が起きてる時間に帰ってこないので、朝以外に会うのはかなり久しぶりだ。
昼間、精力的に働いている私は相当眠かったし、抜け殻と話すというだけでかなり億劫でもあった。
しかも抜け殻は酔っていた。
侍従にささえられて自室のソファまで行くと、へべれけなのにまだ酒の用意をさせている。執事がたしなめてもかまわず、そのまま飲み始めた。
なんかもう、話し始める前からうんざりするが、考えようによってはチャンスかもしれない。素面だと常識が邪魔をして泊まりがけの慰問など許されないだろうが、酔っている今なら簡単に承諾してもらえそうだ。
私はソファの端、抜け殻からできるだけ離れたところに座った。他に近くに椅子はなく、立ったまま話すのはどうかと思ったからだ。
「お願いがあるのですが」
声をかけると、抜け殻がこっちを向いた。
乱れた髪が頬にかかっている。また少しやつれたみたいだ。
「泊まりがけで慰問に行きたいんです」
執事がぎょっとしたのがわかった。ソフィと同じ反応だ。
執事が口を開きかけたのを見て、私は当然のようにそれが却下されるのを待った。でも、抜け殻は執事が声を発する前に「わかった」と言った。
目に私を映してはいるが、顔に表情はない。
本当にわかっているのか、わかっていてどうでもいいのか。
まあ、どっちだろうがかまわない。
許可は得た。もう用はない。
立ち上がろうとしたとき、抜け殻の手が目に入った。
赤黒く荒れた手は明らかにアルコールのせいだ。病院に入院しているアル中にもこんな手をしている人がいる。
テーブルの上のボトルはかなり強い酒。
用はすんだけど見過ごせず、つい声をかけた。
「今日はもう、飲むのはお止めになられては?」
抜け殻はびくりと肩をふるわせたが、そのままグラスを口に運ぶ。
「お仕事に影響が出ますよ。リリアーヌ様に迷惑をおかけするのは嫌でしょう?」
グラスを掴む手に力がこもった。抜け殻の喉の奥で、くっ、という音がする。
掴んだ手はそのままグラスの底をテーブルに叩きつけた。
「仕方ないだろう! 飲まないと無理なんだよ!」
グラスは割れなかった。よく見れば普段この家で使っているような薄手のガラスのものではない。
そんなことを考えて私が黙っていると、抜け殻は勝手にしゃべり始める。
「リリアーヌが王太子妃になって、それでもリリアーヌのために何かできればと思ってやってきた! だけど滅多に会うこともできない! たまに会うことができても横には王太子がいるんだ!」
力を入れたままの抜け殻の指を一本ずつほどいて、グラスをそっとはずす。
「……なんで、そんなに手がざらざらしているんだ? リリアーヌの手は白くてほっそりしているぞ」
うるさいな。
「手を触ったことは一度しかないけれど、やわらかくて指先が冷たかった。あのとき、守ってあげたいと思ったんだ」
またグラスに伸びる手を押さえて止める。
「リリアーヌ様はおかわいらしい方ですものね?」
「そう、リリアーヌはとてもかわいいんだ。それにけなげで。王太子も他の奴らもわかっていないけど、リリアーヌはいつも自信がなくて、あなたがいてくれるから、って言うんだ」
いざるように近くにやってきた抜け殻はそのまま私に向かって、リリアーヌ様のいいところ、リリアーヌ様との思い出を話し続ける。
さっき、酒を飲もうとした抜け殻を止めようと押さえた手が、そのまま私の手をつかんだ。アルコールでベタベタだ。でも、それきり抜け殻は酒を口にしていないから我慢する。
私は抜け殻の話を聞き続けた。抜け殻の頭が急にこてりと私の肩に落ちるまで。
抜け殻をベッドに寝かしつけて、私と執事は部屋から出た。
「あの人はいつもああなの?」
と聞くと、執事はひどく悲しそうな顔をした。抜け殻が小さな頃から世話をしてきたらしいので、今のこの状況は彼にもきついのだろう。
「そうですね。家にお戻りのときもそうですし、王宮に泊まっているときもお飲みになっていらっしゃるのだと思います。もともと酒がお好きでもお強くもないのに」
「そう……。今度から家で飲もうとするときは私を呼んでちょうだい。寝ていても起こしていいから」
「いえ、ですが」
「いいのよ。私も家のことを放っておきすぎたわ」
「奥様……」
「ところで、あのグラス、いつも使っているものより厚手よね」
「あのグラス、ですか。いつものは旦那様がいくつか割ってしまわれまして」
「ああ、だから今は丈夫なのを使っていただいているのね。それにしてもあの芸術品のようなきれいなグラスを割ったなんて、酔いが醒めたあと後悔しないのかしら」
「酔っている間の記憶はなくされています」
あれだけリリアーヌ様のことを話したら、あとで恥ずかしくなるだろうから、記憶がないのはいいことなのかもしれない。