5 喰らいの書
「んっ・・・」
「あ、起こしてしまったかい?」
「・・・ディー?」
心地よい振動にぬくもり。再び瞼が落ちそうになりますが、あまりに近いディーの顔に驚いて、目をしっかり開きました。
「もうすぐ部屋に着くから。」
「・・・え?」
私、ディーにお姫様抱っこをされています。なぜでしょうか?
「眠たかったら、寝ていいよ。アンとこのまま今日は寝ようって話になったから、部屋に着いたらもう寝る予定だし。」
「・・・そう。」
寝てもいいといわれてしまえば、欲望には勝てません。瞼が落ちます。
「いえ、駄目です。重いでしょう、自分で歩きますから降ろしてください。」
「目を閉じたまま何を言っているの?いいから、そのまま寝なよ。私は鍛えているから大丈夫だし・・・君は羽のように軽いから、なおさら大丈夫だよ。」
「でも・・・」
「お嬢様、部屋までもうすぐです。このままベッドまで運んでいただいた方が、面倒でないと思います。」
「・・・ん。」
「クス。もう寝てしまったようだよ。」
「それは好都合です。友人様には、婚約者様のことでお伺いしたいことがございましたので。」
「それは・・・あれを聞いていたということかな?君は耳がいいんだね。」
「お嬢様の侍女ですから。ふっ。」
「なら、私も聞きたいことがあるね。レナの様子に変わったところがなかったか・・・そう、ハインリヒに会った後に体調を崩したなーんてこと、なかったよね?」
「あとでお答えしましょう。まずは、お嬢様をベッドに運んでくださいませ。」
「もちろんだよ。」
一人は笑みを浮かべて、一人は無表情で会話を中断し、部屋の中へと入っていく。それから、その部屋にはロウソクの明かりが夜遅くまで灯っていたそうだ。
「ヘレーナ、君との婚約を破棄させてもらう。」
王子の執務室。そこで王子と私は向かい合って座り、王子は決定事項を俯いて座る私へと伝えました。私は、視線をテーブルに向けたまま、それを聞いています。
「いずれ俺は王になる。そのとき君が俺の隣にいることは、ありえない。君に王妃は務まらないと、それが王家の判断だ。」
「・・・」
「このような結果になり、残念だと思う。君を愛せなかった俺にも、非はある。しかし、だからといって、君の行為を許せるものではない。・・・それでも、穏便に事を済ますのは、せめてもの詫びだ。」
「詫びですか。」
「そうだ。」
「・・・ハインリヒ様。」
私は俯けていた顔を上げました。目の前の王子は、私の大好きな人。それでも、私の胸は高鳴ることはありません。ただ、王子を王子だと認識して、それで終わりです。
私と目が合った王子は、わずかに動揺します。
「がっかりですよ、あなたには。」
「・・・どういうことだ。これでも穏便に」
「後悔させてあげましょう。」
スッと立ち上がる私。別に勝ち誇るわけでも、怒りに満ちるでもなく、ただ王子を見下ろします。なぜでしょうか、心が全く動きません。
「それは、どういうことだ。本来なら、お前は何らかの処罰を与えられるべきだった。それほどのことを、お前はマリアにした。正直、お前を着の身着のまま寒村にでも放り出したいくらいだ。それをこらえて・・・の処置だ。」
何が気に食わない?これ以上何を望む?
怒りに満ちた王子の瞳が、私を射抜きます。しかし、それを意に介さず、私は笑いました。何の熱もこもらない瞳で王子を見下ろし、口元には笑みが浮かびます。客観的に見れば、不気味な顔をしていることでしょう。
「足りないのですよ、ハインリヒ様。ですから、もっともっと・・・」
王子に求めるものは、こんなものではありません。もっと・・・
「何を・・・?」
「それでは、失礼いたします。」
用件が終わったことは明白。ここにいる意味は、もうありません。
踵を返して、私は部屋を出るために歩き出しました。その時、私の口がポツリとこぼしたものは、呪うような言葉。
「幸せになんて、させてあげませんから。」
そして、事件は起こりました。
王子や私が通う学園。その卒業パーティーで、国を揺るがす事件が起きたのです。いいえ、私が起こしたのです。
入場の際、王子の隣には私ではなくマリアがいた。婚約破棄は済んでいるため、そのことに非はない。しかし、それを許せなかったのでしょう、私は王子が卒業生代表で挨拶をするため壇上に上がったところを狙い、自分も壇上に上がりました。
「何をしている、ヘレーナ嬢!」
「もちろん、復讐ですわ。これをご覧になって?」
私が王子に見せつけたのは、王家が所有する禁書の一つ。「喰らいの書」と呼ばれるものです。それは、国を亡ぼすと呼ばれる七禁書で、禁書の中でも最も危険なものとされるものです。
「最後のお願いですわ、ハインリヒ様。どうか、私の復讐を完遂させてください。」
「聞けるか、そのような願い!君は、それがどれほど危険なものか、わかっていない!それは、俺たちだけじゃない、この国の民すべてに不幸をもたらす!」
「存じておりますわ。ですが、それが何か?」
私は、禁書を開きました。真新しい本の匂いが香ります。
「くそっ!業火よ!その者の罪を、燃やし尽くせ!」
王子は、私に向けて魔法を放ちます。火の使い手である王子の炎を、私はただ見つめてその身に受けます。銀の髪が、青のドレスが、燃えるのを視界の端にとらえました。
「ははははははっ!幸せになんて、なれると思わないことね!私の憎しみ、あなたのすべてを奪うわ!私のすべてを奪ったようにね。」
「ヘレーナ・・・君は・・・」
「ハインリヒ様!」
可愛らしい声を震わせて、マリアが王子の傍に並び立つのをただ見つめます。
「わ、私の水の魔法で・・・源なる水よ・・・」
「やめるんだ、マリア。」
「ですが、あのままでは!」
「・・・どちらにせよ、禁書を使おうとしたんだ。一族郎党皆殺し・・・ヘレーナがさらに苦しむだけだ。せめて、ここで終わらせるべきだろう。俺の手で。」
王子のこぶしを握り締める手は震えています。その手を、マリアが包みました。
ぷつり。
視界が真っ暗になります。ごうごうと音を立てていた炎が見えなくなり、音も聞こえなくなりました。
代わりに、鳥のさえずりが遠くから聞こえてきました。それがだんだんと大きくなります。
顔に触れる空気が冷たく、私は目を開きました。
「ここは?」
そこは、見慣れぬ天井。
思い出しました。私は隣国にいるのです。我が国の滅亡を回避するために。
おそらく、ここは宿でしょう。馬車の中には到底見えないので。簡素な調度が並ぶ部屋ですが、清潔で広々としています。
もうひとつ、思い出しました。
夢に見た光景、あれは数あるヘレーナの断罪シーンの一つ。もっとも大きな罪を犯す、私の末路。
国の滅亡をもたらす禁書を持ち出し、使用しようとしたのです。
「七禁書の一つ「喰らいの書」・・・これが、発動したのでしょうか?」
現在我が国で起こっている出来事に、その禁書が関わっているという気がしました。なぜなら、七禁書は国の滅亡を現し、我が国にある七禁書は喰らいの書のみだからです。
それに、私が持ち出せたのですから、誰かが持ち出したとしても不思議ではありません。