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カニ王  作者: ねずみ
第一部 自切
7/47

6、カニの学校


 諸君。


 楽にして聞いてくれたまえ。

 泡を吐きながらでも、砂を噛みながらでも構わない。

 

 良いかね。君たち蟹というものは、生態系のサイクルの中でも下層に位置する被食者である。

 つまり食われてばかりということだ。


 地上に出れば鳥に食われ人に食われる。海に出れば魚に食われタコに食われる。

 大人になれるものはほんの一握りで、決して長いとは言えないその生涯をダサい横歩きで逃げることに費やしている。はっきり申し上げよう。君たちは海の負け組だ。

 

 だが私は君たちに可能性を見出した。君たちは一度負けて終わりではない。再び立ちあがる強さを秘めている。正直に言おう。私はかつて君たちを、そこそこおいしい食べ物だとしか思っていなかった。だが私は人類を代表して謝らなければならないー私は君たち種族が隠し持つ、その不屈の精神に、心ごと救われたのだ。 

 

 そこで私は君たちに恩返しすることにした。そして、そうだ、私の前で、クマに踏まれてあの命を失った伝説の蟹、彼のことを英雄「ナポレオン」と名付けよう。おい、そこの君たち、そこでワチャワチャちっぽけな縄張り争いで殴り合っている君たち、聞いているのか。おい、おい、恥ずかしくないのか!ナポレオンの高潔な魂を見習え!彼は間違いなく、不屈の魂を持っていた。彼は私に勇気と希望を託して死んでいったのだ。

 

 君たちは皆、ナポレオンになれる可能性を秘めている。私は君たちの中から、第二、第三のナポレオンを生み出したい。そうして、君たち蟹社会全体が大きな進化と発展を遂げ、あの生態系の、残酷無慈悲な三角形の中で、君たちの順位が少しでも上がるように、力を尽くしたい!

 

 私は蟹に向けて時折こんな風にスピーチした。私は蟹を採集し、砂浜の一箇所を木の枝で区切って、彼らをその場所に集めて「飼って」いた。


                         *


 

 そう、私は奇跡的に助かったのだ。いや、正確には助けられたと言っていい。目覚めるまでの間、何が起きたのか、まるきり覚えていない。

 

 目覚めると、私は森の入り口に横たわっていた。右腕の傷口は豚皮の分厚い端切れで丁寧に巻かれ、化膿を防ぐためにハーブの薬を塗りこまれていた。

 

 目の前にはひどく懐かしい光があった。それは炎の輝きであった。私の傍らで、煌々と焚き火が燃やされてあったのだ。それは夜の闇を吹き払うように明るく燃え上がって、私の心に驚くほど深い安らぎをもたらした。

 

 薪の隣には魚籠が置かれてあって、鮮やかな青色の生魚が三本、その中で蠢いていた。それは羽をむしりとられた新鮮なトビウオであった。痛みと戦いながらも、私は魚を串刺しにして、しっかり焼いて貪り食べた。味などろくに分からなかったが、それは私の五臓六腑にとって、生涯忘れがたい晩餐となった。

 

 魚籠の隣の、焼かれた白い器の中には、小川の水がたっぷり汲まれて置いてあった。口にすると、ほのかなオレンジの味がした。

 

 あたりを見回したが、人の気配は感じられなかった。光るフクロウの無数の眼と、不気味に揺れる木々が見えた。闇の奥から今にも熊がのそりと這い出してくるように思えてきて、すっかり恐ろしくなった。木の枝の先端に火をもらうと、焚き火の火を足でかき消してから、逃げるようにその場を後にした。


                       *


 しかし私は私を救ってくれた謎の人物に、さほど感謝の念は抱かなかった。なぜなら私は王であり、民に施しをもらうのは常に当然のことであったからだ。

 

 もちろんその人物に万が一出会う機会が訪れた暁には、感謝の念は精一杯伝えるつもりである。けれど今の私にできることは何もない。下手に何か見返りを求められたりしても困るだけだ。優しい顔をして近づいてくる人間ほど、恐ろしいものはないと、身をもって教わったばかりである。

 

 ここが無人島ではないということは確かだったが、ここを捨ててまで、島中を探索する気にはならなかった。私はそれよりも、自分の生活の基盤をここに据えるために尽力することにした。そして日々の膨大な時間を、蟹という種族に捧げることを決意したのだった。


                    *


 洞窟に戻り、壁や足元を炎で照らしながら慎重に奥まで進んだ。松明を携えているだけで、私は自分が無敵の存在になったように感じられた。蛇を見つけたら、丸焼きにして食ってやるつもりであった。

 

 しかし蛇は姿を消していた。奥の十字架は蛇によってなぎ倒されていたが、蟹のベッドはそのままであった。私は再びそこを拠点にすることにして、洞窟の真ん中には、不滅の焚き火をこしらえた。それから十字架の代わりに、踏みつぶされたナポレオンの甲羅のかけらを飾った。


                    *

 

 それから私と蟹たちとの情熱的な夏の日々が始まった。

 

 朝起きるとまず、モクズガニの毛で作った歯ブラシで歯を綺麗に磨く。それから水たまりを鏡にして、蟹のハサミでヒゲを切り、髪を切り、眉毛を綺麗に整える。それから木の枝でこしらえた王冠を被る。てっぺんにはもちろん、あのダイヤモンドをはめ込んだ。「蟹の王様」の出来上がりだ。

 

 朝ごはんには魚を素手で捕まえ、カニと一緒に焼いて食べる。時折森に入って、植物を採集した。木の実やきのこは、動物の食べた後があるものを選んで食べるようにした。クマの糞を見つけた場所には、木に印をつけて近づかないようにした。

 

 ココナツの実で器を作り、そこに雨水を溜めるようになってから、水にも困ることはなくなった。傷は一ヶ月もしないうちにすっかり良くなって、体はみるみるうちに健康を取り戻していった。シラミや南京虫も目に見えて減った。股間のかゆみも前ほど気にならなくなった。


                       *


  回復してまず始めたことは、岩をひっくり返し、ゾワッと逃げて行くおぞましいフナムシの集団や、まるで宇宙人の容れ物のような、不気味なフジツボの群れを極力見ないようにしながら、蟹を探すことだった。

 

 蟹たちはまさに驚くほど、様々な手段で生き延びている。擬態する蟹、寄生する蟹。とにかくそういう「セコくて弱い」蟹たちがたくさんいた。私は彼らを哀れむように見つめ、散々罵り唾を吐き、それからぽいとゴミのように投げ捨てた。彼らはハナから戦いを放棄している救いようのない輩たちだ。私が探しているのはあのナポレオンと同じ種類の、戦う蟹それのみだった。

 

 蟹の学校は砂浜の隅っこにこしらえた。およそ20平方メートル(これは大体私の愛猫一匹に与えられる部屋と同等の面積である)の正方形の広さに、3メートルほどの深さを掘った。蟹たちがそこから穴を掘って自主退学してしまわぬよう、床と壁にはみっちり隙間なく甲羅や貝殻、石や葉っぱを敷き詰めた。天井には鳥の襲撃を防ぐために、海辺に転がる太い木の枝とヤシの葉っぱで、簡易的な屋根をこしらえた。満潮時には海水が自動的に半分流れ込んでくる。餌には魚の死体や昆布やヒトデを投げ込んで入れてやる。

 

 蟹たちは全部でおよそ20匹ほどになった。 私は彼ら一匹一匹の特徴をしっかりこの目に焼き付けてあった。触覚の長さ、目のより具合、鋏のとんがり具合、歩き方の癖、口の動き方。一日中彼らを観察しているから、絶対に混同したりはしない。 

 

 彼らはその強さごとに階級別に分けてある。「ナポレオン組」が一番上で、その次に「蛇組」「ライオン組」が続く。下級クラスは「ヒル組」そして最下級クラスは「アラン組」である。

 

 「ナポレオン組」に入るとやがて卒業できる。だがそれは苦難の道のりである。毎日開かれる公式試合で、一週間連続で優勝し続けなければならないのだ。公式試合は学校の外のステージ、小さな切り株の上で行われる。相手を殺すか、逃げ出した方が負けだ。彼らが勝手に殺し合いを始めぬよう、普段は一匹ずつ木の枝の柵で区切ってある。これをハサミで切ってしまうような猛者は、まだ出現していない。

 

 だがこれでは単なる奴隷の殺し合いと変わらない。ここからが肝心である。

 

 私は一度負けた蟹、もしくは殺されかけた蟹を隔離して、その鋏を切り落としてしまう。そうして彼の鋏が再生するまで待つのだ。

 

 鋏を切り落とす時は鬼のような心を持つ。そして自分の腕を切り落とすくらいの気持ちでやる。これは虐待しているのではなく、彼のためだと信じてやる。

 

 ハサミを切る時は、いつだって心が激しく痛む。だが君には小さくて柔らかいハサミではなく、もっと大きくて固いハサミを背負って生きる気持ちを知ってほしい。自分の強さを信じて道を歩く気持ちを知ってほしい。わかってくれ。そう唱えながら一思いにやる。(これはかつて宮廷の庭師が剪定をするときに、バラに向かってブツブツ呟いていた言葉をそのまま引用した。)

 

 だがそれからの私は、打って変わったように優しくなる。戦場の看護婦のように、朝から晩までつきっきりで看病する。ずっと見守り、餌をそばに置いて、砂をかけてやる。そうして蟹が脱皮するのをじっと待つ。三日だって、一週間だって待ち続ける。

 

 死んでしまいそうな蟹にはこう言い聞かせる。貝に寄生してばかりの、岩に隠れてばかりの一生でいいのか?君は再生できるんだ。君は特別な蟹になるんだ…

 

 だがそれでも、脱皮に死んでしまう蟹も少なくなかった。私は彼ら一匹一匹の死を悼んで葬式をやった。


 私は蟹の天国があることを信じた。彼らがそこで永遠に救われることを信じた。強いも弱いも関係ない、裏切りも殺し合いもない、食べ放題のプランクトンの海の中で、鋏のない彼らが、プカプカ海流に乗って揺られていく姿を想像した。彼らはそこで、大人になれなかった幾千の兄弟に再会する。そうしてそこで、他者と出会うたび、殺しあわなければならなかった日々や、陸でも海でも敵に狙われ続けた過酷な日々、そういう辛い一生を、ようやく忘れることができるのだ。

 

 だが生き残った「アラン組」の蟹も、なかなか「ナポレオン組」には勝てなかった。強い蟹は強く、弱い蟹は弱いままだった。それでも私は、彼らの鋏を切り落とし続けた。




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