5、カニの帰還
熊はその濡れた鼻を、別の生き物のように激しく動かして、あたりの匂いを吸い込むように嗅いでいた。私の吐いたものの匂いを嗅ぎつけてやってきたのに違いなかった。
熊との距離は1メートルもなかった。その体躯は私の3倍ほどにも見えたー
毛並みは鋼鉄のように黒々と輝き、呼吸するたび、嵐のような鼻息が漏れた。吐瀉物がこびりついて固まった私の髪の束が、鼻息の風に吹かれてふわふわ揺れた。熊は口の端から低い唸り声を漏らしながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
熊は私の頭上で歩みを止めて、こちらの顔を静かに覗き込んだ。私は持てる限りの親しみを駆使して、上目遣いに微笑みかけた。追い詰められた時、今までそうやってきたように。
しかし、私はすぐに笑うのをやめた。熊の凶悪な瞳には、慈悲や共感、そういう感情の類が一切感じられなかったからだ。そこに宿っているのは、真摯な野生、それのみであった。赤い唇が捲り上がって、濡れた牙が剥き出しになった。
やられる。そう思ったのと、肉が引きちぎられる熱い感触がしたのと、ほぼ同時だった。一瞬、何が起きたのかわからなかった。真っ赤な鮮血が熊の鼻面に飛散した。
肉を引きちぎったその反動で、熊は一瞬後ろに後退した。右腕の肘から先の感覚がなかった。熊が誰かの右手をくわえているのを目撃した。自分の身に何が起きたか、そのことを理解した瞬間に、私は意識を失いかけた。
体全体が激しく震えた。あるいは失血による痙攣なのかもしれなかった。熊はその場で私の右腕をしゃぶるように食べ始めた。むき出しの白い骨と赤い断面が見えた。
私はじっとその腕を見つめた。それはあまりにも頼りない、小枝のような腕だった。私は泥と血の中に横たわりながら、呆然と熊の食事風景を見つめた。私の肉を引き裂いて、熱心に骨をしゃぶっている。
良いではないか。良いではないか。私は心の中でつぶやいた。人生の最後で、とうとう誰かに必要とされることができたのだから。さあ、心ゆくまで召し上がれ。本日のランチは、国を追われた哀れな男のオードブル。骨と皮ばかりで、中身は空っぽでございます。
頬を静かに涙がつたった。涙は溢れてとめどなく流れ続けた。
熊が食べるところのなくなった右腕を捨てた。のそりと顔をもたげ、赤い舌で口の周りをなめながら、ゆっくりと私の方へ近づいてくる。私はもう微笑むこともしなかった。諦めたような覚悟を決めて、ただ、静かにその時を待った。
その時、何かが股座に触れた。見ると、一匹のカニが、のろのろと、我が物顔で私の股間を横断している途中であった。なんだ、蟹ではないかー私は心の中でほくそ笑んだ。今度は私が、蟹に残骸を貪られる番か。
視線を熊に戻そうとして、もう一度蟹を見る。
私はハッと息を飲んだ。
蟹の甲羅には、固く縛り付けられたダイヤモンドがあった。ダイヤはこれ見よがしに輝いていた。彼は、私がかつて私を託したあの蟹であった!
だが、私を本当に打ちのめしたのは、その右腕に輝く、巨大なハサミだった。それはきらめく雨露と砂粒とを従えて、ダイヤモンドに負けないくらい鮮やかに、堂々と輝いていた。それは目を刺すような赤だった。あまりの眩しさに、私の目はくらんだ。蟹は立派なそのハサミを、私に見せつけるかのように横断を続けた。
私はそこに真の王様の姿を見た。
待て。行かないでくれ。声にならない声とともに、遠ざかって行く蟹に震える手を伸ばそうとした、その時だった。
真っ黒な前足が、蟹を踏み潰した。蟹は音もなく粉々に砕け、一部は泥の中に埋め込まれ、一部はその鼻息に吹き飛ばされ、一部は私の顔に吹き飛んだ。私は呆然と熊を見上げた。私の肉をじっと物欲しそうに見据えて、蟹を踏んだことにも気づいていないようだった。
その瞬間、私の中に、経験したことのない感情が湧き上がってきた。それは絶望でも、悲しみでもない、相手も己も焼き尽くしてしまうほどの、燃え上がるような怒りだった。
熊は血に濡れた牙をむき出して、興奮の鼻息荒く、今にも私に食いかかろうとしていた。だが私の方が先だった。私は無我夢中で獣の大きな背中に飛びつくと、堅い皮膚にその剛毛ごと精一杯噛み付いた。
不意打ちに驚いた熊は、大地を揺るがすような唸り声を上げると、全身を犬のように震わせて、私をノミのように振り払った。私の体はでんぐり返って、頭から大木の麓に衝突した。クモやムカデが、慌てて逃げていくのが見えた。
私は意識を飛ばしそうになりながら、残された左手で地面をかくように彷徨わせた。真っ赤な血の海の中に、私は潰れた蟹の死体を探した。熊は先ほどとは打って変わった、たっぷりと余裕を持った勝者の態度で、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
私は必死に左手を四方八方に動かし続けた。やがて指先に、堅い甲羅のかけらと、ダイヤの感触をとらえた。これじゃないー
私はさらに左手を伸ばした。
そして、ようやくそれをつかんだ。上体を起こそうとした瞬間に、大きな顔が私の顔の前に躍り出た。私は標的を定めると、相手の片目に、その蟹の鋏を、思いっきり突き刺した。
熊は狂気の雄叫びと共に後ずさり、転げ回って悶え苦しんだ。潰れた左目からは血が涙のように流れ、ハサミは矢のように突き刺さったままだった。私は間髪入れずに捨て身の勢いで飛びかかり、突き刺さったハサミを握ると、さらに左目を奥深くまで抉るように突き刺した。暴れる熊に必死にしがみついて、どこまでも深く差し込んだ。熊は爪を立てた後ろ足で私を思い切り蹴り飛ばすと、哀感をたたえた鳴き声を空まで響かせながら、草むらの奥に姿を消した。
私はしばらく呆けたようにその方向を見つめていた。やがて敵の気配が遠ざかり、危険が完全に去ったことを悟ると、深い達成感に包まれ、ゆっくりと空を見上げた。
雨はいつの間にか止んでいた。重なる葉っぱの隙間から、青空が覗いていた。静かに迫り来る痛みに怯えながら、私は意識が少しずつ遠のいて行くのを感じた。
右肩に、美しい真っ赤な鳥が止まった。毛づくろいを始めた毛玉のように小さな鳥を、私は肩を揺らして追い払おうとした。しかし鳥はなかなか飛び立とうとはしなかった。
「無礼者、王の頭上は、神聖な土地であるぞ」
鳥はその言葉を聞くとようやく、さえずりながら高く飛び上がった。目の覚めるようなその赤を、見えなくなるまで見送ってから、私は眠るように目を閉じた。