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カニ王  作者: ねずみ
第一部 自切
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4、特別なカエル

 歩くたび、滝に打たれるようだった。顔を空に向けると、ぬるい雨水が乾いた喉に流れ込んでくる。ごくごく雨を飲み干しながら、しばらく砂浜を歩き続けた。その水圧に、体が砂に埋め込まれていくのではないかと思われるほどだった。


 まるで海の中を歩いているようだった。雨を吸ってグッチョリと湿った砂浜は泥のように柔らかで、打ち上げられた大小の魚が、傷ついた鱗を光らせながらその上を跳ね回っている。 

 

 目を開けているのも苦しくなって、私は黒い森の中へ逃げ込んだ。

 

 森に足を踏み入れるのはこれが初めてだった。森というのは私にとって、どこから何が襲ってくるかわかったものではない、天然のお化け屋敷のようなものだった。けれどしばらくは、蛇のいるあの洞窟には戻れそうにない。私は新たな寝床を求めて、おぼつかない足取りで歩き出した。 

 

 湿った土の匂いが辺りを包み込んでいる。遥か頭上で巨人の手のひらのような葉っぱが雨を受けて揺れている。濡れ雑巾のようなみすぼらしいヒゲをぶら下げながら、屋根のある場所を求めて奥へと進んだ。

 

 雷がやんだと思ったら、今度は内部からゴロゴロと胃の鳴る音がし始めた。朝から何も口にしていない。

 

 しかし結局のところ、一番つらいのは股間のかゆみの激しさだった。私はとうとう、巻きついた布切れを脱ぎ捨ててしまって、生まれたままの姿になった。

 

 歩き疲れて、そばに倒れた朽木の上に腰掛けた。直肌に直接腐った木が触れるのは苦痛であり屈辱だったが、もう限界だった。

 

 無数の菌類が朽ち果てた木を土台にして、四方八方へ分裂しながら伸びている。そのうちでも一番主張のない、形も程よい傘状の、地味なうす茶色のものをむしり取って食べた。硬いゴムのような食感で、土のような味だったが、悪くはない。端からむしり取っていき、あっという間に食べつくした。

 

 食べ終わると、猛烈な眠気に襲われた。柔らかな土の上に横たわり、目を閉じると、羽毛ベッドの上に寝転んでいるのと、あまり変わりがなかった。目の前をどす黒いトカゲが全速力で駆け抜けて行った。落ちてきた雨露が鼻のてっぺんで震えた。私はまどろみの中で、今までのろくでもない人生の中でも、数少ない幸福だった時を思い出そうとした。

 

 兄さんが唯一くつろぐ場所と決めていた、あの毛皮のソファに染み付いた匂い、兄さんがわからない問題を教えてくれるのが嬉しくて、すでにわかっていることを何度も繰り返して間違えたこと、少し嫌気がさし始めた兄さんのひん曲がった美しい眉毛…

 

 ようやく少しだけ気持ちが落ち着いて、無意識に背中を掻こうと手を伸ばした。すると何か、ぬるっとしたものが手に当たった。一瞬、背中にきのこが生えてきたのかと思った。だが掴んだそれが巨大なヒルだということがわかった途端、私はあまりのことに意識を失いそうになった。

 

 敵は一匹やそこらではなかった。大小のヒルが私の全身にピタリとくっついて血を吸い上げていた。私はおぞましさのあまり、泣き叫ぶことすらままならなかった。ひたすらヒルを剥がす作業に没頭しながら、私は血液より大事な何かを奪われてゆくような気がした。

 

 不意に、私の手の中でヒルが潰れた。赤い血が私の頬に吹き飛んだ。私の手の中でヒルのかけらがゼリーのように震えだした。それは私の嗚咽によるものだったーだが、私には、ヒルが笑っているように見えた。ケタケタ、笑っているように。

 

 この島の生き物たちは皆、私が弱いのを嗅ぎつけて、私をバカにしにやってくるのだ。私は生態系の底辺なのだ!

 

 私はヒルの海を這い出すと、残された力を振り絞って駆け出した。方向感覚も目的地もないまま、無我夢中で走り続けた。次から次へとヒルが降ってきた。私は木の根っこにけっつまずいて、頭からすっ転んだ。

 

 もう歩けないという気がする。ねえ、兄さん。もうこれ以上は無理そうだね。私はここで朽ち果てて、せめて土の肥料になるよ。それが私のできる、最大限の世界への奉仕だと思うんだ。私が求めた王の栄光は夢と消え去ってしまった。民衆にもっと好かれたかったし、もっと褒められたかった。


ーどちらでも同じことです。

 

 動物園参与の声が聞こえた。そうだとも、お前の言う通りだ。どちらでも同じこと。蛇が負けても、ライオンが負けても、結局は同じことなのだ。大事なことは、お気に入りの蛙のコーナーを、もっと充実させることであったのだ。なぜなら、お前にとって、蛙だけが特別な存在なのであったから。

 


 突然、私は嘔吐した。キノコと蟹の身を混ぜた泥のような液体が、滝のように胃からせり上がって、ドボドボとこぼれ続けた。吐き尽くしたと思ったら、自分の吐いたものの腐臭に吐き気を催して、また吐いた。


 内臓全体がポンプのように稼働し続けて、私の口は腐敗物も栄養物もなんでも構わず吐き出し続けた。全てを出し尽くした私は、ゲロの絨毯に勢い良く倒れ込んだ。もう何を感じる気力も、残されてはいなかった。

 

 不意に目の前の低い草むらが、ざわざわとささやき合うように揺れだした。私は吐瀉物の中に突っ伏したまま、瞳だけをそちらへ動かした。草の動きは徐々に激しさを増していき、不意にピタリと止まった。しばらく不気味な沈黙が流れた。恐ろしい予感に、冷たい汗が流れおちた。私は息を止めて、死んだようにじっとしていた。草むらが左右に分かれ、巨大な影がのそりと姿を現した。私の予感は見事に当たった。

 


 それは一匹の熊であった。


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