最終話 凡百のハサミで
最後の部屋に辿り着く頃には、私の意識は朦朧として、ぼんやりと視点も定まらなかった。部屋の中は真っ暗であった。消耗しきった私の体に、数人の係員の手によって、ロープが巻き付けられた。彼らは頑丈な鎧で武装していた。
私の体はゆっくり天井まで巻き上げられて行った。私は闇の中に浮かび上がる、正面のハンマーを見つめた。
ハンマーは、小刻みに位置を調整されていた。かすかな歯車の音が、カタカタとうねりを上げた。
無機質なその音を隠すかのように、足元から、爽やかなラッパの音が鳴り響いてきた。
見ると、この日のために召集されたであろうオーケストラの一団が、ちょうど私の真下にて、荘厳な国歌の音色を奏で始めたところであった。私をここまで運んできた椅子は、指揮者の台に変わっている。天使のように愛らしい、白い服の少年少女の合唱団が、清浄な声で歌い始める。
神よ、我らが国王陛下を
栄光の御魂の元に
どうか末代まで守りたまえ…
私はブランコのように揺れながら、通り抜けてきた走馬灯ルームのことを考えていた。あれらはすべて、酔っ払いながら、ネロに話した今までの人生の思い出だった。しかし、大事な何かがすっぽり抜け落ちているような気がした。自分にとって、とても大事な出来事。
ついに、歯車の音が止まった。ハンマーが位置を定めたようだった。私は悄然として、ハンマーの断面を見つめた。
赤い血が一面にこびりついていた。潰された死刑囚。潰された命。それは私に、あの小さくも勇敢な蟹を思い出させた。
国王に注がれし天賦の才
どうか栄えあらんことを
神よ、我らが国王陛下を
どうか守りたまえ…
私の人生の行動原理はすべて、「特別さ」に一歩でも近づくことであった。近づこうとすればするほど、それは遠のいていった。
私はいつでも作為的であった。家臣を笑わせていたときも、幸福屠殺機の話を考えているときも、サリーの命を救ったときも、ホウキにどんぐりをあげたときも、彼女に色を教えたときも、いつだって、作為的で、利己的で、いやらしく、見返りを求めずにはおられなかった。
そうしてそのすべてから、私はしっぺ返しをくらい続けた。ひどい悪酔いの挙句に、自ら海へ飛び込んだ時さえ、私は、無作為のうちに作為的であったのにちがいない。
けれども、蟹の学校をやっていた時、そうだとも、あの時、私という存在は消滅していた。世界は、蟹、それだけであった。
あの時の私こそ、最後に思い出すのにふさわしい存在であるような気がした。そうだ、特別になりたくてやったのではないことが、結局は一番、特別なことであったのだ。
祖国よ、今こそ汝に誓う
我の御霊はいつ、いかなる時も
国王とともにあらんことを
ハンマーが静かに動きだす。私は蟹のことを思った。今更あの時の幸福を思った。「おろしてくれ」私は叫んだ。もう、あのような特別は、私には見つけられぬかもしれないが。「おろしてくれ」
私は暴れた。何かがちくりと胸に刺さった。それは胸に忍ばせた蟹の鋏だった。ハンマーが助走をつけるために後ろへ少し後退する。
私は蟹の鋏を取り出して、しびれる左腕を伸ばし、己の体を吊り下げるロープを切り始めた。
それはナポレオンの鋏のようには、全然立派でないものだった。おそらく養殖されたであろう、弱く、ありふれた、凡百の、そこらじゅうにある蟹の鋏だった。
王の光と主の愛は
我が心に永遠に生きよう
ここは希望と自由の国
神よ、我らが国王陛下を
守りたまえ…
ハンマーが動きを止めた。あとは、こっちへ向かってくるだけなのだ。ロープの繊維が、平凡で弱々しい刃によって、少しずつ断ち切れてゆく。
死のハンマーが、勢いをつけて向かってくる。私はそれでも、小さな鋏を動かし続ける。




