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カニ王  作者: ねずみ
第三部 脱皮
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12、沼地のレストラン


 私は街をさまよった。やがて、町外れにある、暗い沼地のレストランにたどり着いた。そこで私を待ち受けていたのは、ジメジメしたパスタと、しおれたポテトフライ、そしてガヤガヤと騒がしい一団であった。


 ちらと盗み見ると、それは平均年齢80歳、総勢20名のしわがれた老人たちであった。彼らは咳き込んだり、血圧の薬を飲んだりしながら、大声で喚きあっていた。


 窓の外には冷たい夜明けが迫っていた。静かな夜明けであった。霜の降りた窓越しに見る景色は、すべての動きを止めていた。太陽すら、凍りついているようだった。

 

 私は顔を伏せたまま、食事をした。騒がしい男たちの会話が、こちらまで響いてくる。


「長生きしとった甲斐があった!」


「船長、ささ、もっと召し上がって」


 私はハッとして彼らの方を振り向いた。


 頼りない明かりの元で、老人たちに囲まれたサリーが、おそらくこの店の特等席であるボロのソファに、ふんぞり返って座っていた。囚人服を着たままで、おでこには例のごとく、私が巻いてやったあの布が巻き付けられていた。


 私はふらふらと、引き寄せられるようにその席へと近づいていった。しかし、近くまで来て、度肝を抜かれた。彼らは一人として、普通ではなかったー両目が潰れたもの、指が六本あるもの、四肢がないもの、全身を包帯でぐるぐる巻きにしているもの、顔が半分麻痺してひきつけを起こしているもの、ポテトフライで家のミニチュアを作っているもの。


 彼らの刺すような視線に、私は一歩後ずさった。


「誰です?」サリーの隣の、白髪の老人が言った。髪は真っ赤なリボンで二つに結わいている。口紅は滲み、ごま髭が白粉を突き破っている。


「獄中専用の、高級娼婦だ」


「ヒャー!」彼は腹をよじらせて笑い転げた。


 私の腸は一瞬のうちに煮えくりかえった。


 私はサリーを睨めあげたーサリーはこれ以上ないというほどの温かな、優しい笑みを浮かべて、こう言った。


「座るか?」


 サリーはそう言って、埃っぽいソファを拳で優しく叩いた。私はこみ上げる嬉しさとプライドの間で千切れそうになる。しかし、それも一瞬のことだった。私はなるべく尊厳を損なわぬようにこういった。「座ってやっても構わない」

 

         *


 私は彼らになるたけ愛想よく微笑みかけた。自分は世間一般の冷たい、差別的な人々とは違い、理解のある人間だということを示すために。


 しかし彼らは私をただ子供のように無礼極まりない態度でジロジロと見回すだけだった。特に失われた右腕に視線が注がれているように気がした。その視線にはどこか軽蔑するような感さえあった。


 彼らには私が誰だか、わからぬようであった。しかしとにかく船長が同席を許した人間であるという事実が、彼らを無言のうちに威圧しているようであった。


「お前さん、どうやって脱獄したんだね?」 


 私はその空気にある種の気持ちよさを覚えて、名も名乗らないまま、サリーに尋ねた。


 サリーは答える代わりに、脇に手を突っ込んで、錆び付いた鍵の束を取り出し、それをテーブルの上に投げ置いた。


 それは獄守りが普段、持ち歩いているべきものだった。獄守りは私の助言を聞き入れて、サリーのケツの穴を奪おうとしたのに違いないーそして、見事に返り討ちにあったのだ。その足で、サリーは外で飛び出した。


 ナポレオンのおかげで、夜番の事務員はぐっすり眠っていた。つまり、サリーは私の脱獄にまんまと便乗したのだった。知ってか知らずか?しかし、私は今更、そんなことを聞く気にはならなかったし、今更とやかく恩着せがましくいうのも、器の小さいようで、嫌だった。そういうわけで、私はただサリーに微笑みかけた。


「よかったではないかね?お互い、無事にすんで?」


 サリーはしかし、鼻で笑っただけだった。私は皆の前で威厳が損なわれるのを恐れて、こう続けた。


「それで、こちらの方々は、お前さんの旧友かね?」


「旧友だって!旧友だとさ!」おかま老人が笑い出した。


「では、何なのだね?」私はこの先ほどから無礼な態度のおかまに対し、なるたけ感情的にならぬようにし

て尋ねた。


「おいらたちは、家族だ。いや、家族以上のもんなんだ」


 彼は目に手を当てて笑い転げた。「おいらたち…もう本当に…いつでも一緒だった、ロザリー号はおいらたちのふるさとだった、思う存分憎み合ったし、好きなだけ名前を呼び合った。誰か一人が死んだら、カラカラに干上がるまで泣き続けて弔った。その全てを合わせた涙の量は、王様の死んだとき、民衆が棺桶に向かって流す、薄っぺらい涙の総量に、負けないくらいのもんだった」

 

 老人のしわがれた手のひらの合間から、ツーっと涙がこぼれ落ちた。それを見て、そこにいた誰もが深い、悲しげな、だが満足そうなため息を吐いた。


「おいら、仕事でいじめられた時なんか、工場で、こうつぶやくんだ。ようそろ、ようそろ!そうすると、まだ前に進めるって、不思議とそうおもうんだ。だけどまたみんな一緒にこうして、海に出られる日が来るなんて、夢にも思わなかったなあ。」


 私は彼らをぐるりと眺めわたした。そしてあの朽ち果てたサイン帳を思い出した。世間から孤絶された彼ら。船の上にようやく見出した居場所。厚い信頼と、突然の悲しい別れ。そして、奇跡の再会。なんてドラマティックで、人の心を打つんだろうーそしてそれは、私には、決して手に入らない種類のものなのだ。


 私はポテトをしゃぶりながら、凍てつく冬の空を眺めた。


「それで」私は勇気を振り絞り、サリーに尋ねた。「あんたら、これからどうするんだ?」


 ポテトはまだ三本残っていた。食べたいけれど、残してあるのだ。私は残りのうち、一本に手を伸ばした。


「そうだな。俺たち、これだけの大人数だ。明日の夜には船をみんなで乗っ取って、この国を出るさ」


 私はしおれた味気ないポテトを噛み続けた。


「それで、おめえさんは?」サリーは窓の外を眺めながら尋ねた。


「私は」私は真正面からサリーを見つめた。「明日、死ぬことになっている」


「そうか」サリーは口の端を上げて静かに笑った。「他に行き場所はねえのか?」


「ない」


「そうかい。そんなら…」


 私はまった。静かにまった。一緒に来るか?サリーがそう言ってくれるのを。


「そこまで送って行ってやる」サリーは残りのポテトを掴むと、飲み込んでしまった。私は信じられない思いで、立ち上がった目の前の大男を見上げた。おかまの老人も、びっくりした顔をした。「こいつは連れて行かねえのか?」そう言いたげにして。


 だがサリーはその表情に気づかないふりをした。私も同じようにして、外へ出た。



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