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カニ王  作者: ねずみ
第三部 脱皮
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11、とても安全な脱獄


 執行の日が近づく中、私の心は脱獄後の未来に飛んでいた。私は毎晩のように、カニのベッドより硬い寝床の上で、ひたすら心配し続けた。あれ以来何の動きも音沙汰もなかった。


 果たして、ナポレオンはうまくやっているのだろうか。他に味方がいるのだろうか。こんな間抜けな私に脱獄など可能なのだろうか。失敗したら、どうなるのだろう。死刑以上に酷い目にあわされるのだろうか。ところで、死刑の内容を聞かされていないが、それは決まっているのだろうか。

 

 私はいてもたってもいられなかった。だが、待ち続けることしかできなかった。

 

 次々と頭の中をよぎって行く疑問を、私は頭の外へ追いやった。とにかく、死刑から逃れるべきだ。結局のところ、私は血統に救われるのだ。それで良いではないかー


 

        *


 私の独房に、カニが差し入れられる日がやってきた。私はそれを骨の髄までしゃぶり尽くした。顔に青あざを作ったでぶっちょの獄守り長は、私の一挙手一投足を恨めしそうに、じっと見張っていた。

 

 奥歯に何かがカチン、と当たった。舐めまわすと、それが細長い鍵だとわかった。それこそは、外へ出て行くための鍵だった。私の心は興奮に震えた。


 ナポレオンを信じて、待ち続けてよかった!


 これからドラマチックな脱獄劇が始まるのだ。私はピストルを持って追いかけてくる獄守りたちの、狂ったような熱望の表情や、脱獄に騒ぎ立てる記者や野次馬、表面上では悔しさを演じながら、見えないところで私の奇跡の生還に涙を流し、一人喜ぶネロの姿などを次々と思い浮かべた。

 

 その晩、私は静かに独房の扉を開けた。当番の獄守りは、深い居眠りをしていた。彼の事務机の上には、飲みかけのグラスが置かれてあった。

 

 独房の出口、長い階段の前で、ナポレオンが待っていた。彼の手には燭台があって、その物言わぬ青白い決意の表情は、まるで死神のようだった。私たちは地上に続く冷たい階段をゆっくりと上っていった。

 

 私はナポレオンが睡眠薬を飲ませきれなかった獄守りが、死に物狂いで追いかけてくるのではないかと、密やかな期待を込めて何度も暗い監獄の方を振り返った。だがなんびとも私を追いかけてくる気配はなかった。わざと足音を大きく踏み鳴らしたりしてみたが、帰ってきたのは、中庭に潜むフクロウの鳴き声だけだった。


 とうとう何事もないまま、裏口の扉から庭へ踏み出して、夜露に濡れた空気を胸いっぱいに吸い込んだ時、私の心を満たしたのは、喜びよりも拍子抜けという思いであった。


「ご無事ですね、陛下」ナポレオンは私に札束を握らせると、言った。「さあ、逃げるのです!」


 私はぽかんと彼を見据えた。てっきり、彼がかくまってくれるものだと、思い込んでいたからだ。しかしナポレオンは落ち着かない様子であたりを見回した後、「何をしているのです。二度と、この国には現れないことです」と言って、私を冬の道路に押しやった。「さあ!さあ!」


 私は一思いに駆け出した。それから、何度も振り向いた。夜の中にひっそりとそびえ立つ、冷たい巨大な城を。


       *


 木枯らしが街路樹を揺らしている。凍えるような寒さの中、虚ろに人気のない裏道をあてもなく彷徨い続けた。私は無意識のうちに持ってきた、蟹の鋏をお守りのようにさすっていた。

 

 中心街へ差し掛かると、どこからかジングルベルの音色が聞こえてきた。店じまいの途中の雑貨屋から漏れ出す、その陽気で少し寂しい音楽は、私の心を惹きつけた。私はふらふらと歩み寄っていった…ショーウインドウにはクリスマス・ツリーが飾られていて、その突端には大きな銀色の星が輝いていた。


「クリスマスまであと1にち」


 私は惚けたように星を見つめた。まばゆいほどのきらめき。電飾が消え、頭上の明かりが消えても、自分の力のみで光る星。


 奥のレジでみみっちい小銭を何度も数え直していた店主が、私の視線に気がついた。私の視線によって大事な商品が汚されるとでも言いたげな、憤懣やるかたない表情で、店主は勢いよくウインドウの幕を下ろした。


 道の反対側から、酔っぱらいの若者たちが肩を組み合って歩いて行くのが見えた。私は彼らの横をこれ見よがしに通過した。だが彼らは私に向かって一瞥をくれただけで、通り過ぎて行った。


 私は時計台の前に座っている浮浪者の横に座った。彼はダンボールで暖を取っていた。私は彼に、「寒いですね」と声をかけた。浮浪者は聞こえないふりをした。私はもう一度「寒いですね」と繰り返した。浮浪者は私をうるさそうに一瞥すると、尻に敷いていた新聞紙を丸めて投げつけて、どこかへ行ってしまった。


 私は新聞を広げ、街灯の頼りない明かりをもとに、それを読んだ。日付は、一ヶ月も前のものだった。一面記事には、ざっと以下のようなことが書かれていた。


「処刑を唱える議会に最後まで反対し、アランドラ旧国王陛下(現在は無職)の処遇を精一杯良いものにしようとするネロ皇帝の厚い友情は最後まで報われることはなかった。


 アランドラ旧国王陛下(現在は無職)を幼い頃からよく知るとある精神科医は、本紙のインタビューにこう述べている。


『アランドラはかつてより精神のバランスを著しく欠いていた。自ら海へ飛び込むという、奇行に及んだその過去もまた、都合よく忘れていた。自分はネロ皇帝に裏切られ、王座を奪われたのだと思い込んでいた。再び以前よりも危険な凶行に走る可能性もないとは言えない』


 容疑者は現在地下牢に幽閉されており、街には極刑を望む国民の声があふれている。」


 私は新聞紙をたたみ、それからしばらくの間、呆然としていた。


 ナポレオンは、あの日私が自分で飛び降りたのだと、そういった。ネロもまた、同じことをいった。ここで発言している精神科医も、同じことを述べている。そうして私は、確かにあの日、ひどく酔っ払っていたのだ…


 


 



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