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カニ王  作者: ねずみ
第三部 脱皮
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10、良い穴


  


 すっかり日が暮れて、広間が甘い夕闇に包まれ始めた頃、私はへべれけに酔っ払っていた。ネロは全然酔わぬように見えた。私たちは同じ量の酒を、浴びるように飲んだのに。だが私は幸福な気持ちに満たされていた。その結果、激しい嘔吐をして、医務室に運び込まれた。

 

 医者が何か言った。私は笑っていた。医者は私を裸にした。なぜ、パンツまで脱ぐ必要があるのかと、私は一度だけ抵抗した。だがそれは虚しい抵抗だった。私は注射を打たれて、そのまま意識を失った。


                          *


 目がさめると、私は去勢をされていた。なぜ唐突に私の去勢をしたのか、ネロはそれについて、こう説明した。君のキンタマは腐っていた。両方ともだ。カビが生えていて、早く切除しなくちゃならなかったんだ。長い島の生活のせいだね。危ないところだったよ。君ってば、全身カビ人間になるとこだったんだよ!


                         *


 日曜日の夕方、ネロはしばらくひきこもっていた私を元気づけようと、夕食に招待した。湖を見下ろす宮廷の離れのテラスで、二人きりのバーベキューパーティだった。


「妻は出かけていてね。まったく、困ったもんさ。ほっつき歩いてばかりいるんだ。やめろと言ってあるんだが、いうことを聞かなくてね。ほら、ビールを飲めよ。少しくらいならいいだろ?」


「ああ、うん、ありがとう」


 秋の風は冷たかった。私は冬の訪れを肌に感じた。湖は揺れるようにさざめいて、空はすみれ色に染まっていた。桟橋の灯の上で、迷い込んだ一羽の海鳥が羽を休めていた。


「その後、どうだね。」


「ああ、ずいぶん良くなったよ。君のおかげだ、ネロ。そのーまさか、カビが生えていたなんて、気づきもしなかった」


「恩にきることはないよ。それより、君が良くなったら、王の就任式をとり行おうと思ってるんだ。だけど、ちょっと、問題が出てきてね。」


 ネロは長い溜息をついた。それから苦しそうに言葉を継いだ。


「君を王にする話なんだけど。議会が反対してるんだ。僕は是非、政治を知り尽くしている君と手を取り合って、ダブルでやりたいという話をしてるんだが。」


「ああ、うん。そうか。もっともだよ。いや、当然の言い分だ」


「だけど僕は君とやりたい。君と二人でやることになったら、僕は君にいろんなことを任せたいと思っている。だから、承認されるまで、一人でも踏ん張るつもりだよ。」


 ネロの澄んだ瞳に、私の心は打たれた。


「ネロ。君のその気持ちが嬉しい。君のように、私を想ってくれる友は他にはいない。皆、私のことを見下げたり、笑ったり、無視したりするやつらばかりなんだもの。」


 私の脳裏に、次々と様々な人間のスライドが浮かび上がっては消えた。特に色濃い残像となってよぎったのは、サリーとホウキ、その2名であった。


「僕はそんなことするもんか。君を傷つけたりなんか」ネロは勢い込んで立ち上がった。


「例えば、王宮に飾る絵さ。君はセンスがいいから、選んでもらいたい。」


「もちろんさ!任せてくれよ!」


「それから、クラリスの監視を頼みたい。クラリスはひどいもんさ。すぐ兵士やお目付役に手を出すんだ。あれは美人な分、節操のない女なんだよ。だけど君なら心配ないだろう。君は彼女の好みのタイプではないしね」


 私はそこでネロをちらりと見た。しかし、彼の上機嫌を損なうのが嫌だったので、何も言わずにおいた。


「それからもう一つ」ネロはビールを飲み干した。「子供が生まれたら、その教育係も君に任せたい。ある程度大きくなるまでで構わないんだ。」


 私はネロが冗談を言っているのだと思った。だがネロは随分真面目な顔をしていたので、彼が本気なのだとわかった。


 私はちょっと迷ってから、決して反対意見を言うのではないと言う風に笑顔を作り、「まるで、王の仕事じゃないみたいだ」私は冗談めかして笑った。「まるで、なんていうかーそれはー召使長みたいだよ」


「本当だな!」ネロは今気づいたみたいに言った。「いや、違うんだよ、誤解しないでくれ。これは君にやってもらいたい仕事のうちの、たった少しのことなんだ」


「そうか、よかった。なあ、例えばなんだけど、どうかな。そのー外交なんて、どうかな。これでも結構、あの島でそれなりに民族とやりあってきたんだよ。ある少女には、随分懐かれてしまって。いやああれには、困ったね。」


 ネロの瞳が鋭く光った。


「だけど、君、外国語は喋れるのかい?」


「いやー喋れないけど。でも、通訳をつけてくれればさ」


「残念だけど、つい先日、優秀な外交官が決まったばかりのところなんだよ。汚い駆け引きを、彼はとても美しくやって見せるんだ。」


「ああ、そうなんだね!じゃあ、遠慮しよう。」私はビールを飲み干した。「それなら、どうかな、奴隷解放政策なんて、ちょっと考えてみたんだ。市民権を与えるんだよ。差別を撤廃してさー」


「お前は、黙って座ってりゃいいんだ。」


 私は耳くそが詰まってるのかと思った。耳くそが詰まっているから、幻聴が聞こえたのだと、本気でそう考えたのだ。ネロがそんなことを言うはずがない。


「ネロ、今なんてー」


「考えてみるよ、そういったんだ」ネロは微笑んだ。「だけど、わかるだろう、僕一人の力じゃ、どうにもならないシステムになってるんだ。何かことを決めるときは、議会を通したり、元老院を納得させたり、いろいろやんなきゃいけないんだよ。」


 私によくしてくれるネロ。私を探し続けていたネロ。殺すどころか、救ってくれたネロー彼をこれ以上困らせて、嫌われるようなことをしてはいけない。


                          *


それから三日後のことだった。湖の淵でうとうととまどろんでいると、ネロがやってきて、友よ!と私を抱きしめてから、これから議会なんだ、君の処遇について、とことん交渉してくるからさ!と元気な小学六年生みたいに言い残して、出征する兵士のように喜び勇んで駆け出していった。


 その数時間後にネロがやってきて、「ごめんよ、アラン。力が足りなかったみたいだ」と苦しそうな顔で謝った。それから「君は僕にとって、また現政権の危険な政敵になりうる、ということで議会の意見は一致したんだ」といった。

 

 私は聞きちがえて、「素敵だって?」といったが、ネロは悲しそうに首を振るだけだった。

 

 私は牢獄に放り投げられた。ネロは「わかってくれるね?君ならこの心の痛みを、わかってくれるね?」ということを繰り返した。私は「うん、わかるよ、わかるよ」という答えを、最後まで、繰り返し続けた。ニコニコと、ただひたすら、穏やかな物腰で。


「必ず君を助けるから」ネロはそう言って、私の手を固く握った。「必ず助けに行くから」


                     *


 牢獄生活は大変規則正しいものだった。太陽が昇るのと同時に目覚め、ミルクをすすり、同居人のネズミにパン屑を捧げ、体育館でランニングをし、一人だけ取り残され、罰として獄守りのアレをしゃぶり、ひたすら椅子に座って封筒に折り目をつけ、シールを貼り、番号順に揃え、箱に詰め、掃除をし、夕食をとり、一人だけ時間内に食事を終えなかった罰として獄守りのアレを突っ込まれ、独房に入ってネズミを触り、噛まれ、くたびれて眠る。これは私がかつて一度も経験したことのない、模範的かつ奉仕的な生活であった。

 

 獄守りは私に一物を突っ込む時、「これは恩赦だ!」といった。「哀れなおまえの性欲を、特別に満たしてやっておるのだ!」

 

 私は「ありがとうございます!」と叫びながら恩赦を受けた。それが私の悲惨さを和らげてくれると思ったのだ。だがそうしたところで、大して代わり映えはしなかった。私の尻の穴は傷つき、かさぶただらけになった。

 

 私はやってきた大佐に、ネロが私の死刑をなんとかして回避しようと頑張っているのだという話を聞かされた。私は心からの感謝を示し、結果を待ち続けた。

 

 ある日、いつものように獄守りが私の穴に有無を言わさず突っ込もうとした時だった。私と獄守り二人は廊下の隅にいて、囚人たちは食堂に揃っているべき時間帯であった。

 

 だがその時、不意に長い髪の、赤ら顔の男がやってきて、獄守りの一人に向かって、「お皿が一枚、足りねえんですがね。」と平然と尋ねたのだった。


 獄守りのそれがしなびて行くのが感じられた。もう一人の獄守りが棒で男を殴りつけた。男はすっ転び、床に突っ伏した。そのモップのような姿に、私はハッとした。

 

 解放され、食堂に戻り、他人の小皿を取ろうとして暴れているその男をもう一度見た時、私は確信を抱いた。それはサリーに違いなかった。

 

                     *


 大佐が部下を引き連れて現れたのは、その三日後のことであった。彼はその長い条文を、明晰な口調で、しごく柔和に宣言した。私をどのような理由をもって、死刑に処することに決定したかについて、また執行が三日後であることについて。


「何か言い残したことはあるか?」大佐の言葉に、私はぼんやりと顔を上げた。


「ネロに伝言がある」私は呟いた。「死刑を止められなかったことを、私が怒ってると思ってるなら、それは間違いだって伝えて欲しい。本当に、君には感謝してるんだ。私を受け入れてくれたのは、君だけだったんだから。」


 大佐は丁寧に耳を傾けて聞いていたが、私の話が終わったのを確かめると、形式的に、「伝えておこう」といった。


 それから大佐は、「最後に食べたいものは?」といった。私は「カニが食べたい」と言った。大佐は神妙にうなづいて出て行った。


                      *


 その日以降、獄守りたちは私を犯すのをやめた。死刑の決まった私に対して、気を使っているらしかった。私は夕食時、獄守りの一人を呼びつけて、こう囁いた。


「良い穴は見つかりましたか?」


 獄守りは「なんだって?」と、張り裂けんばかりの大声で聞き返した。「ですから、私の代わりになるよい穴は、見つかりましたでしょうか?」


 獄守りは私を睨みつけた。私はニコニコして、「よい穴を知っているんですよ。191番の、海賊の男がいるでしょう。ほら、あの髭の長い、年老いた男ですよ。なかなかよい穴をしてるんです。」


 獄守りは今にも棒で私を殴らんとしていた。私は「まあ、一度、騙されたと思って」と言った。獄守りは疑り深い目で私を睨みつけていたが、棒を腰のベルトに仕舞いこむと、黙ってその場を去って行った。私は胸のすくような思いがした。と同時に、一仕事終えて、あとは死を待つだけのみとなったことが、冷たい牢獄の中、ひたすら堪えてくるのだった。


                      *


 その夜、私の元へ訪問客があった。その少年は、面会室に現れた途端、私の前にがくんとひざまづいて、深い深いお辞儀をした。彼はその若々しい顔面には似つかわしくない、ひどくしわがれた声で、名をナポレオンと名乗った。ナポレオンは興奮気味に、自分はボンドの家の召使いで、あの日あの船に乗って給仕の手伝いをしていたのだと説明した。私はようやく彼が、私の足場の板を外した、くだんの給仕であることに気が付いた。

 

「昨日、ボンド様の葬式を執り行いました。わたくしと、牧師の二人きりで。海賊の一人に、ボンド様の最期について聞かされました。あの人は自ら間違って、毒の酒を飲まれたのだと」


 私は俯いた。本当のことを言うべきかどうか迷った。だが私の気持ちをくみ取るように、少年は「ボンド様は王家の血統を守りきるために、最後まで、御身を尽くされた。」と言った。「あの方にとって、王家の存在は、誇りであり、拠り所でした。私めは、生前のボンド様から、ことづけを預かっておりました。それはもしボンド様の身に何かが起こった場合に、アラン様の御身と立場をお守りするように、という内容のものでした」


 私は汚れた黒い床を見つめた。そうして、拗ねた子供のようにつぶやいた。「私のような人間を王座に戻しても、誰のためにもなりはしない。私は見ての通り、誰にも必要とされぬ人間なんだ。」


「陛下。何をおっしゃるのです」ナポレオンは力を込めて言った。「あなたは王家の血統の意味をわかっておられない。それは、王国の心臓のようなものー」ナポレオンは言葉に力を込めた。「その死が意味するところは、この国が、何者でもなくなってしまうということに他ならない」


 私は彼の言葉を聞くうちに、だんだん気持ちよくなってきた。彼は無条件で私を尊敬するタイプの人間なのだ。そうだ、それこそ、今の私に必要な人間ではないか。


「謝るよ。王家の血をここで絶やしてしまうことを。」私はますますうちしおれたふりをして言った。「私が全てを、終わらせてしまった。」私は顔を上げた。「そうだ、もう血は途絶えてしまった。」


「いいえ、まだ、途絶えてはおりません。」


 ナポレオンの手に、信じがたいほど強い力が込められた。「陛下が生きておられる限り。」


 ナポレオンはそれから、手短に脱獄の計画を囁いた。それはたった一言で済む、簡潔な計画だった。彼は最後にこう締めくくった。「陛下、あなたにできることは、王家の血を守りきる事に他なりません。」

 

 ナポレオンは私の「だけど。」とか、「だがしかし。」とか、「そうはいっても」などという言葉から始まる弱音に、全く聞く耳を持たなかった。

 

 去りゆく背中に向けて、私は叫んだ。


「待ってくれ、一つ、聞き残したことがある」


「なんでしょう?」


「君は先ほどこう言った。私が船から飛び降りたのだと。」


 ナポレオンは不思議そうな顔をした。


「それが何か…?」


 私は燃えるような少年の瞳を見つめた。


「いいや、なんでもないんだ。きてくれて、本当にありがとう。」



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