9、猫より簡単な男
翌日の昼に目覚めた時、サリーの姿は消えていた。だが私はサリーの行方に思いを巡らす暇もなく、用意された服を受け取って、急いで昼食会場に向かわねばならなかった。
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用意されたのは真新しい王の燕尾服だった。恐る恐る鏡を覗きこむと、痩せて引き締まった顔つきに、王の服は以前よりもずっとふさわしく収まっているように思われた。すれ違う給仕や警備たちは、私に深々とお辞儀をした。
馬車の中で手渡された新聞には、一面に「王の帰還」と言う見出しと、みすぼらしいゴミのような男と、華麗な服に身を包み、瞳の中に星を書き込まれたネロが、しっかと抱き合っているイラストが、大きく印刷されていた。
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「陛下はようやく代償を払ったんでございますね?」ネロはワイングラスを傾けながらそう言った。ネロの横には美しい妻、クラリスが座っていた。
彼女のお腹は膨らんでいて、クラリスは3分ごとに、愛おしそうに腹をさすった。キッド船長は、ネロの膝の上でわがもの顔に眠っていた。昼食は蟹料理で、私はそれを左手のみでお上品に食べることができずにいた。
「陛下のすべての苦しみは、この日の幸福の代償だったのだと、そうは思いませぬか」
「ああ、そう思う」
「顔つきが精悍になられました。体もずいぶん引き締まって、男らしくなったようでございます。右腕のことは、残念でしたが。」
私は大広間のステンドグラスから差し込む、まばゆい日差しの輝きに目を奪われた。この国がこんなに潔く晴れることは珍しかった。私が王座にあった時には、毎日陰惨な雨ばかりが降った。だが今、太陽の光はこの前途有望な若い夫婦の上に降り注いでいた。私の席はちょうど柱の陰であったので、日差しを浴びることはなかった。
「世界はうまくできています。辛い思いをした人間が、結局は報われるようにできているのです」
ネロは執拗に繰り返した。私は陰鬱な柱の陰で、ひたすらうなづかねばならなかった。夫婦は全く美男美女であり、旦那は皇帝、新妻クラリスは女優だった。赤ん坊は半年後に生まれることになっていて、男の子だという。後ろに控える侍従たちからは、ネロへの忠誠心が手に取るように溢れ出していた。
「陛下は全く、奇跡を起こされました。国民はいたく感動しております。これまでの苦労は、貴方を英雄に押し上げるのに違いありませぬ。以前よりもずっと、今の陛下は王様にふさわしい人間に生まれ変わったのであります」
「ああ、そうだといいんだが…」
手が滑って、私は蟹の殻を床に落としてしまった。
「すぐに義手を作らせよう」
蟹の身をすすりながらネロは言った。その横で妻クラリスが、美しいしなやかな指で蟹の足をかいがいしく折り続けている。パキリ、ポキリ。だだっ広い広間に、蟹の音だけが響いていた。クラリスは私に向かって、新しい蟹の鋏を差し出した。私はドギマギしながらそれを受け取った。
「ネロ、君は」私は勇気を出して核心に触れた。「てっきり、私を殺す気なんだと、そう思っていた」
「どうしてです」
「君が、血統を憎んでいるんだと」
「よしてくださいませ」
ネロがクラリスに向かって視線を送る。クラリスは一礼してから退場した。ネロは私に数センチ椅子を寄せて、
「あの日のことを覚えておりますか」
ネロの胸元で、革命軍のバッジが輝いた。
「陛下が船から飛び降りた、あの日のことです。」
「飛び降りたのではないよ、ネロ。私の記憶ではー」
「アランドラ陛下」ネロは私の手をとった。「混乱するのもわかります。人間の記憶というのは、感情によって作り変えられるものでございますから」
「だけど、私の覚えている限りではー」私は言いかけて、喉を詰まらせた。
「いってくださいませ、どうぞ、遠慮なさらずに」ネロは優しく、包み込むようにそう言った。私はまるで自分が分裂症の精神病患者か何かのように思えてならなかった。私はワインを流し込むと、一気にまくし立てた。
「君が私を追放した。君が私を殺そうとしたんだ。私を船から落とし、君は私の骨を、王家が完全に消滅した証拠として、手に入れようとー」
最後まで言い切ることができなかった。自分の記憶に自信が持てなくなっていた。確かに私の置かれていた状況は、異常なものだった。今では、あの島の出来事さえ、すべてが遠い夢のように思えてくるのだった。
「陛下。辛いことでございます。」ネロが耳元で囁いた。「君は心に深い傷を負っている。そして、誰かを悪者にしなくちゃ、たまらないんだ。」彼は親しげに話しはじめた。
「ああ、友よ。僕は、君のためになら、悪者にだってなるよ。だけど、これだけはわかってほしい」ネロはぎゅっと手を握った。「本当に、僕には、君にしか話せないことがたくさんあるんだよ。ほら、僕たちはかつて、よく語り合っただろう。死について、恋について、どうしようもならないことについて…そんなことを話せる人は、君の他にはいないんだ。」
ネロの切実な声色に、嘘はないように思えて、私はひどく心を揺さぶられた。ネロを許そう、そういう思いが、制御できない場所で、ゆっくりと膨らんでいくのがわかった。私は急に、自分が矮小な、恥ずかしいものに思えてきた。実際、私にもずいぶん落ち度があった。
「ネロ。」
「なんだい」
「私も、聞いてほしいことがうんざりするほど溜まってるんだよ。島でのこと、それから、君にずっと嫉妬してたことやなんかー」
「聞かせてくれないか。」ネロはワインを注いだ。「今日は君のために、すべての公務を休みにしよう」
私はずっと乾いていた砂漠のような心に、うるおいがもたらされるのを感じた。私は許されたのだ。この瞬間、すべては遠い過去となり、友と語り合うこの時間だけが真実になった。




