7、ネロ!
船が入港したのは夕方だった。懐かしい鐘楼の音が聞こえてくる。それは広場にそびえ立つ赤レンガの鐘楼が、三時のおやつを告げる音であった。
私とサリーを積んだ積荷は布をかけられ、荷馬車で街の中を運ばれていった。外の様子は伺い知ることができなかった。追いかけっこに励む子供達の愉快な叫び声や、せわしなく行き交う馬車の蹄の音、商人が客を呼び止める賑やかな声が聞こえた。国は活気に満ちあふれ、平和そのもののように思えた。
私はきっと暗い地下牢へ連れて行かれるのだろうと考えた。だが実際に連れて行かれたのは、かつて私が国賓をもてなすのによく使った、最高級ホテルのスイートルームであった。
大佐が現れ、風呂に入るよう私たちに命じた。一時間後には皇帝がいらっしゃるので、身だしなみを整えておくように。それだけを言い残し、大佐は気持ちのいいくらいに蔑むような目を私とサリーに向けて、扉を閉めた。
私はわけのわからぬまま、とりあえず風呂へ入った。暖かいお湯でヒゲを剃り、鏡を覗き込んだとき、自分は随分長い夢を見ていたのではないかという錯覚にとらわれた。そして、またいつもの王としての一日が始まるのではないかと。
風呂場を出ると、部屋はヒッチャカメッチャカに荒らされていた。引き出しは一つ残らず床に投げ出され、カーテンはレールごと床に落下し、ピアノは重力に逆らうように逆さまにひっくり返されていた。
「気でも違ったのか?」
立ち尽くす私に向かって、サリーは「チッ」と、にくらしそうに吐き捨てると、言った。「これは罠だ」
そのとき、扉が開いて、ボーイが食事を運んできた。目の前のテーブルには、濃いホッとコーヒー、イチゴと生クリームを惜しげも無く積み重ねたケーキ、肉汁のしみだす分厚い牛ステーキ、そういう見ているだけで自然と唾の出てくるような料理が、隙間無く並べられていった。
私の腹はぐるぐる鳴った。サリーの腹も、狂った雷雲みたいに鳴った。
ボーイが出て行くと、私たちは勢いよく料理に飛びついた。サリーは一口かじるごとに、「これは罠なんだ」と自らを戒めるようにつぶやいた。だがそれもだんだん減っていき、最後にはとうとう無口になった。
すべてを食べつくしてしまうと、私たちはすっかり抜け殻のようになった。サリーは思い出したように、天井を見つめながら「これは罠なんだ」と、長いげっぷとともにつぶやいた。
「ギロチンかな、それとも、火あぶりだろうか。縛り首かな。それとも、首を晒すのだろうか?」私は誰にともなくつぶやいた。
窓から、黄昏の中に沈む円形広場を見下ろした。部屋は12階にあって、行き交う人々は小さく、アリンコのように見えた。この平和な街の広場に、私の首が置かれるのを想像しようとしてみたが、イマイチ現実味を欠いていた。そのとき、ガラスにネロの顔が映ったような気がして、はっと振り返ったが、そこには皿を片付けるボーイと、タバコを吸うサリーしかいなかった。
突然グラスの割れる音がして、「罠だ!」とサリーの叫ぶ声がした。はっと振り返ると、しゃぶり尽くしたチキンの骨や、溶けきったアイスクリームをそこらじゅうに散らかしながら、サリーがボーイに覆いかぶさっているのだった。私はぽかんと揉みあう二人の様子を見つめていた。
サリーがボーイのハンチング帽をひっつかんで、投げ捨てた。ツヤのある金髪が溢れ出して、青い瞳が私をさっと捉えた。私は一瞬、心臓が止まりそうなほど驚いた。ネロー?だが、よく見るとなんのことはない、彼は全くの別人だった。
サリーはボーイの背に馬乗りになって、その両手首を押さえつけながら叫んだ。
「私は何もー」ボーイは痛みに呻いた。
「落ち着けよ、サリー!」
「やあ、楽しそうだね!」
はっと目の覚めるような声に、私の全意識は戸口の方へと惹きつけられた。
そこには本物のネロが、立っていた。
緑染めのビロードの軍服に身を包み、腰には純白の飾り帯を巻き、ハイヒールのようにとんがった靴を履いている。前よりも少し、痩せたように見える。しかし、余計な肉の削げ落ちたせいで、猫のようないたずらっぽい瞳の輝きや、精悍なほほ骨、左右対称に二つに割れた金色の髭などが強調され、以前にも増して、その表情に精彩を加えている。
「ああ、陛下、国王陛下!」
ネロは私を強く抱きしめた。それから彼は、人懐っこい笑顔を浮かべて、抱きしめたり、離したり、涙を浮かべたりした。私はすっかり混乱して、しばらくされるがままにされていた。




