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カニ王  作者: ねずみ
第三部 脱皮
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6、ハサミは生えてこない


 ラッキーは慌てて自分の体の無事をあちこち触って確かめはじめた。ラウルは散らばる紙ふぶきを狂ったようにかき集めた。


「こりゃあたまげた」モドルジがゴクリと唾を飲み込んで私の前から立ち上がった。


 モドルジが両手を上げて「同志、夜分お騒がせして申し訳にゃあ」と図々しい、ハキハキした態度で言った。


「よろしければ、我々の船で少しお話をばー」海賊王はモドルジが言い終わらぬうちに、彼の足の周りに三

連発をお見舞いした。


「サミシイヨ、オカーチャン」鸚鵡が凶悪な目つきで叫んだ。「オカーチャン、サミシイ…」


 鸚鵡が言い終わるのを待ってから、海賊王は暴れまわるラッキーの足元にまた連続で三発撃った。鸚鵡の言葉と、海賊王の意思とは、まるで一致していないようだった。


 モドルジが素早く腰の銃を抜いた。だがその銃も、構える間に撃ち落とされてしまった。


 その時、森の奥から強い風が吹いてきて、海賊王の前髪を揺らした。その額がむき出しになって、そこに

あるはずのない、大きな目玉がぎょろりと輝いた。


 誰もが、自分一人でそれを見たのなら、一瞬の幻覚だと思ったであろう。けれども、ここにいるすべての人間が、ひとしく恐怖を共有していた。それは互いの目撃したものが事実であることの、何よりの証明であった。


 次の瞬間、モドルジは仲間を置いて一目散に駆け出した。ラッキーが慌ててその後を追い、ラウルが紙ふぶきを撒き散らしながらその後に続いた。


 私は彼を呆然と見つめた。相手の方でもまた、同じように私をじっと見下ろしていた。私はどうすれば良いかわからなかった。やがて彼はゆっくり銃を構え、私の頭に狙いをつけた。


「いいさ」私はこめかみを震える指で指し示した。「ぜひ、やってくれ給え」


 サリーはじっと黙っていた。鸚鵡もまた同様だった。


「これ以上生きていたって」私はその場に突っ伏した。「ハサミは生えてこないんだ」


 彼は迷いなく引き金を引いた。


 巻き上がる硝煙の中、そっと目を開けた。地面には、粉々に砕けたダイヤが、きらめくクズとなって私の周囲に散らばっていた。


「ウセロ」鸚鵡が冷たく吐き捨てた。サリーはそのまま背中をくるりと向けた。


 それは私にとって、こめかみを撃ちぬかれることと、同じくらい辛いことと言っても、決して言い過ぎで

はなかった。私は気づけば駆け出していた。


 私はその短い毛の生え揃った醜い背中に向かって、思いっきり飛び込んだ。驚いた鸚鵡が極彩色の羽根を落としながら低空に舞い上がった。驚いた海賊王の手から銃が滑り落ちる。海賊王が慌てて手を伸ばす。そうはさせるか、と私は彼の頬に平手打ちを食らわせた。海賊王がうんうんうめいている間に、私はすかさずぐっと左腕を伸ばしてそれをつかんだ。


 私は海賊王の目玉に銃口をぐいと突きつけた。三つ目のそれは悲しそうに涙を流した。まつ毛がパチパチ上下して、白目は真っ赤に充血していた。途端、私は彼をかわいそうに思った。

 その時、頭上から大きな網が降ってきた。網はみるみるうちにすぼんで行って、私たちの動きを封じた。周囲を、無数の明るい光が取り囲んでいた。緑色の軍服に身を包んだ海軍兵たちが、ピストルを構えてずらっと立っていた。


                     *


 狭い檻に海賊王といっしょに閉じ込められ、船倉に積み込まれた。何に別れを告げる間もなく、船はあっという間に錨をあげて走り出した。

 

 暑くて暑くてたまらなかった。船倉には窓がなく、天井に入り口が一つあるだけだった。お尻の下でモーターが波を掻く音が、静かに鳴り響いていた。暗闇の中、重たい海賊王の唸るような鼻息が、潮騒の合間に漏れ聞こえてくるのみだった。私は獣のような彼がいつ襲ってくるやもしれんと、隅っこにうずくまって震えていたが、やがて彼の呑気ないびきに緊張感も途切れ、いつの間にか浅い眠りに落ちていった。


                     *


 真夜中、あまりの寒さに目を覚ました。ずいぶん長い時間が流れたように思う。船は死んだように静まり返っていた。わたしはちらっ、ちらっと隣を見た。闇の塊は依然として動く気配がなかった。しかし、暗がりの中で目をこらすと、闇の中に光る三つの目玉が、じっとこちらを見ているのに気がついた。

 

 しかし私は、恐怖が今では霧のように薄らぎ、それどころか彼に対して、同じ穴の狢としての、ささやかな親愛の情さえ感じている自分に気がついて、こう声をかけてみた。


「おい、君」私はぽつねんとつぶやいてみた。「君、確か、サリーといったねー」


 しかしサリーは答えなかった。


「なぜ知っているか?なぜと思う?」


「…」


「悪いが、必要にかられて、君のサイン帳を、少し拝見させてもらった」私はここで一つ、はっきりさせておくつもりであった。「ずいぶん優秀な、信頼の厚い船長だったようだね」


「…」


「君の腕なら、例えば、どこかで、脱走、ということもできるのではないか、どうだね?」


「…」


「今までのことは、お互い、なかったことにして、力を合わせて、助け合わないか。ね、ほら、落ちぶれた王様同士で、そうするべきと思わないか?もちろん王様と言っても、意味合いは違うけれどもーああ、君の方がもちろん、真の意味での王だとそう思ってる、ということだけどね」


 サリーは答えなかった。諦めて横たわろうとした時、不意に彼が言った。 


「タバコをくれ」


 私はビクッとして起き上がった。


「タバコをくれ」


 私はサリーがブルブル震えているのに気がついた。


「なぜ、持っていると思うんだ」


 サリーはじっと私を見ていた。私は手を広げて、野蛮人どもにやって見せたように、ジェスチャーで「持っていない」ことを伝えようとした。


 すると、サリーは何か言う代わりに、私の後ろを指し示した。我々の檻から少し離れた場所に、紐でぎちぎちに締め付けられた、紙包みの束があった。手を伸ばしても、あと一歩のところで、届かない。私は顔を戻して、「悪いがね」と言った。


 彼はむくっと起き上がった。闇の塊がそこだけ不意に、切り取られたかのようだった。サリーは檻の格子を握りしめて、そこへトカゲか何かのように飛びついた。私はぎょっとした。檻が徐々に右へ傾いてゆく。船の揺れに合わせてサリーが力んだ。檻は彼の体重に圧されて、ガタンと前へ一回転した。私は身を守る暇もなく、関節をあちこちへぶつけてしまった。

 

 サリーは腐ったような巻き爪で、包み紙を何度も引っ掻いてこじ開けた。箱の中から出てきたのは、タバコと、数本の安いワインボトルだった。サリーは一人で酒盛りを始めた。私はもうすっかり会話をする気力を失ってしまって、檻の隅にうずくまった。

 

 トントン、と床を叩く音がした。振り向くと、闇の中で、タバコの火だけが煌々と、あかるくかがやいているのであった。彼は無言のうちに、指で床に架空の線を引いて見せた。


 どうやら、ここより先は俺の領地であるから、お前は入ってくるな、とそういうことを言いたいらしかった。

 

 凍えそうな寒さの中、サリーのタバコの炎が、闇の中で蛍のようにジリジリと光った。吐き出す白い煙が揺らめいた。

 

 サリーはそれっきり、港に着くまで、一言も口をきかなかった。私は丸まりきれないダンゴムシみたいに床に転がって、音もなく絶望の涙を垂れ流し続けた。



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