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カニ王  作者: ねずみ
第二部 寄生
28/47

10、君がコーヒー豆を詰めてもらうには


 ある晩、ホウキが私を夜釣りに誘った。

 

 その時すでに、ホウキは村の子供達の間に、「ミンシュシュギ」を流行らせていた。喧嘩が起こったらすぐさますっ飛んで行って、喧嘩の原因となっている問題ーバナナの取り合いや、ボール蹴りのチーム分けなどーを、その場にいる者たちの投票で解決させるのである。そして、不公平な弱者が出ないよう、取り計らうのであった。

 

 ホウキはズルをしようとするものを見つけ次第、厳しく鞭打ちの刑で罰した。相手が子供でも、決して容赦はしなかった。

 

 その結果、ホウキは子供達からの尊敬を集めることとなった。それを聞いた一部の大人たちからも、同じように感謝を受けた。

 

 ホウキはもう以前のように弱々しい、いじめられっ子ではなくなっていた。活力と自信に満ちた、革命家の卵であった。

 

 二人乗りのカヌーは沖へ沖へとゆっくり進んでいった。こうして静かに向き合って話すのは、久しぶりのことであった。

 

 以前に比べて、仕草がずいぶんしなやかになり、態度も落ち着いたように見えた。果物から抽出した染料をもとに、上品な西洋風の化粧も施されている。目元は海の蒼色に塗られ、紅は南国らしい赤色に染められている。


 髪の毛は綺麗な一つ結びでまとめられ、服装も以前のように胸をむき出しにすることはせず、うさぎの毛皮をワンピースのようにしてきているのであった。

 

それからホウキは随分上手になった言葉で、こう言った。


「ねえあなた、どうして狩りなんか始めたの?」


「ねえあなた」なんて、随分気取った言い回しを使うようになったじゃないか。そう思ったが、黙っておいた。多分、前は読めなかった小説か何かでも読んだんだろう。


「ねえアラン。あなたが狩りやなんか、することないのに。」


「なぜそう思うんだい」


「だって、そうじゃない。そういうのは、あなたの仕事じゃないと思うわ。あなたの仕事は、ここにはない概念や価値観を持ち込んで、ここの暮らしをもっともっと良くすることよ。みんなと一緒になってちゃ、意味ないわ」


 私はそうかね、と言ってそっぽを向いた。なんだか、自分が彼女に言い負かされているような気がしたのだ。


「ねえ、アラン。エーミール・バチェットの本は読んだことある?」


「誰だねそいつは?」


「エーミール・バチェットよ。アマゾンの学者で農業革命家でもあるわ。『労働大革命』を書いた人。『食べることと殺すことは一体であり、マクロとミクロであり、まさに母と娘である。』」


「さあ、なんだかさっぱりだね」


「じゃあ、ロイ・アンドレは?『屠殺論』の人よ。『我々人間一族は、進歩すればするほどに、野蛮人となってゆく。その理由は、同じ生命の持ち主である獣の屠殺を見なくとも、満足行くだけの食事ができるようになってしまったという、その事実にある。』」


「ねえホウキ、君は少し、かんがえすぎではないのかね。」


「知らないのね。」


「ああ、知らないよ。知る必要もないね」


 そう、ならいいけど、と言って、ホウキはそっぽを向いた。


「君こそ」私はすっかり気を悪くしていた。「君こそ、あまり勉強に精を出さない方がいいんじゃないか」


「あら、どうしてなの?」


「それだよその話し方だよ。前の君の方が、味があってさ。今じゃあ下品な娼婦と話しているみたいだ。知ったばかりの生半可な知識を、偉そうに見せびらかしてさ。そんな女なら、陸の上に、飽きるほど生息しているんだよ」


 ホウキは黙って聞いていたが、やがて物分かりの良い女のような口調でいった。


「ねえ、あたし、こんな風に無駄な喧嘩をするつもりで呼び出したんじゃないわ」ホウキは海水をなでるように触れた。「アランのこと、みんながどう裏で言っているか、知ってるの。」


 心臓が跳ね上がるのを感じた。私は冷静を装って、「知らない」と言った。するとホウキは、「めくらぶた、って、そう言ってるのよ」と言った。


「嘘だ」


「嘘じゃないわ、あたし兄さんに聞いたんだもの。あいつはやっぱり英雄なんかじゃない、食えないめくらぶたなんだって。アランが熊をやっつけた話は、あたしの作り話なんだって、そういうのよ。ねえ知っている?めくらぶたって、狩りに連れて行って、大きな獲物が飛び出してきた時に、囮に使うものなのよ」


 私はこみ上げる涙を飲み込んだ。ホウキに動揺を悟られまいとした。しかし、こみ上げる悲しみと苦しみは私の拳を震わせた。ホウキは黙っていた。その気遣いの沈黙が一層、痛々しさを際立たせた。私はあの、皆で火を囲んだ美しい夜のことを思い出して、一層自分が惨めになった。


 それからしばらく黙っていたが、私は意を決して、というか半ばやけくそに、つぶやいた。


「熊を殺そう」


 ホウキは信じられないという顔で私を見上げた。


「あなたには無理だと思うわ」


 今度は私がホウキを見つめる番だった。


「なんでそんなこと」私は慟哭した。涙は次から次へと流れ落ちた。「なんでそんなことを言う?」


 ホウキが慰めるように私の手を握りしめた。


「ねえアラン。あなたはあたしの英雄よ。それじゃダメなの?」


「…」


 それからホウキはまた、オールをこぎ始めた。私はその瞳に深い悲しみの光が浮かんだのを見逃さなかった。しかし、今の私には、それをどうしようもできなかった。熊を倒すのが、すべての解決になると信じて疑わなかった。


 私はいよいよ勇んで、「みんなを連れて行くんだ。見せつけてやる。半分の目を潰したんだ。後はもう半分をやるだけだ。お前もくるね。」と言った。


 しかしホウキは答えなかった。そのままカヌーは水面の月を崩しながら、陸へとゆっくり進んでいった。


                        *


 我々一行が村を出たのは、それから三日後の朝早くのことだった。私はいつでも群れから逃げ出せるように、一番うしろを歩いていた。「めくらぶた」は誰とも口をきかなかった。オメガが心配して、何度か水を差し出してきたが、全て断った。彼らの囁く言葉が「めくらぶた」に聞こえてきて、耳をふさいでしまいたくなった。

 

 険しい獣道を何度も通り抜け、熊笹の森へたどり着いたのは、二日後の夕暮れのことだった。我々はそこから少し離れた砂浜で、野宿をすることになった。

 

 私は焚き火から少し離れた切り株の上で、呆然と波を見つめていた。足元には、ナイフと弓矢、槍が置いてあった。

 

 陰気なヤドカリがのろのろと歩いていた。人影が目の前を覆って、ヤドカリがさっと殻に隠れた。


「アラン」ホウキが優しく名前を呼んだ。「今ならまだ、引き返せるわ。みんなもあなたを心配してる。無理しないでいいって。」


 私は答えずに、手近な石を拾い上げて、海に向かって投げ始めた。小石が3回跳ねたら、私は熊を殺せる。だが、小石は一回で沈んでしまった。いや、やっぱりこれは、三回勝負だ。いや、三回跳ねるのはではなく、一回でも跳ねたら良いことにしようー


「ねえアラン…」


「世の中って、こういうものだ」私は石を投げるのをやめた。「地位を得たり、目に見えるものを勝ち取らなければ、誰もお前に笑いかけたり、道を譲ったり、紙袋にコーヒー豆を詰めてくれたり、お茶に誘ったりなんかしてくれないんだ」


 ホウキは静かに耳を傾けていた。


「でもそれでいいんだ、それは正しいことなんだ。お前にできることは、そういう、自分も含めて、結果でしか見れない世間を、人間という愚かな生き物を、精一杯心のうちで、見下し、馬鹿にして、自分だけはそこに囚われないようにって、踏ん張ることだけなんだよ。なあ、ホウキ。わかるね?お前だけは、みんなと一緒になって欲しくないんだよ。わかるね。つまり、お前は熊を仕留める私も、仕留められない私のことも、同じような気持ちで見つめなくちゃいけないんだよ」


「…わかったわ。」


「さあ、もう寝よう」


 私はゴロンと横になった。「あたしもここで寝ていい?」


「ダメだ。お前は兄さんと一緒に寝るんだ。さあ、おやすみ。」


 ホウキは言うことを聞いて、向こうの方へ駆けて行った。私は一人ぼっちで、湿ったバナナの葉っぱにくるまって目を閉じた。



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