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カニ王  作者: ねずみ
第二部 寄生
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9、カクレガニ的生き方

 

 それからあっという間に一ヶ月がすぎた。

 

 私はあの日から、皆が寝静まっている昼頃に、一人で狩りの鍛錬を積んでいた。またああいう風に見下されては叶わぬと思ったのと、このまま何もせずに食事と寝床を貪るだけで、あの栄光を保ち続けることは、さすがに不可能だと感じたからである。しかし何より私を動かす元となっていたものは、日々心の底に沈殿してゆく、漠然とした不安であった。その不安は、自分だけが世間に置いてきぼりにされるのではないかという、かつて宮廷の王座の上で感じ続けていたものと、全く同質の不安であった。

 

 しかし上達の気配は一向に見られなかった。さらに悪いことには、私はうさぎやリスなどの獣たちを殺すことに対して、躊躇せずにはおられなかった。矢が喉を貫く時の悲鳴や、傷口から噴き出す血しぶきは、私にやるせない苦しみと、針のような罪の意識を与えた。

 

 獣たちは私からいい加減なところまで逃げ切ると、あとは草むらの陰からそっとこちらを見つめているのであった。その目はまるで、私の生きてきた軌跡もひっくるめて、私という狩人のすべてを嘲笑しているみたいに見えた。

 

 ある日の夕方のこと、バッタ三匹しか仕留めることができないまま、疲れ果てて帰ろうとしていた時だった。背後の物音に気付いてハッと振り向くと、背中に弓を背負ったオメガが、ガムの実をくちゃくちゃ噛みながら、じっと木の上から、こちらを見下ろしているのである。その顔には薄ら笑いが浮かんでいた。私はとっさに、薄ら笑いで返した。

 

 するとオメガは飛び降りてきて、草陰に潜んでいたノネズミを一匹仕留めた。それから間髪入れずに、穴の中から飛び出してきたキツツキを仕留めた。

 

 私はオメガが殊勝な様子で狩りを披露する姿を、おとなしく見守っていた。オメガは私の方を振り向いて、どうだ、という顔をした。私は言葉の代わりに、拍手をしてやった。するとオメガは、今まで一度も見たことのない、くしゃっとした、人懐っこい笑顔を見せた。私は思いがけず、その笑顔に心を打たれた。私も素直な気持ちになって、笑顔で答えた。するとオメガはついてこい、という仕草をした。

 

 それから毎日我々は、同じ時間、同じ場所に待ち合わせをして、狩りへ出た。オメガは次々にうさぎや鳥を射抜いていった。彼の狙いは正確であった。一瞬で急所を射抜き、無用の苦しみを与えずに殺す。私は彼を真似て、狩りの鍛錬をした。

 

 彼の矢捌きを見続けているうちに、私の中で、何かわだかまりのようなものがなくなってゆくのが感じられた。殺す事に対し、罪悪感を覚える事は、不必要な事である。そしてそれは文明人の抱く、傲慢な偽善というものである。私はまたもや、教えられたのだ。真に生きるという事は、こうして殺し、食うという、それだけのシンプルな事なのであるのに。

 

 やがてわずかながらではあるが、私の腕前も徐々に上達していった。気づけば他の仲間たちと合流して、集団で狩りに出かけるようになった。彼らは皆私に優しくした。私が下手くそな腕前を披露しても、誰も文句を言ったりするものはいなかった。彼らの私に向ける眼差しからは以前のような尊敬の念は消えてしまったが、代わりに深い、慈しむような友愛の情が浮かんでいた。

 

 食事も自動的に運ばれてくることはなくなり、自分の足で村へ下りていき、先輩狩人たちのとった魚や肉の切れ端を分けてもらうようになっていた。私はしかし、不思議とその事を不愉快には感じなかった。

 

 私はおごり高ぶる事をもうやめようと思った。私は一番下っ端に立ち、可愛がられる事が、自分にとって何より生きやすいやり方であると気がつき始めた。


                       *


 月の高い晩のことだった。その日は長い狩りを終え、狩人たちは焚き火を囲み、互いの健闘を祝っていた。

 

 大きな豚が見つかった喜びに、皆が陽気に踊ったり歌ったりして、楽しげな様相を呈していた。私は特に狩りで活躍もせぬままだったので、どう振る舞えばよいのかわからずに、少し離れたパンダナスの葉の陰で一人、ちびちびとアサリの味噌汁を舐めながら、その様子をおとなしく見守っていた。

 

 オメガが隣にどかっと座って、私の肩を抱いた。オメガは、自分の婚約者だという、女を連れていた。見ると、私の部屋にやってきた、あの美少女ではないか。私はすっかり裏切られたような気分になった。

 

 するとオメガが輪を指差して、突然、「セイシュン。セイシュン。」と言った。

 

 その言葉は、まさに私の最大の弱点を指し、貫くものだった。私には青春など一秒たりともなかった。心から信頼し、支え合う仲間など、今まで一人だっていなかった。だからこそ、私は長い間そういうものを欲していたのだ。若いうちにしか手に入らない輝き。一生心に焼き付いて離れぬ輝かしい思い出ー悲しいことや、辛い事、耐えられない事が起きたとしても、胸のうちから取り出して、眺めわたして、人生を生きていく事ができるもの。あの輝きはもう手に入らないのだと、思い出して、悲しむ事ができるもの。私には、そういうものが、一つもなかった。そんな私の複雑な胸のうちを察したのか、オメガは突然態度を変えて、優しく微笑んだ。

 

 オメガとその婚約者は、盛り上がる輪の中へ私を連れて行った。村人たちが私の方を振り向いた。彼らは私のために尻を動かして席を空けた。

 

 私はその時、こみ上げてくる熱いものを感じた。それは言葉にできない種類のものだった。


 仲間と酒を浴びるように飲みながら、熱気の中で、今自分はここにいていい人間なのだと、この尻を落ち着けた場所は、たとえそれが望んだものーあの立派なビロードの王座の椅子ではなくとも、それが私のために開けられた狭い、尻と空き瓶と食べかすの乗った皿の間の、ささくれだった木のトゲの刺さる、小さな小さな場所であろうともーそれは私が血統によって与えられたものではなく、自分の行いによってやっとの事で手に入れた、私の座る場所なのだという思いが、私の心を狂おしいほどに震わせた。

 

 私はみんなと一緒になって笑った。その時、私の心に宿ったのは、ずっとここにいてもいいかもしれないという、微かな思いだった。

 

 不意にジャリっとしたものが歯にあたって、口から出してみると、それは小さな蟹だった。隣で酒を浴びるようにあおっていたオメガが、ろれつの回りきらぬ舌で、「カクレガニ。」と言った。それは確かに、貝に寄生する一生を選んだ、小さな居候の蟹だった。安全と引き換えに、大きくなることを捨てる生き方。それをどうして、誰に悪いと決め付けられようか。


                        


 

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