6、ダイヤとの別れ
夜明け間際のことだった。
私は寝床から何度も立ち上がって、村からの道をあの美少女が今一度上がってはこないものかと何度も確かめていたせいで、すっかり疲れ果てていた。そして、ようやく諦めがついて、深く眠りかけていた、その時であった。
「アラン。アラン。」耳元で囁く声に目を覚ますと、疲れたような顔をしたホウキが、私を覗き込んでいた。
ホウキは私の眼の前に、ダイヤを突きつけた。そして執拗に「ホウキ。イロ。ミエル。」と繰り返した。
「なんだって?」
「ダイヤ、ホウキ、イロ、ミエル」
ホウキは激しく興奮していた。
支離滅裂なホウキの説明をやっとの思いで解読し、まとめると、どうやらダイヤが一種の色覚調整レンズの役割を果たし、ダイヤ越しに見ると、ホウキの色盲の目にも、色を見ることができるという、そういうことらしかった。
「ホウキ、イロ。シリタイ。ネ、アラン。」
ホウキは私を連れ回しながら、ダイヤ越しに夜明けの島のあちこちを見つめ、指差して、あれは何色というのか。それは何色というのか。と私に尋ねた。私はそのたび、丁寧に答えてやった。
ホウキにとって、それは新たな世界との出会いであった。うす闇に浮かび始めるほのかなピンク色の雲や、まだ熟す前のバナナの青色、頭上を飛んで行く小鳥たちの水色の羽や、草むらに茂る緑色。
だが、説明しながらも、どこかで、果たして私のみている色と、ホウキの見ている色とは、全く一緒なのだろうかという不安を、拭うことができないのだった。それをどうして確かめようがあろう?私は突然、信じていた世界が揺らぐような不安に襲われて、ホウキの手をぎゅっと握りしめた。
「これを見ろ」私は足元を歩く、一匹のカニを指差した。「こいつは赤い。人に流れる血の色だ。それから燃え上がる炎の色、太陽の色だ。流れるマグマの色だ。」
「アカ。チ。ホノオ。タイヨウ。」ホウキは口の中で、言葉を吟味するように繰り返した。それは小さな子が初めて口にした飴玉を、恐る恐るながらも、舌の上でコロコロ転がしている仕草に似ていた。「カニ。アカ。カニ。アカ。」
ホウキはダイヤをかざして、私を見つめた。そうして、嬉しそうに、「アラン。ナニイロ?」
「肌色だ。クリーム色。砂の色。」
「ハダ。クリーム。スナ。」ホウキは繰り返した。「ホウキ、アラン、チガウ、イロ。」
ホウキはそれから狂ったように駆け出していった。制止も聞かずに、私を置いて、どんどん遠くへ走って行って、しまいには、米粒くらいの大きさになった。
「待て、待たないか!」
私は必死にそのあとを追った。砂に足を取られて、もつれながらも先へ進んだ。ホウキは砂の上に足を投げ出して、明るみ始めた空をぼけっと見上げていた。私の姿を見つけると、黄色い犬歯を見せてにっこり笑い、ダイヤを私の手に握らせた。
「アラン。アリガト。アリガト」
「どうして?もういらないのか」私は拍子抜けの思いで、ホウキを見つめた。
「アランノモノ」
巨大な雲が影になって、私たちを覆った。私は全てが灰色になった世界の中で、ふと、得体の知れぬ、底知れぬ畏れに包まれた。
その正体とは、ダイヤにふさわしい人間が実際は誰であるかを、知っている私自身であった。それはまさしく、目の前のホウキなのだ。彼女ほど、あの蟹のように、純真で、まっすぐなものはいない。ホウキは決して私のように意地汚くダイヤを欲しがらない。ダイヤを欲しがる人間は、もうその時点で、ダイヤにふさわしい人間ではなくなっているのだ。
私は衝動的にホウキの手をとって、私は、「イチ、ニー、サン、シー、ゴー、」と言った。そして、ダイヤを握らせて、「ホラ。」と言った。ホウキは私をしずしずと見上げた。
「お前にあげる」
ホウキはびっくりしたようだった。私を見つめ、ごくん、と息を飲んだ。
「イツカ、カエス?」
「返さなくていい。お前のものだ」
ホウキは言葉を探しているようだった。だが、ちょうど良い言葉が、見つからないようだった。「いいんだ。ホウキ。何も言うな。」私は呟いた。「何も言うな。」
するとホウキは、何かを決意したように、おもむろに私を木陰に誘った。何かと思ってついて行くと、ホウキは腰布を脱いで、私に向かって股を広げているのであった。私は度肝を抜かれ、慌てて背を向けた。
「やめろ。そういうつもりじゃない」
「ダケド、アラン…」
「私を見くびるな」
私は木陰を飛び出した。ホウキが腰布を巻きつけて、後を追いかけてきた。雲が退けて、夜明けの光が私たちを包んだ。私たちは手をとりあい、一言も交わさずに歩き出した。
頭上に一つ、赤い巨星が光り、輝いた。ダイヤはあるべき場所に収まった。そして同時に、私は栄光に、また一歩近づいたのだと思えた。私は満たされていた。
*
それから一週間が過ぎた。私は毎日のように眠りを貪っていた。それでも自動的にたっぷりの料理が運ばれてくるので、すっかり健康を取り戻していた。しかしあの美少女はあれから一度も姿を現さなかったし、ホウキも三日前から姿を見せなかった。私はすっかり退屈しており、丘を下って村の様子を見てみることにした。
村はせいぜい宮廷の広間ほどの広さで、海沿いの森を切り倒した場所にあった。みすぼらしい藁の小屋がまばらに点在しており、豚や鶏があちこちで野放しにされている。彼らは夜行性で、夕方になると起き出して、夜になると狩りをしたり、お喋りをしたり、踊ったりして暮らしているようだった。まだようやく日が落ち始めた時間帯で、村の中は眠そうな顔をした人々で溢れている。獣の内臓を焼くような、香ばしい匂いが鼻をつく。
私はホウキに見つからぬように、かの美少女がどこかにいないかと、そっと木の陰からあたりの様子を伺った。しかし、私が目撃したものは、全く予想外のものであった。
ホウキがダイヤをネックレスのように首から下げて、村の中を意味もなく練り歩いているのである。ダイヤの輝きにつられるように、子供達が後から後からついて行く。ホウキはしかしツンとすまして、子供の誰にもダイヤを触らせようとはしない。久しぶりに見たホウキは、今や別人のように生き生きとして、肉付きも少し良くなったようだった。私は一瞬、心に微かなさざ波が立つのを感じた。
私を見ると、ホウキはいつものように目を輝かせて、駆け寄ってきた。
「アラン。今、オメガが、用意してるんだ」
ホウキの言葉はここ一週間のうちで、急激に上達していた。私は自分の教えが実を結んだのだと嬉しくなって、先ほどの動揺などすっかり忘れ、なんの用意だね、と尋ねた。
「狩りへ行くんだ。アランと、ホウキと、オメガ。オメガが、ホウキに進言したんだ」
余計なことを、と思ったが、黙っておいた。
「アラン。断ってもいい」
「いや、ぜひ行かせてもらおう。」
ホウキは嬉しそうに私の手を取り、固い握手をした。
「ようそろ、ようそろ…」
「なんだね、それは?」
「ご挨拶。ようそろ。ようそろ。」
そうやらホウキは、海賊の言葉を間違って覚えているらしかった。私は正しい挨拶の仕方を教えてやった。
「どうぞ、よしなに。」
「ドウゾ、ヨシナニ」
その仕草には、淑女のような気品さえ感じられて、私はますます嬉しくなった。




