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カニ王  作者: ねずみ
第二部 寄生
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2、ホウキ、現る


 少女の姿は既にはるか砂浜の奥の、ちっぽけな点となっていた。


「待ちたまえ!」かすれた声は波のどよめきにかき消された。ヤシガニに蹴つまずいてすっ転んだ。小指が痛くて痛くて涙が出た。顔を上げると、少女の姿は消えていた。


 私は諦めてその場に寝そべった。全身に太陽が照りつける。砂の暑さに火傷しそうだった。私はカニの服を脱ぎ捨て、裸になって目を閉じた。

 

 やがて遠くから、砂を蹴る足音と、魚籠のガチャガチャぶつかりあう音とが徐々に近づいてきて、すぐ耳元で止まった。そっと目を開けると、少女が神妙に、私を覗き込んでいた。私の瞳の奥を、少女はじっと探っていた。

 

 間近で見ると、本当に醜い、鼻の大きな娘だった。私は彼女を心底気の毒に思った。

 

 少女はもじもじして、私を見たり海を見たり手の甲を見たりしていたが、さっと前のめりになったかと思うと、ひどいダミ声で、「イチ、ニ、サン、シー、ゴー、ホラ。」と言った。

 

 そうして、その汚い土だらけの手のひらを私の目の前に突き出して見せた。意味がさっぱりわからなかったので、大げさに首を横に振ってみせた。

 

 すると少女は、「オイ、オマエ。クレ、ナマエ」と言った。私はそんな無礼な態度をとてもではないが許すことができなかった。眉をひそめて睨みつけると、少女は慌てて口を塞いだ。どうしたら良いのかわからないといった様子で、「ナマエ、クレ、ナマエ、クレ」と繰り返しながら、言葉の通じないことにだんだん苛立ってきた様子で、足元の砂を勢い良く蹴飛ばし始めた。

 

 私はその突発的な狂気に本能的な恐怖を感じ、慌てて「アランだ」と名乗った。すると少女は一転、目を輝かせて、「アランダ」と言って、弱々しい力で私の肩を抱いた。「アランダ、アランダ」


「違う、アラン、だ」

「チガウアランダ?」

「アラン!」

「アラン?」

 

 私はすかさず強くうなづいて見せた。

 

 少女はコロコロ笑いながら、今度は自分の胸を指し示し、「ホウキ」と言った。そうして指を交互に動かして、「ホウキ、アラン、ホウキ、アラン。」と嬉しそうに繰り返した。私は「仲間が他にもいるのか?」と聞いた。だがホウキはさらに嬉々として、「アラン、ホウキ、ナカマ!」と言って、ヒューウ!と下手くそな口笛を鳴らして、嬉しそうに跳ねまわるだけだった。獣と硫黄の匂いの混じった、強烈な悪臭が鼻をついた。

 

 野蛮人とひとくくりにされたことに腹が立ち、一発殴りつけてやりたいとすら思ったが、相手が野蛮な人食い人種かもしれないという可能性を考えれば、下手に刺激することはできないのであった。


「おい、聞け。聞けばかこのやろう!」私は暴れまわるホウキの細い足首をぐっとつかんで地面に引き倒し、強く押さえつけたまま、「おまえ、ニンゲン、喰うか?」と、ジェスチャーを交えながら尋ねた。するとホウキは意外にも、私の質問の意味をすぐに理解し、「ニンゲン、クワナイ」とひいひい笑いながら答えた。「アイツ、ニンゲン、クウ」

 

 ホウキは身のこなしも軽やかに、私の手からするりと抜けて立ち上がると、「アイツ」と言って、突然四つんばいになった。そうして低く唸り、黄色いよだれを垂らしながら、両拳を頭に当てて「アイツ」と言った。

 

 熊のことを言っているのだということが、なんとなくわかった。「アイツ、ニンゲン、クウ。アイツ、ホウキ、クウ。」と言った。

 

 ホウキはウンウン唸りながら、必死に単語をひねり出していった。


 「ホウキ、ナク。」するとホウキは突然、ぱあっと目を輝かせ、「スルト、アラン、キタ!アラン、アイツ、タタカッタ!」

 

 ホウキは鼻の穴をピクピクさせながら、興奮気味に右へ行ったり左へ行ったり、細かく立ち位置を変えながら芝居をした。「アイツ、アラン、ガブリ!ミギウデ、モグモグ」「アラン、バタリ!」

 

 私はハッとした。ホウキはどうやら、私とクマの戦いのことを言っているらしいのだった。ホウキはさらに熱っぽくなって演じ続けた。


 「アラン、トマル。カニ、ミテル。ホウキ、アラン、ミテル。アラン、ナニシテル?カニ、ミテル!アラン、ハサミ、アイツ、ヤッツケル」

 

 そこでホウキは言葉を切って、肩を激しく上下させた。顔は真っ赤に染まり、無数の汗の玉が鼻のてっぺんに光っていた。

 

 ホウキは汗を手の甲でぬぐいながら、「アイツ、ニゲル。ホウキ、イノチ、タスカッタ」と言った。

 

 ホウキは満足そうにへたり込んだ。私を指差し、「アラン、ウレシイ」と言った。

 

 その時の私にとって、この原住民の演技は、どんなに巧みな宮廷画家の似顔絵よりも、ずっと価値あるものだった。永遠に宮廷に飾っておけるのなら、全財産を払ってでも、ぜひそうしたいものだった。けれどもそれは後にも先にも一回きりの、貴重な上演だった。

 

 私はホウキと握手を交わした。「最高の演技だった」と伝えると、ホウキは三度嬉しそうに飛び跳ねてから、勢い良く森の奥へ駆けていった。

 

 ホウキこそが、あの日出血多量で死にかかっていた私を助けた本人である。そう私を確信に至らせたのは、ホウキが下げていた魚籠である。あれはあの日、目覚めた私のすぐそばにトビウオを入れて置かれてあった魚籠と全く同じものであったのだ。

 

 私はあの原住民にとって、感謝を捧げるべき、神のような存在なのに違いなかった。


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