1、野蛮なお姫様
近づいてくる誰かの声に、砂の上で目を覚ます。
私は猿男が戻ってきたのだと思い、はっと起き上がった。
白い太陽が照りつけている。
遠く浜辺の方から、二つの人影が仲睦まじそうに手をつないで、こちらに向かって歩いてくる姿が見えた。私は木陰に身を隠し、目を細めて見定めようとしたー
どうやら、猿男ではないようだ。
近づいてくるにつれ、その姿は鮮明になってくる。
私はごくんと息を飲んだ。
二人は砂浜には不似合いな、豪華絢爛な服装に身を包んでいた。二人はまるで、童話の世界から飛び出してきた王子と姫のように見えた。折り重なる二つの影は蜃気楼に揺れて、白昼夢のようだった。
私は身を隠すのも忘れて、しばし呆然と二人を見つめていた。彼らがこちらに気づく気配は微塵もなく、誰もいない砂の上を裸足で付かず離れずしながら、幸福そうに散歩している。
やがて私は、二人が不思議な被り物をしているのに気がついた。それは額から鼻のてっぺんまでを覆う、不気味な木彫りのお面で、精霊の姿を思わせた。
すると突然、姫が何かを見つけたのか、つないだ手を勢い良く払って、波打ち際に向かって駆け出しながら、万歳するように腕を伸ばし、純白のドレスを青空に向かって思い切り脱ぎ捨てた。何重にも重なったドレスの裾がはためいて、その影は太陽をほんの一瞬遮った。
無邪気な姫は裸にお面だけを被ったまま、青々と輝く海に向かって突進していった。
のっぽの王子は慌ててドレスを拾い上げ、砂を丁寧に振り払いながら、姫を見守った。姫はたった今金魚鉢から解放された金魚のように、透き通った海の中を夢中で潜って行く。王子はそんな姫の姿を、大事な金魚を見守る少年のように穏やかな目つきで、幸福そうに見守っているのだった。
その幻想的な光景は、私がここ三ヶ月で見てきたものの全てー船上の裏切り、食いちぎられた右腕、猿男、フジツボ、フナムシ、ヒル、シラミ、その他もろもろの汚れたものばかりを見続けてきた私にとっては、あまりに刺激の強すぎる光景だった。
私は惹きつけられるように洞窟の外に歩み出ると、二人のすぐ近くの木陰に身を隠し、魂を抜かれたように、彼らにしばし見とれていた。その顔は日差しのまばゆさに霞んで見えなかったがー私はいつまでも、このどこの誰とも知らぬ二人を、無心で見つめていたかった。
だが間も無くその時間は終わった。夢から覚めたような疲れた足取りで、姫が海から上がってきた。しかしその顔からは、抑えきれない笑みがこぼれている。その細い腕には、大きなクマのぬいぐるみや、割れたガラス瓶、ちぎれたずた袋などが抱きかかえられてあった。どうやら海から漂流してきたものらしい。
王子が差し出した手ぬぐいを受け取ると、姫は日差しを遮る岩陰にしゃがみ込んでお面を脱ぎ、無言で体を拭き始めた。王子もまた、影に入ってお面を脱いで、その横へ腰掛けた。ちょうど厚い雲が太陽を遮って、霞んでいた二人の顔がよく見えた。
少女の顔はゴツゴツしていた。どうやらこの島の原住民族のようだ。黄色い肌をして、背は高く、痩せ型で、年の頃は18歳やそこいらに見受けられた。地味なくすんだ顔で、つながったゲジゲジ眉毛が顔の半分ほどを占め、大きな鼻が主張しすぎるほど主張している。先ほどの無邪気な様子からは考えられないような陰惨で卑屈な表情が、その醜さに拍車をかけている。
王子は二十歳くらいで、こちらも同じく土色の肌をしている。人の良さそうな、頬のこけた青年で、笑うとなくなる細い目で少女を愛おしそうに見つめ、しきりにか細い声で話しかけている。なで肩で線が細く、指先でつついたら、二度と起き上がってはこないというような、至極繊細な感じがする。ベルベットのマントに白銀のタキシードというきらびやかな王子の衣装は彼にはあまりにも大きすぎ、革のブーツはぶかぶかである。
こうしてみると二人は主役級というよりは脇役、もしくは珍獣役がふさわしい雰囲気であり、私はすっかり騙された気分になって、むしろ腹さえ立ってきた。
だがさっきまでとは打って変わった少女のひどくつまらなさそうな態度に、私の怒りも冷めていった。少女は男が気遣うように何かいうたび、ますます苛立ちを募らせて、無口になっていくのだった。私には、そんな彼らが、ひどく哀れに見えてきたのだった。
さざ波の間に途切れがちに聞こえてくる彼らの会話に耳を澄ました。彼らが操る呪文のような言葉の意味はわからないが、やり取りの意味はその仕草や表情からなんとなく想像することができた。先に帰って欲しい、という頑なな少女に、一人で置いていけない。と男は熱心に繰り返しているのだ。
やがてとうとうあきらめたらしい青年が、重たいドレスと先ほど拾い上げたガラクタを両腕に抱え、噴き出す汗をぬぐいながら、元来た方向をとぼとぼと戻っていった。
少女は男が森の中へ姿を消したのを見届けると、再びお面をかぶり、ボロ切れを腰に巻きつけながら、こちらへ向かって進んできた。私は慌てて木陰に身を隠し、息を詰めた。
砂を踏む足音が近づいてくる。私は木に背中をくっつけ、後手に木を抱えるように掴み、幹と一体になろうとした。ささくれだった樹皮が、むき出しの背中をチクチク刺した。
少女が私のすぐ横を通り過ぎる。そのまま私に気づく様子もなく、洞窟の方面へと進んでいった。私はそのまま呼吸を止めて、じっとしていた。
すると突然、何かを察知したのか、少女が肩越しに振り向いた。私は心臓がとまりそうなほど驚いて、木の幹を折れそうなほどつかんで息をひそめた。
次の瞬間、少女は顔をあげ、たらこ唇を突き出したかと思うと、空に向けて、ヒューウ、とかすれた口笛を吹いた。その視線を追って空を見上げると、群れをなして飛んで行く軍艦鳥が見えた。鳥がすっかり見えなくなると、少女はこちらには見向きもせずに、再びのんきに前進を始めた。
私は心の中でつぶやいた。こいつは、近年稀に見る、のろまな、間抜けなやつだぞ。
私はすっかり嬉しくなった。自分より間抜けなやつを見ると、安心すると同時に、自分が散々そうされてきたように、バカにしてやりたくなるのだった。
私はその骨ばった背中をそろりそろりと追いかけた。だが砂の上は焼けるように熱く、数秒も耐えていられない。少女がその上を平然と歩いていることに、私はすっかり驚いてしまった。
私は諦めて日陰を歩き出した。少女の肩甲骨の浮き出た痛々しい背中は、暑さでぼやけた頭に揺らいで映った。肩から下げている、その大きな魚籠に見覚えがあるような気がしたが、すぐには思い出すことができなかった。
少女は一向に気がつく気配はなく、ご機嫌に鼻歌まで歌いながら、ぐんぐん洞窟の方へ歩いて行った。私はだんだん不安になり始めた。あの洞窟は、誰にも見つかっていないと思っていたのだがー
少女はの気軽な、迷いのない、愉快そうな足取りで進んで行く。とうとう彼女は洞窟の前で足を止めると、そこからそっと中を覗き、誰もいないのを確認すると、中へと入っていった。
私はすっかりバカにされた気持ちになった。やられた!こんな白昼堂々から、泥棒に入るなんて!私は少女にも、好意的に少女を観察していた自分にも怒りを感じた。私は落ちていた木の棒を拾うと、洞窟の中に飛び込んだ。
少女は背中を丸めて、しゃがみこんでいた。飛び込んできた私を見ると、ハッと振り向き、その物々しいお面の奥から、黒々した瞳で私を見据えた。
黒いおさげ髪の毛は重苦しい鉄団子のように胸元まで垂れ下がり、平坦な胸元を見窄らしくもさらけ出している。こんな惨めな野蛮人に馬鹿にされ、なめられたのかと思うと、いよいよ腹が立ってきた。
「ここは神聖なサロンである」私は湧き上がる怒りを抑えてそう告げた。「野蛮人が立ち入っていいところではない!」
少女は凍りついたように固まっていたが、突然、「…チガウ!」とつぶやいた。私は耳を疑った。少女の口から漏れ出た言葉が、意外にも、英語であったからだった。
少女は弾かれたように立ち上がると、私を突き飛ばして外へと飛び出していった。慌てて追いかけようと顔を上げ、目の前の光景に息を飲んだ。
カニのベッドの周りに、鮮やかな黄色のパパイヤ、燃えるように赤いマンゴー、新緑のように鮮やかなキウイなどの色とりどりの果物が、まるでお供えもののように、丁寧に並べられていた。
少女は泥棒に来たのではなかったー
むしろ、その逆だった!




