0、王様の記憶
我が学友であり、優秀な海軍将校でもあるネロの愛船「カニクイザル号」は、誰もいない大海原の上を、ゆっくりと進んでいた。アドリア海を出てからおよそ3日目、いや、四日目だったろうか。
私は朝から晩まで甲板のハンモックに陣取って、ラム酒を飲み続けるのに忙しく、日付や方向のことはネロに任せっきりだったから、記憶はあまり定かでない。私が覚えている中で一番確かなことは、私がその船の誰よりもぐでんぐでんに酔っ払っていたということ、それだけである。
私のたるみきった腹の上では美しい私の猫、キッド船長が、その真っ白な腹を上下させてクウクウ眠っていた。彼は長毛種の野良猫であった。汗に濡れた手のひらで撫でると、柔らかな毛がごっそり抜け落ちた。
波はゆりかごのように船を心地よく揺らしていた。私は全ての雑多な公務ー宮中晩餐会、国賓の接待、それに毎朝のお上品なティータイムや退屈な会議、そういったものから解放されてせいせいしていた。
横ではお目付役の老家臣ボンドがしかめ面で立っていた。長いローブを羽織り、床まで付きそうな長い髭を撫でながら、海鳥のようにつぶらな瞳で、茫漠たる海の、あっちやこっちを睨みつけている。その姿には雲ひとつない晴れの日にもかすかな雨の予感を探すことをやめられない、気難しい気象学者のような雰囲気があった。彼は時折見張り台の上の水夫に向かって、海賊旗には気をつけろよと繰り返した。
しかしそのたび水夫は、すっかり酒に酔った赤ら顔で、へーい、とバカにしたような返事をしては、望遠鏡代わりにラム酒の空き瓶を覗き込んで見せるのだった。
散々繰り返されたそのやりとりのせいで、ボンドの足元には、苛立ちによってかきむしられた髭のクズが散らばっていた。
私にだって、ボンドの気持ちは、わからないでもなかった。夜明けに許可もなく王宮を飛び出し、勝手に海へと逃げ込んだ私の無責任さを、彼は許せないのに違いなかった。
だがこの無鉄砲でのんきな船旅は、ネロが言うところの、「ちょっと神経がやられ気味の」私にとって、なくてはならぬ息抜きだった。私はこの旅を提案してくれたネロに感謝していたし、公務をほっぽり出して半ば強引に宮殿を飛び出してきたことを、かけらも後悔してはいなかった。だから私は彼の存在など気にせず、思いっきり楽しむ心づもりであった。
空っぽになったグラスを逆さまにすると、すかさず少年の給仕がすっ飛んできて、卑屈なほど深いお辞儀をしてから、鼈甲色の酒をなみなみ注いだ。雪のように白い肌が、太陽光の下で陶器のように輝いた。
君のそのお辞儀さえなければ、あと10秒早くこの幸福な甘いお酒を口にすることができたのだ、と私はいった。もっと素早くお辞儀を終えたまえ、それがバカンス中の王へのほかならぬ礼儀というものだ。私は洒落た冗談を言ったつもりだった。
だが少年はニコリとも笑わなかった。お辞儀のせいで彼の金髪はあっちやこっちへ乱れていたが、それを直す気は無いようだった。むしろ、このお辞儀のせいでこんなに髪は乱れたのだ、といわんばかりであった。私は彼の目の奥の、私の中身を見透かすような光に気づいて、思わずさっと目を背けた。それは私が公務とともに陸地へ置いてきたはずのものの一つであった。
少年は再び深いお辞儀をすると、そそくさと船室へ引き上げて行った。私はお皿いっぱいに並べたチョコの一つをぼんやりとつまみ上げた。暑さで溶け出したチョコは、私の指を真っ黒に汚した。
「陛下、ごきげん麗しゅう!」
突然背後から、甲高いラッパのような声が響いた。ネロの声は、その声を聞いて初めて本物の人生というものが始まるのだと錯覚させるような、強い力を持っていた。
私の全身は緊張した。それからすぐさま肩の力を抜いて、この上なくリラックスしているように見える体勢を整えた。ネロが私の前に太陽をさえぎって立ちはだかった。
ネロは半袖の真っ白な海軍服を涼しげに着こなしていた。浅黒い肌の上で、深海のように青黒い瞳がキラキラと輝いた。左右にそそり立つ金色のプロペラ髭が、吹いてくる風にふわふわと揺れた。尖ったほほ骨は、下手に触れると刺さりそうだった。太陽のように赤い唇は、微笑むと三日月のように細まった。
彼は制帽を脱ぐと、先ほどの少年よりも一段と深いお辞儀をし、こちらが卑屈に感じる前に、すばやくパッと顔を上げた。そして、その美しい金髪を再び帽子の中に押し込んだ。
彼はそれからキッド船長の方にもお辞儀をして見せた。
「今日も陛下のファーストレディはおうつくしい。こんな暑い日にはもってこいの、ごりっぱな毛皮ですな、ミセス!」
ネロがごつい手を差し出すと、キッド船長は私の膝から飛び降りた。ネロは猫だけには人気がなかった。
「声が大きすぎるんだ」私はいった。
ネロは「これは失敬」と笑い、美しい赤毛をさっと帽子の中にしまいながら、「陛下、何か不都合はございませんか?」と言った。
ボンドが横で何か言いたげにしているのが感じられた。彼はネロ船長に対し、不満を億千も貯めているのに違いなかった。
だが私は「何もない」と答えた。「実に気取りのない、素晴らしい船だ」
「恐れ多いお言葉。もっと陛下におあつらえ向きの立派な船をご用意できればよかったのですが。あいにく他の船は全て出払っていまして」ネロは全然恐れ多くなさそうに言った。「何ぶん急にひらめいたものですから…きっと陛下を船旅へお連れしたら、さぞかしお喜びあそばされるだろうと」
「そう、君の提案はいつだって急だ。だが、その唐突さに、私はいつも救われているんだ」
ネロは私の言葉を心地よさそうに聞いていた。私はすっかり満足した。
するとネロは唐突に水平線の向こうを指差して、「ご覧あれ、陛下。どこまでも広がる海、海、海!ここには陛下を苦しめるものは何一つとしてありません。ねえボンド卿、あなたもそう思われませんか?」
「ええ全く素晴らしい旅です」ボンドはそっぽを向いたまま答えた。
「本当に、全くだ。こんな旅は生まれて初めてだ」私はすかさず言った。「目的地も、余計な荷物も何もない。今までにない自由を感じるよ」
ネロはニコニコして言った。
「大変光栄でございます。では、こういうことはいかがでしょう、もっと自由を感じるために」ネロは私の頭の方をちらっと見た。「いっその事、冠も脱ぎ捨ててみては?」
私はほぼ反射的に、さっと冠を抑えた。ネロの鋭い視線が、私にそうさせたのだ。
彼はよく知っているはずだった。私がこの冠を、片時も離さずに暮らしていることを。お風呂に入る時も、眠る時も、肌身離さず持っていることを。
「冗談でございますよ…」
ネロは少し身をかがめて、私の瞳の奥を覗き込んで、唇をまっすぐ左右に引き伸ばして、にっこり笑って見せた。それはまるで、慈善事業みたいな微笑み方だった。安心しろ、君が恐れることは何もない。そういうような微笑みだった。だがそれは私を訳もなく不安にさせた。私は力なく笑いかえした。
「さあ、昼食にいたしましょう」
ネロが空いたグラスを爪で弾いて鳴らすと、待機していた給仕が一斉に進み出てきて、私の前の円卓テーブルに、新しい皿を次々に並べ始めた。
私はゆっくり起き上がった。太陽のまっすぐな光線が私の目を刺した。一気に酒が身体中に回ったようだった。
「私はもう懲り懲りです」隣で椅子に座りながら、ボンドがブツブツ言うのが聞こえた。「帰ったらすぐ、こんな仕事はやめさせて頂きます」
私は好きにするがいいさ、と答えた。今まで何回同じ言葉を聞かせられたことだろう。
そうしている間にも、フォークやナプキン、グラスや花かざりが手際よく並べられていった。ネロがテーブルにつくと、料理長が中央に置かれた銀の蓋を開けた。中心に巨大な渡り蟹を乗せた、黄金のパエリアが現れた。
ちらりと横を見ると、案の定ボンドが眉をひそめていた。王室のものが甲殻類を口にするのは良く無いこととされていた。食あたりするリスクが、他の食べ物に比べて高いという、馬鹿げた理由からだった。
私は一生分の蟹を食べてやるつもりで、力強くスプーンを持った。
「立派な蟹でございましょう。このあたりの海は、巨大蟹の宝庫と呼ばれておるのです。しかしこれほどの大きさのものは、なかなかお目にかかることができませんよ。さあ、存分に召し上がってください」
ボンドがげほんと咳払いをした。構うもんか、と私はネロの差し出した小皿を受け取った。そこには金色に輝く米粒と、真っ赤に茹で上がった甲羅が乗っていた。私はそのすこし悲しげな、澄んだ瞳をじっと見つめるうちに、一つ、ネロに聞いてもらおうと考えていた話を思い出した。
「実はね、今、温めている計画があるんだ」
「なんでございましょう」ネロはせっせと蟹の中身を掻き出しながら言った。
「この前、とある屠殺場へ視察に行ったんだが。そこで、豚の屠殺を見た」
「なるほど」
「君は、豚がハンマーで殴りつけられる時、どれほど苦しむと思うかね?」
ネロは空っぽになった鋏をゴミ箱に捨てると、答えた。「いいえ、陛下。それほどとは思いません。全ては数秒のうちに終わります」
「その通りだ。そこで、私はこういう風に思ったのだ」私はスプーンの柄で、宙を何度もつついた。「豚が一番苦しみを感じるのは、屠殺台までの途上ではないだろうか?」
「そう思います、陛下」ネロは神妙にうなづいた。「始まってしまえば、なんということはありません」
「それでね、私は思ったんだ。新しく、屠殺マシンなるものを作ってみてはどうだろう。その名も『幸福屠殺機』だ。見た目は大きな白い箱でね。
その中に入った豚は、大きなベルトコンベアに乗って、ゆっくりと屠殺台まで運ばれてゆく。その道のりで、彼はいくつもの小さな部屋を通る。そこには、母豚の絵が飾られていたり、兄弟たちの楽しげな声が流れていたりするんだ。つまり人工的な走馬灯なんだね。
そうして、幸福な子供時代の思い出に浸りながら、豚は機械の繰り出す、人間には真似できないくらいの、強い一撃で死ぬ。」
私が言い終わるのを見計らって、ボンドが不愉快そうな咳払いをした。しかしネロはずいと身を乗り出し、
「確かにそれなら、殺す方も随分気が楽になります」と言った。
「そうだろう。今、蟹の瞳を見て思い出したんだがね。彼がこんな風にだーそう、こんな風に、世を呪う目じゃなくて、もっとこうー満足げにニコニコ笑っていてくれたら、食べるこちらもより、食事を楽しめるというものだからね。豚に関しても、全くそれと同じ論理だよ、君」
「陛下は変わっておりますな!」ネロは米粒を飛ばしながら豪快に笑った。
私はすっかり満足して、「そんなことはないさ!なあ、ボンド」と言いながらボンドの肩を揉んだ。ボンドは答えずに、黙々とパエリアを食べていた。よく見るとそれは私の分だった。私は蟹を食べ損ねたことに、ひどくがっかりした。
続いて出てきた料理は、人食いザメのパスタ、海鳥のソテー、シマウマのフライであった。面白みのない宮廷料理にすっかり飽きた私にとっては、どれもが刺激的な味であった。
それから我々は沈みゆく夕日を見つめながら食後のコーヒーを飲んだ。お供に出されたのは何かのフライであった。口に入れると、弾力があって、とても噛み切れる硬さでない。これは何であるかと尋ねると、ネロは革の鞄をちぎってあげたものでございます、と答えた。海賊ヘンリー・モーガンの船が座礁した時、これを食べて生き延びたという、伝統的な一品でございます。
私はネロの見ていない時を見計らって、それをボンドが差し出した両手に向かって吐き出した。
ネロが頭上の見張り台の男に向かって、「何か歌ってくれないか」と注文をした。男は「お安い御用だて」と答えると、頬にある三本線の傷を考え深げに撫でてから、酒をぐいっと飲み干して、得意げに歌い始めた。
天使長、天使長
聞こえていますか天使長
もしも願いが叶うなら
おいらの命を戻してください
冥土をさまよい数十年
おいらはすっかり疲れちまった
天使長、天使長
感謝してます天使長
もひとつ願いが叶うなら
おいらを王様にしてください
金に女にダイヤに権力
おいらは全部が欲しいんだ
天使長、天使長
ひどいもんです天使長
もしも願いが叶うなら
おいらを霊に戻してください
王様になって腐っちまった
今じゃ死んでいるような毎日だ
ネロはその奇怪な歌を聞いてわははと笑った。私もつられて、わははと笑った。ボンドだけが怒りに震える声で、こう言った。
「あれは海賊の歌ではありませぬか」ボンドはネロを睨みつけた。「おたくの船には海賊が乗っているのですか?」
「海賊というのは、下手な役人よりもよく働くものでしてね」ネロは涼しい顔で答えた。「実を言うと、私も海賊出身なのですよ」
「ご冗談を」ボンドはつめたい笑みを浮かべた。
「冗談ではありません。」ネロはおしとやかに笑い返した。「私は自らの手で、この険しい道を切り開いてきたのです。血統や、お金や、人情に頼ることなく」
「海賊出身の海軍ですって?」ボンドはあかるく笑った。「では、これは海賊船ということですか?」
「キッド、キッドくん」私は海へ突き出した細い板の上に飛び乗り、小魚を夢中で見つめる猫に向かって、大きな声で注意した。「落ちないように気をつけなさい」
「さようです、これは海賊船でございます」
ボンドは静かにカップを置いた。そして、まじまじとネロを見つめた。
「それは真実ですか?」
「ええ、もちろん。ここにいる乗組員も、実はほとんどが海賊なのですよ。船外に気を取られるあまり、お気づきになられませんでしたでしょうね」
「キッド、キッドちゃん、聞いてるのかい」私はチッ、チッ、と口を鳴らした。「海に落ちたら、もう二度と、助けてやれないよ」
「それが真実なら」その顔からは、笑みがさっぱり消え失せていた。「我々は1秒でも早くこの野蛮な船から下りねばなりません」
陽は傾き始めていた。海風がそよぎ、私の額の汗を震わせた。キッド船長がどこかへ消えてしまったので、私はもう聞こえないふりをすることができなくなった。コーヒーはすっかり冷めていた。
ネロは味わいながらコーヒーを飲んだ。飲み終えると、ナプキンで口を拭って、いった。
「デザートはいかがですか?ウミガメのプディングをご用意しておりますが」
「海賊の出すものなど!」
「良いですか」ネロは落ち着いた声で言った。「航路は変えられないのです。船は目的を果たされなければなりません」
「目的とはー」
「陛下の暗殺です」
私はじっとしていた。声を荒げたり、驚いたりしなかった。何か恐ろしいことがやってきたら、いつも黙って受け入れた。なぜなら私は、そういうものと常に待ち合わせするような気分で生きてきたからだ。
ボンドは私の肩を叩いた。彼の手はかすかに震えていた。
「さあ、お立ちください。大丈夫。私の後ろに。陛下には傷一つだってつきません。こんなこともあろうかと、実は警護の兵をたくさん連れてきてあるのです」
私はボンドの顔を見た。老いぼれた右の瞼がヒクヒクと痙攣を繰り返している。
「残念ですが、大臣。貴下が許可なく持ち込まれた兵士は、すでに私の側に寝返っております」
ネロの高らかな宣言に、ボンドはつり上がった瞳で甲板全体を見渡した。兵士たちは一人残らず私に向かって黒い穴ぼこのような銃口を向けていた。
しかしボンドはため息をついただけだった。すっかり疲れ切ったと言った様子だった。私は何をしていたかというと、震える手で、服についた猫の毛を数えていた。それは一本一本が、針のようにピンと尖っているのだった。
「彼らは自ら望んだのです。新しい時代の到来を。陛下、国が弱体化しつつあることを、お気づきになられませんでしたか。なられませんでしょうー
あなたはいつだって、毎朝決まった時間に、王座に座ることにしか興味を持たれない。だからご自分が議会に操り人形のように利用されていることにも、彼らがまんまと甘い汁を吸い続けていることにも、そのせいで国民が貧乏で苦しんでいることにも、一向にお気づきになられない。
いえ、お気づきになろうともしないのです。豚の幸福屠殺機だって?そんなものがなんだというのです。もっと考えるべきことがあるはずなのに」
29、30、31…私は分からなくなって、何度も初めからやり直さなければならなかった。猫の毛を数えるのは、いつもいつだって難しい。
「我々は悪しき王権制度をここで断ち切るため、無能かつノロマなアランドラ王を追放し、政権奪還することをここに宣言いたします」
ネロは机の上に何か光るものを置いた。それは猿の紋章が刻まれた、銀製のピンバッジだった。この国で知らぬものはない、革命軍のトレードマークだ。私はぶるっと身を震わせた。
「ネロ、君が、革命軍を…」私はその先を継ぐことができなかった。
もちろん間抜けな私だって、革命軍の存在くらいは知っていた。だがそれはいつまでも地下から抜け出せない、害にもならないドブネズミの決起集会のようなものだと、家臣たちからはそう聞かされていた。だがそれは甘い考えだった。もしくは私を騙すための嘘だった。
ネロが私の方へ歩みを進めた。ボンドが私の前に立ちはだかろうとしたその時、切り裂くような銃声がして、ボンドと私の間の床に小さな穴を開けた。
「動くでねえ。次は王様の頭をぶち抜くど」
見張り台の男は目を爛々と光らせて、私に狙いを定めていた。だがボンドは握りしめた短剣を捨てようとはしなかった。私は血走った目でボンドを睨みつけた。お前は短剣一本で何をしようというのか。
私が剣を捨てろと叫ぶ前に、屈強な水夫が後ろからボンドの体を抑え込んだ。床に引き倒されて両手を縛られる間も、ボンドの目玉は一人でも味方を探そうと右へ左へ彷徨っていた。しかし手遅れであった。ボンドの体は空き樽のように、ゴロンと床に転がされた。
ネロが王冠に手を伸ばした。私はその手首を払い退け、「頼む、やめてくれ、お願いだ」と悲鳴に近い声で懇願した。だがネロは私の手から強引に冠を分捕った。私はネロがもう、演技をやめたのだと悟った。
次の瞬間、私は誰かに後ろ手を掴まれ、硬いロープできつく縛られた。そしてそのまま舷から5メートルほど海へ突き出した、細い板の上を歩かされた。それは先ほどキッド船長が歩いていた細い船板だった。私は押されるままに前に進んだ。目隠しはされていなかった。
足元の海は、どこまでも深く、黒々としていた。一歩進むごとに、板はしなり、軋んだ音を立てた。私は早く落ちたいと願った。ようやく終点までたどり着くと、すぐ後ろでネロの声がした。
「悪く思わないでくださいませ、陛下」
私の心臓は驚きで跳ね上がった。彼の声は澄み渡っていて、まさに英雄のようだった。そして私はといえば、のろまな悪役のようにみっともなく震えていた。
突然私はゲップをした。それは私にどうとできるものでもなかった。背中越しに、ネロが感情を害したのが感じられた。ネロの劇場はまだ続いていた。彼が用意した完璧な演目を、私が台無しにしてしまったのだと思った。私は反射的に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
ネロは私の襟を強引に掴むと、くるりと後ろに振り向かせた。板が激しくしなった。落ちる寸前の私を、ネロがものすごい力で引き止めた。
ネロは私の無礼には一切触れずに、こう言った。
「陛下、約束いたします。私めが新たなリーダーとして、きっと国を立派に守ってみせましょう」
それから彼は私が落ちないようにバランスをとらせてから、襟を掴んでいた手をそっと離した。それから両手で王冠を私の頭上に優しく乗せた。絡まった王冠のヒモを丁寧に解きほぐしてまっすぐ伸ばすと、私の顎に固く括りつけはじめた。
されるがままになりながら、私は17年前の戴冠式の光景を思い出していた。あの時私に冠を被せたのは大主教であった。手に触れる、やわらかな絹の法衣の手触りをまだ覚えている。私はあの時まだ13歳であった。自分は神様に選ばれし人間なのだと、そう信じて疑わなかったあの頃ー
「さあ、どうです」ネロがきつく紐を結んだ。「これで海の底でも、魚の骨と、陛下の骨とを見分けられるでしょう」
私は反射的に「ありがとうございます」といった。すっかり頭が混乱していて、そんなことしか言えなかったのだ。
ネロは「とんでもない」と優しく返事をすると、慣れた足取りで来た道を引き返し、軽やかな身のこなしでさっと甲板に降り立った。
私は板の始点に、先ほどの給仕の少年が立っているのに気がついた。彼は私をじっと見つめて、誰にも聞こえないように、そっと口を動かした。彼は私にだけ伝わるように、声を出さずに、こう言っているのだった。
「国王陛下、万歳!」
その大きな瞳は、涙に濡れていた。私はハッとしたー
次の瞬間、彼は板を勢い良く外した。私の体はバネのようにあっけもなく弾かれて、海の底へ沈んでいった。