絶対に負けられない闘いがそこにある訳でもない
和泉が出かけて行ったのを見送った後、彼から聞いた報告を頭の中で思い巡らしながら、北条は大きな溜め息を一つついた。今は空席になっている沓澤の席を見つめつつ。
現警備部長の息子。
他の学生達とは一線を置いて、蝶よ花よと扱ってやれば今頃彼も、警部補ぐらいまでには昇進できていただろうか。
つくづくと……損な男だわ。
不器用というか、世渡りが下手というか。
正直でかつ、口も上手くない。
実力だけが正当に評価される仕組みの組織なら、彼だってもっと高い階級にいてもおかしくない。むしろ巡査部長にまで上がれて良かった、とさえ思う。
昇進試験には筆記の他、面接もある。
合否を左右するのは、その時の面接官との相性だとも言われている。
自分たちよりも上の階級に居座っている人間達の中には、もちろん肩書きだけの『無能』な上官が何人かいる。いったいどんな手を使ったのやら。
この世の中は正論が通る訳ではなく、綺麗ごとだけでは済まされない。
そのことを知っていても、苛立ちを感じずにはいられない。
もっとも、沓澤はあまり地位には関心がないようだが。珠代の方も夫の尻を叩くような真似はしないだろう。
そういえば。
その学生……堤洋一が自殺した後、遺族が沓澤の自宅を訪ねてきたことがあったと聞いた。
母親だろうか?
いや、珠代は【若い女性】だと言っていたと記憶している。
姉か妹か、もしくは恋人か。
その人物が沓澤に何かしら復讐してやろうとしたとして、どんな行動に出る?
自分だったら……。
しかし、その時予告もなくかかってきた外線電話によって、北条の思考は妨げられてしまった。
※※※
「一ノ関君の件……アリバイ調べはどうなっているんですか?」
夕飯を買って戻ってきてみれば、今度は時間つぶしにと、北条の将棋の相手をさせられる羽目になった和泉であった。
なんでこんな……。
和泉は胸の内でブツブツ文句を言いながらも、逆らったら怖いので大人しく従っておくことにした。
が。それもまた業腹なので、できる限り思考をジャマしてやろうと事件の話を振ってみる。
本来、そっちの方を一番深く考えなくてはいけないはずだが。
「……続けているわよ、粛々と。何しろあの日は日曜日だもの、学生達はてんでバラバラに行動していたわ。裏を取るのに時間がかかってる……それよりあの2人の事件、動機の方は目処がついたの?」
「……調べようと思っていたのに、堤部長の件が横から入ってきて……そっちに気をとられていたら……」
「ちょっと、どうしてそんなところに駒を置くのよ?! アタシが不利になるじゃない!!」
「勝負なんだから当然でしょう?」
正直なところ、この人の負けず嫌いには辟易する。勝つまでは絶対にやめないと宣言した挙げ句、長考に入った彼を尻目に、和泉は飲み物を買いに部屋を出た。
廊下を歩いていると、タイミングよく、どこか外から戻ってきた周を見つけた。
「周君!!」
「和泉さん!! もぅ、どこに行ってたんだよ?! ずっと探してたんだぞ?」
「ほんと? ごめんね。ちょっと野暮用で……それより試合、どうだった?」
周は苦笑しながら、
「剣道の方は、準々決勝まで行けたよ。柔道の方は初戦敗退だったけど」
「そっか……お疲れ様。周君のことだから、きっと全力で頑張ったんだよね」
和泉の台詞に、なぜか彼は悲しそうな顔になる。
「俺の試合、見てなかった?」
なんだろう、この胸を抉られるような感覚。
「……実は……ものすごく見たかったのに、急な用事って言うか、逆らえない命令が下ってね……」
和泉はかつて、結婚していた頃には妻に対して一切感じたことのないほどの、深い罪悪感を覚えていた。
ここは一つあれ、訊いてくれないかな?
『俺と仕事、どっちが大切なんだよ?!』
……。
期待するだけ無駄だったみたい。
「……そう言う周君こそ、今までどこに言ってたの?」
気を取り直して、探るように愛らしい瞳を覗きこんでみる。
「……友達と晩ご飯を食べに行ってた」
「友達って……名前忘れたけど、いつも一緒にいるあの背の高い彼でしょ? 糸みたいに細い目をした……」
「倉橋護だよ。名前、覚えてあげて」
そう言えばそんな名前だったっけ。
そうだ、周に近づく悪い虫の名前ぐらいは覚えておかないと。
「楽しかった?」
僕と一緒にいるよりも? なんて、そんな疑問を裏に隠して和泉は訊ねてみる。
「……そりゃ、全然気を遣わなくて済むし……」
でも、と周は小さな声で呟く。
「ほんとは和泉さんを見つけたら……どこかで一緒に晩ご飯、って考えてたんだけど」
どうしよう、可愛い。可愛いすぎる!!
「ほんとにごめんね。この埋め合わせはいつか必ず……」
「別にいいよ」
じゃ、と彼はさっさと立ち去りかける。
えっ!! あっさりしすぎ?!
なんとか周の関心を引きつける術はないか、和泉は必死で考えた。
そうだ!!
「ねぇ周君、今あのオカマの将棋の相手させらてるんだけど……」
勝負を見守って欲しいと声をかけると、喜んでついて来てくれた。
作戦成功。
が……。初めはしっかり目を開けて見ていたけれど、疲れていたのもあるのだろう、段々と目が閉じられていき、ついに周は船を漕ぎ始めた。
仕方なく彼を部屋に送り届け、結局その後、和泉は明け方まで将棋の相手をさせられた。
欠伸が止まらない。
窓の外がうっすら白い……。
ちょっとぐらい寝てもいいよね。
そう思って目を閉じかけた時だ。携帯電話の着信音が鳴り響く。
「……しもしも?」
『……彰彦、俺だ』




