ワークライフバランスってやつがね
実は本当に自殺だったんじゃないか?
などと、一瞬だけ和泉は思った。
亡くなったあの2人には、まだ明かされていない深い事情がありそうだが、寺尾のような、あんな人間とずっと一緒にいたら気が狂ってしまう。
授業を終えた和泉は教官室に戻った。
実を言うと北条は朝一でどこかに出かけて行ったので、周のためのリベンジも兼ねて1時間目の授業を担当することにしたのである。
扉を開けると、
「西岡の解剖結果が出たわよ」
北条は既に戻っていて、自分の席に座っていた。
「お帰りなさい……」
「これを見て」
北条に言われ、和泉は彼の持っているタブレットに顔を近付けた。
「筋弛緩剤を飲まされたみたいね。そんなものが身体に入った状態で水に潜ったりしたら、そりゃ溺れもするわ……」
「そうですか……」
それと、と北条は画面をタップして違うファイルを開く。
「一ノ関の方なんだけど。あのバカ検視官が、あんな紙切れ一枚でさっさと自殺だって断定しちゃったからもう、遺体は荼毘に付されてしまったけれど……実はいろいろ隠していたことがあったのよ」
「隠していたこと?」
「昨日アタシが部長に呼ばれて、あれこれ文句を言われに行った時よ。聡ちゃんから、あのバカ検視官の噂を聞いたの」
「聡さんから?」
「……彼はあんたから聞いた報告だけで、もっと深く考えるべき疑問点を提出してくれたわ。さすがね、長年刑事をやっているだけある」
そうでしょう、と和泉は満足感に浸りかけて我に帰った。
「あの現場検証はまったくもって杜撰な、手抜き仕事もいいところよ」
「……どういうことです?」
思わず北条の目を見つめ、早く続きを、と訴えてみせる。
「あのバカ検視官、なんでもかんでも【自殺】で処理するらしいの。面倒だから、って理由はそれだけよ」
「何ですか、それ……」
「一ノ関の件に関しては【遺書】らしきもの、が見つかったおかげで、余計に悪い方向へ事態が動いてしまったけれど。実はね、聡ちゃんと話したすぐ後に、そのバカが若い部下と、廊下で何やら揉めてたのを聞いたのよ。確かあの時も、一緒に検視作業にやってきていたわ」
「その彼が何か……?」
「そいつらが怪しい、不穏な会話をしていたから問い詰めたの。何か隠してるんじゃないかって」
「拳で……ですか?」
気のせいかな、頬に返り血みたいなのが……。
「一応、アタシも向こうの良心を信じて……正直に明かす気になったら連絡して頂戴って伝えておいたの。そうしたら今朝、電話がかかってきたってわけ」
真実だろうか?
「北条警視。あの時、現場検証に立ち合ったのでは?」
「……一応ね。でも、鑑識作業についてアタシは素人よ。その場で文句言ったり、ケチをつけたりできないわ。でも変だと思ったから、あんたを呼びつけたんじゃない」
そうでした。
「まして、アタシみたいな脳筋には細かい説明をしたって理解できないだろうって」
和泉は返事も相槌も打たないでおいた。
「確か、彼の死亡推定時刻は……」
それは真っ先に聞いてメモしてある。和泉はスマホを取り出し、確認した。
死亡推定時刻は日曜日の午後4時から7時。
「で、何を隠していたんです? その検視官と、若い検視官見習い君は」
「遺体を動かした跡があったんですって。勉強机に向かっていたのを、背後から襲いかかって……たぶん『地蔵背負い』じゃないかって言ってたわ。自殺に見せかけた他殺の方法として有名なアレよね」
「首に吉川線は……?」
「……少しだけど、見つかったそうだわ」
和泉は思わず
「どうしてそんな、大切なことを黙っていたんですか?! そりゃ、僕も今まで気がつきませんでしたけど」
「アタシも同じことを怒鳴ったわ、つい手も出して」
和泉は苛立ちを抑えることができないでいた。
「……吐かせたわよ、全部、裏事情をね。知りたい?」
「聞きたくありません」
すると、思い切り耳を引っ張られ、ネクタイの結び目をつかまれる。
「……聞きなさい。これが、実情よ」
要するに。
面倒くさいから、これ以上仕事を増やしたくないから。他殺と断定すれば、捜査本部が設置され、拘束時間が長くなる。それは避けたい。
検視官の本音はそこだったらしい。
いかにもそれらしい遺書があって、これ幸いだと思った。気になるところは目を瞑り、自殺で処理してしまえ。
「万年人手不足で、ロクに休めない……それなのに給料は増えない。やる気が出ないってね」
「そんなの、どこの部署だってそうじゃないですか。特に、我々刑事なんて……」
「ただ、若い方はまだそれなりにサツ官らしい心が残っていたみたいね。長くここにいると、ある意味で神経が麻痺していくのかもしれないわ。何が正しくて何がおかしいのか、段々とわからなくなってくる……」
「あなたもですか? 北条警視」
「さぁ? 何しろアタシ、脳まで筋肉でできてるから……あまり難しいことはわからないわ」
どうやら、相当頭に来ているらしい。
「……北条警視は頭が悪いなんて思いませんよ。そもそも、階級がそのことを物語ってるじゃないですか」
和泉は警視であることを示す、胸の徽章を指差した。
どうやら機嫌が直ったらしい。
この人が不機嫌な時は、とにかくまわりが迷惑する。絶対に口にはできないが、意外に単純なので持ち上げるのは容易い。
「……ところで日曜日の寮の門限って、何時でしたっけ?」
「6時半よ」
「門限近くなると、学生が戻ってきて寮の人口が増えるから……人目につかずに犯行を行うとしたら、もっと前の時間帯ですね」
「そうね。日曜日の寮なんて、当番の子以外ほとんど学生はいないもの……ということは、午後4時から6時半の間に、寮内にいた人間が疑わしいっていう訳ね」
「あるいは、外から戻ってきた……」
他殺は決定した。
問題は誰が、なぜ殺害したか……だ。




