鑑識子による鑑識授業
何ごともなかったかのように次の日がやってきた、と周はそんなふうに感じた。
同じ教場の仲間がまた一人減った。しかし、朝食の席でそのことが話題になることはなかった。
皆、真剣に担当教官からの指示を守っている。
昨日の北条の態度はいまいち釈然としなかったが、黙っていろと言われてあえて騒ぐほど、自分は愚かではないと思っている。
彼はきっと、何か考えていると確信している。
今日は周が教場当番だ。
教場当番の日には教官室に講師を迎えに行き、廊下では決して追い越さないよう注意をしながら、かつドア付近ではさりげなく追い越して教場のドアを開ける。
教場当番が回ってくると、授業の前に教官を呼びに行く。
周は1時限目の鑑識捜査に授業で教鞭を振るう、平林郁美巡査部長を迎えに行った。
「失礼します」
振り返った女性巡査部長は、あれだけ警察の人間と顔見知りが多い周であっても、初めて見る顔だ。
美人と言って差し支えないが、ややキツい印象を与える顔立ち。
女性にしては背が高くスラリとしている。
「初任科第50期長期課程、藤江周巡査です。これより第2教場にて、平林教官よりご教授よろしくお願いいたします」
「……あまね……?」
「はい?」
なんでもないわ、と鑑識課の女性警官は立ち上がる。
追い越さないように、それでいて距離が空きすぎないように……。
前を歩く女性警官の歩幅は広く、割とついて行くのに必死だった。
ねぇ、といきなり彼女は足を止めた。そのまま振り返ることもなく、
「和泉さん……和泉彰彦警部補はお元気?」
「へっ?!」思わず間抜けな声を出してしまい、周は慌てて口をつぐむ。
「ちなみに私は教官じゃないわ。今日は代理で来ているだけ」
「は、はい! あの、た、たぶん元気です」
「たぶん、って何?」
振り返った彼女の表情は険しい。
「い、いやそれは……」
こないだ出会ったけど。多分、というのは失言だった。
しかし彼女はそれ以上突っ込むこともなく、教場の扉の前で足を止めた。
周は決まり通りにドアマンの役割を果たす。
すれ違い様にふわり、といい香りがした。
最初の二十分は説明を受け、あとは模擬家屋に移動して実習となる。
頭から耳から、身体中にカバーをかけ、マスクをつけると誰が誰だかわからない。
テレビドラマで鑑識員が動いている場面をよく見るが、実際には、かなりキツい仕事だということがわかった。
まず姿勢がほぼ中腰、見落としが許されない緊張感。
まさに目を皿のようにして僅かな手がかりも見逃さないようにしなければない。
指紋の採取、足跡の採取、それから現場写真の撮影。一通りを実演した頃にはすっかり目が疲れていた。
それから模擬家屋の中、平林郁美巡査部長は集まっている生徒達を見回して訊ねた。
「この中で将来、鑑識課を希望している人は?」
何人かが手を挙げた。
「じゃあ、今から死体を見慣れておくことね。言っておくけど悲惨よ。水死体なんてね、発見が遅れたら遅れただけ全身が膨らんで、二目と見られないんだから。あとは俗にマグロと呼ばれる轢死体。それと……転落死体ね。人間の身体は六十パーセントが水分でできてるんだってことが、よくわかるから。水風船が割れて地面に落ちた時をイメージするとわかるわ」
想像したら食欲が落ちた。
「ちなみに、うちの係長の口癖は『さすがの俺も今日の昼飯は食えない』だから」
じゃあ、授業は終わり~と、鑑識課の女性警官は去って行った。
これから昼食タイムだが、あんな話を聞いた後では食欲もわかない。
しかし、ここで何か腹に詰めておかなければ。午後には武術の授業もあるのだ。