あきひこ君、3歳ぐらいの頃の話。
遺書とみられる文書をコピーし、和泉は一度県警本部に戻った。
部屋は密室。自筆のサイン入りの書面。
その内容は遺書とも受けとれるし、単なる謝罪文にもとれる。
検視官の判断によりこの件は既に『自殺』でカタがつくようだ。帳場も立たない。
だからこそ、好き勝手に調べることができるとも言えるだろう。
和泉が捜査1課の部屋を目指して廊下を歩いていると、後ろから声がした。長野だ。
現在の捜査1課長。和泉にしてみれば上司である。
「おかえり、あっき~」
「……うるさい」
振り向いてたまるか。和泉は前を向いたまま答える。
「つれないのぅ~。それより彰、警察学校行ってきたんじゃろ? どうじゃった、お前の可愛い子猫ちゃん、鬼教官にイジメられとらんかった?」
古い知人であり親戚でもある彼は、その時の気分で呼び方を変形させる。
「それどころじゃない。周君の様子を見てる暇なんて……」
あった。
思い出したらものすごくムカついてきた。なんだあの、胸にばかりやたら栄養が行き渡っていて、頭の少し軽そうな童顔の女子学生。気安く周の腕に抱きついたりしていた。
「そりゃ残念じゃったのぅ~。ほら、お前の好きなコーヒー飴」
背後から肩越しに、褐色の飴玉を持った掌が伸ばされる。
「……いつまでも子供扱いするな……」
「だって子供だも~ん」
「そっちがな?!」
振り返ると、今は課長であり、和泉にとっては古くから因縁の相手である長野がニヤニヤ顔で立っている。
彼は和泉の亡き父の従兄弟の息子で、母と二人で暮らしていた頃、同じ市内で近所に住んでいた。
和泉との年齢差は聡介と同じぐらいだろう。
父が亡くなって母が働きに出なくてはならなくなったため、一人で留守番になってしまう和泉の面倒を見に、よく家にやって来てくれた。
勉強を教えてくれたのも、将棋を教えてくれたのも彼だ。
が……今でも和泉は『遊んでもらった』というよりは『遊ばれた』と言った方が正しいと思っている。
年齢はだいぶ上なのに、長野はやることなすことまるで子供だった。
当時だってもう十代も後半だっただろうに、当時3、4歳の和泉を相手に本気で張り合い、おやつの奪い合いもしたことがある。
遊びにも決して手を抜かないので、何度も泣かされた。
ちなみに当時から、彼は今と変わらない奇妙な言動を繰り返していた。
それでも本気で嫌だと思ったことはなかった。奇妙な言動の奥に、そこはかとない愛情と優しさを感じたからだ。
とはいっても……長野が警察官になったのは知っていたが、まさか直属の上司になろうとは誰が想像しただろうか。
「ところで、何君って言ったかのぅ? お前の子猫ちゃん」
無視だ、無視。
「わしのぅ、来週、警学の武道大会に見学へ行くんよ~。どんな子なんか、一度顔を見てみたいじゃん?」
「周君です、藤江周君」
「……なんでいきなり敬語なんじゃ……?」
「顔を覚えてあげてください。めっちゃ僕好みの、可愛い顔してますから。ジュノンボーイコンテストに出したら間違いなくグランプリです。それで、早い内に刑事課へ引っ張ってくださいよ。そうしたら僕も所轄に行きます」
すると長野は鼻を鳴らして、
「人事はワシが決めることじゃないもんね~」
「そこで役に立たなくて、何のための課長だよ!?」
「お前、ワシをなんじゃと……」
「知ってるんだぞ、人事課長の弱みを握ってるって。バラされたくなければ大人しく、藤江周巡査をさっさと刑事課へ……」
その時だった。
「……おい……」
向かいから聡介が額に青筋を浮かべて歩いてくるのが見えた。
「そ、聡さん。ごきげんよう……」
「お前は課長に、上司に向かってなんて言う口のきき方してるんだ!!」
思い切り頬をつねり上げられた。
「いひゃい、ひょうひゃん!! ……痛い、痛いですって、ごめんなさーいっ!!」
「古い知り合いか何か知らないが、気をつけろ!!」
あ、けっこう本気で怒ってる。
「まぁまぁ、聡ちゃん。そんなに叱らんといて」
「何言ってるんですか!! 上司に向かってこの態度では、他の部下達に示しがつきません!!」
長野は目を丸くして、
「聡ちゃんって、真面目~……よう、何十年とこんなのの面倒を見てきたのぅ?」
「おかげ様で、胃潰瘍だらけです」
そうは言っても、と父は少し憂いを帯びた目をした。
「こいつとの付き合いも、あと何年もありませんが……」
そうなのだ。
いつまでも聡介が傍にいてくれる訳ではない。
好き勝手できるのも、あとどれぐらいか……。
「それで、いったい北条警視の用件はなんだったんだ?」
「あ、そのことなんですが……」