いろはにほへとちりぬるを
図書室から本を借りてきて、周は再び洗濯室に戻った。課題は自室でやろう。
ふと、今度の休みって何日だったっけ? 周は洗濯機の上、壁にかけられているカレンダーに目をやった。
今は7月上旬。
もうそんなに時間が経過していたのか、とびっくりした。
今年のエースは……と陽菜乃は言うが、単純に自分は他の生徒達と比べて予備知識が豊富なだけに、有利だったというだけだろう。
周には入校前から、ものすごく心強い味方がいたからだ。
和泉彰彦。
高校を卒業するまで家族で住んでいたマンションの隣人で、県警の現職警察官。
初めて会った時はただの変な人という印象しかなかったが、そのうち悪徳警官という呼称がぴったりくるようになり……それはさておき。
彼は、周のことを何度も助けてくれた。
どうしていつも親切にしてくれるのか不思議だった。けれど、長い間彼と接しているうちに、ただのお人好しなのだとわかった。
和泉には心から感謝している。
彼と、彼のまわりの親切な人達全員のおかげで、今があるのだから。
だから心に決めた。今度は自分が彼を助ける側に回るのだ、と。
そんなことを考えている内に、洗濯機が終了の合図を告げた。
「……って訳でよ、どうも……なんか、相手が悪かったみたいでよ~……これで昇進の道は完全に閉ざされたみたいだぜ?」
「マジかよ?」
ふと、後ろから3人組の話し声が聞こえてきた。いつものトリオだと声だけでわかる。
「これはこれは、今年のホープで総代見込み名高い藤江周巡査」
西岡がくだらない揶揄を口にするが、相手にしない。
周は脱水の終わった洗濯物を籠に入れて、さっさと部屋を出ようとした。
ところが。
にゅーっ、と無駄に腕の長い寺尾がジャマをして行く手を遮る。
「なぁ、さっきの話なんだけど」
「さっきの話?」
「204号室の幽霊騒動だよ」
バカバカしい。周は目を逸らした。
「もちろん、俺だって幽霊なんて信じちゃいないよ。ただ、この話に関してはちょっと気になるところがあってさ……って言うのが、自殺ってことで処理されたけど、本当は他殺だったんじゃないかっていう説があって」
自殺を偽装した殺人事件。
周はつい、興味を魅かれた。
「まぁ、聞けよ」
周が関心を持ったことに気付いたらしい寺尾は、調子に乗って話し出す。
「実は【特訓】と称して、教官に虐待された末の死亡事故。もしくは、学生同士のトラブルの末に起きた殺人事件……どっちにしろ、あの部屋には怨念が渦巻いているに違いないぜ」
「洗濯機を使わないのなら、どいてくれないか?」
そう冷たい口調で割って入ったのは上村だった。
我に帰った周は、悪い、と一言告げて洗濯室を後にしようとした。だが。
「昔から、そう……遡れば平安時代よりずっと以前から、日本人が『呪い』だの『祟り』だのと、怨念を恐れてきた理由を知っているか?」
洗濯物を突っ込みながら上村が誰にともなく話し出す。何を言いだすのだろう?
周は足を止めて振り返った。
「それらすべては心に疚しいことのある人間が生んだ妄想だ。自分にとって、もしくは中央政権にとって都合の悪い人物に無実の罪を着せ、都から追い払い、挙げ句には死に至らせてきた人間達がいる。そういう奴らは大規模な自然災害や、自分の身に悪いことが起きると……簡単に言えば、呪いだの祟りだのと、自分がハメた相手のせいにして責任逃れをしてきたんだ」
「……」
上村は続ける。
「これは余談だが。いろはにほへと……あの歌を知っているか?」
もちろん知っている。周は黙って頷いた。
「あの歌に隠されている暗号も」
そちらは知らない。
気がつけばすっかり、周は彼の話に気を取られていた。
「7文字ごとに区切って、末尾の一文字をつなげると……こうなる。『とがなくてしす』だ」
周の頭にピンと閃くものがあった。
「それはつまり、無実の罪で処刑される……っていう意味か?」
そういうことだ、と上村は頷く。
それから彼は三人組を見回し、
「幽霊だの呪いだの、そんな話で盛り上がる君達はもしかすると、学生時代から誰かに【祟られる】ようなことをしてきたんじゃないのか?」
しばらく誰も何も言わなかった。
やがて、
「てめぇ、調子乗ってんじゃねぇぞ!?」
寺尾が拳を振り上げる。
「よせ!!」
周よりも先に、他の学生が気付いて止めに入ってくれた。
上村は何ごともなかったかのような顔で、洗濯機のボタンを押した。
顔を真っ赤にした寺尾が舌打ちして去っていく。彼に続いて西岡も、顔を歪めて洗濯室を出て行く。
そんな中、ただ一人。
一ノ関だけがひどく青い顔をして、呆然と立っていた。
「……大丈夫か?」
返事がない。
周が彼の肩を揺すると、彼はようやく反応を示した。
考えてみれば204号室は今、一ノ関が利用しているのだ。
あまりにも無神経だったかと周は後悔の念に襲われた。
しかし彼は何も言わず、逃げるようにその場を去っていく。
それにしても。
上村の言ったことが真実かどうかはともかくとして。
周の頭の中に、その話はしっかりとインプットされてしまった。