実は旧知の仲です
鼓膜が破れるかと思った。
だいぶ収まったが、それでもまだ、甲高く不快な音が少し耳に残っている。
聴覚が異常なほど発達しており、雑音すら何かしらのメロディに聞こえてしまう、絶対音感まで持ち合わせている北条雪村にとって、さっきの女子学生の声は正直、凶器になりうるレベルだった。
今日の授業は終わりだ。
北条は着替えを済ませ、教官室へ向かった。
武術の授業で汗をかいた後、本当はTシャツと短パンで過ごしたかったのだが、生徒達に示しがつかないと助教の末松に散々文句を言われた北条は、仕方なく紺色の制服に袖を通してネクタイを締めた。
部屋に入るとお疲れ様です、と沓澤が声をかけてくる。
沓澤武明。
彼は北条が研修のために渡米する2年前まで、警備課で共に働いていたかつての部下である。
彼が県警警察学校の武術を専門とする教官として赴任したのは、果たしていつの話だっただろう。
彼は柔道、剣道ともに有段者であり、スカウトでこの組織に入った。
先輩警官の勧めで見合いをし、結婚したのは確かもう8年ぐらい前の話だと記憶している。
なおその妻は、北条の同期生で友人でもある警察官の妹であり、互いに古い知り合いでもある。
名は珠代という。彼女も結婚するまで県警職員の一人だった。
「まさか、隊長が警察学校にいらっしゃるとはね……HRTは放っておいていいんですか?」
「兼任よ。それよりあんたも、元気だった? 珠代と子供は」
「……ええ、まぁ元気です」
彼はパソコンのモニターを見つめたまま答える。
「で……」
北条は沓澤の後ろに回り込み、パソコンの画面を覗いた。
「どうなの、今年は。短期の方はまずまずだって聞いたけど」
警察学校には二種類の過程がある。
大学卒業者、あるいは社会人経験者の転職による短期課程と、高校卒業後の新規採用者である長期課程。
前者は6ヶ月、後者は10ヶ月の授業期間が設けられている。
「……せいぜい、6:4ってところでしょうかね」
沓澤は無精髭を撫でながら答えた。学生達には身だしなみをうるさく言うくせに、自分は夕方になると伸びてくる髭を放置している。
「なんとかものになりそうなのが4で、使えないのが6?」
「逆ですよ。今年は例年に比べて、そこそこといったところです」
「へぇ……辛口のあんたにしちゃ、なかなかどうして」
かつての部下はキーボードを叩きながら答える。
「案外、見どころのあるのが2人ほどいましてね」
「わかるわよ、1人はあの子でしょ。藤江周」
「……お知り合いだそうですね、北条警視?」
彼の言いたい事はよくわかった。
『特別扱いするつもりじゃないでしょうね?』
その点に関しては肯定も否定もしないでおこう。
北条は彼の隣に腰を下ろし、
「そうよ。それと、もう一人は誰?」
沓澤は無言の内に、机の上にあった一冊の大学ノートを寄越してきた。
生徒達には毎日日記をつけさせている。正確かつ、簡潔で理解しやすい文章を書く能力を身につけさせるためだ。
表紙に上村柚季、の名前が記入してある。
北条はそれを受け取りざっと眼を通した。
文字には性格が表れるというが、それが本当なら四角四面で几帳面、融通の効かないカタブツだという印象である。
「武術はさっぱりなんですがね、とにかく頭が切れる。あれならキャリアを目指した方が良かったんじゃないかって思うんですが……どうしても、一刻も早くサツ官になりたかったそうなんですよ」
そう、とだけ答えて北条は途中で読むのをやめて原稿用紙を机の上に放り出した。
正確無比な事実だけの日記など、読んでも面白くもなんともない。




