出立
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「んじゃ、今日までお世話になりました」
「短い間だったけど、ね」
本当に短かったと俺には思える。それが物理的なものではないはずなんだが、俺は体感的には結局、少しの間しか村にいなかった。つまりは恩を返しきれるだけの時間を持てなかった。それは残念なことにも思えるし、不義理なこととも思える。
けど爺さんはそれでもいい、と俺に言った。俺はまだ恩を返すことだったり、誰かの役に立つことだったりは考えるべきじゃない、と。
……俺はまだ自分だけのことで手一杯なんだ。自分のことを中心に考えていかなきゃいけない。俺はまだ、自分のことを知らないから誰かにお節介を焼く手間は惜しまなきゃいけない。爺さんはそう言った。確かにその通りだ。
「これは餞別だよ。儂が昔に使っていたものだから、強度と性能は保証しよう」
「へっ、えっ、い、いいんすか?」
「いいも悪いもないさ。旅に出る子には餞別を贈る。それが儂の中の決まり事なのさ」
いきなり爺さんが俺に歩み寄って、そう口にした。そして手に持っていた袋から肩当てを出してきた。つけてくれるらしく、そのまま俺は大人しくしている。
少しだけ遠くを見た。まだ朝焼けの時間。子供たちを騒がせないようにと配慮した時間なのだけれど、俺の耳は柔らかい騒がしさを拾っていた。
俺の肩に肩当てをつけた爺さんが俺の目を見て、くすりと笑う。
「随分慕われたようだね」
「らしいっすね。ありがたいことだ」
肩にある重みに少し温かいものを感じながら振り返ると、駆けてくる子供たちの姿が目に入ってきた。ただ、いつもよりは少ない。眠かったのだろう。わざわざ起きて見送りに来てくれたのだから、俺としては言うことなんかないんだけど。
爺さんが俺から離れて、俺に先んじて軽く手を振る。
俺も手は振る。本当は出ていくのが惜しくなるからあんまり来てほしくなかったんだが、来てくれたなら仕方がない。嬉しいし、本来なら見送りには来て欲しかった。
「アースさん、ひどいですよ。僕らにも見送らせて欲しいです」
「アースさんのばか!」
「おにぃのばか!」
来てるのは……ラム、レノ、ユノの三人か。いつもの半分だけど、それでも予想通り。この三人なら早起きもできるのだろう。
早起きをしなさそうな三人は俺を引き留めそうだから、こんな早い時間にしたんだけどなあ。
「悪い悪い。後腐れなく出たかったんだ。お前らは良いけど、他の三人は……俺のこと、引き留めただろ? きっと」
俺がそう問うと、ラム以外の二人は確かに、何て顔をして、そしてまた少し決まりの悪そうな顔をした。
……これは止められたな、一回。
「……でも、それを理由にしないでください。僕たちはアースさんのこと、好きなんです。見送りくらいはみんな、したかったのに」
「その気持ちは嬉しい。でも別に、俺はまたここに戻ってくるつもりなんだ。だから、お前らにはそれを待っててほしかったんだよ」
むぷ、とラムの頬が膨らむ。
初めて見るような、見た目相応の表情だ。ラムはいつも大人びていた。少しばかり無理をしているのではと思うくらいには。
くすくすと笑う爺さんの方を見て、俺は肩を竦める。まあラムがそんな顔を見せてくれたんならそれだけで十分だ。心を開いてくれたってことだろうしな。
「さて、みんなこんな早くにアースくんの見送りに来たと言うことは、何かしら餞別があるのだろう? 知っているからね、アースくんがクエストに行っているあいだに草原に出ていたのは」
「えっ」
「えっ!」
「……ばれてた」
「おい、何してんだよ」
草原に出ていた、なんて言葉に少しだけ苦笑する。草原にはスライムが出ることがある。ゴブリンだって、たまには出る。危ないし、ラムがいたとはいえ褒められたことじゃない。
まだ子供なんだからな。
「……でも、そのぶんぼくら頑張ったから、アースさんへのプレゼントは、用意できたもん!」
「ぁ……そうだ、プレゼント」
けど俺の心配も、三人の表情には溶けていく。そんなこと言われたら、そんな顔されたら、仕方ないって諦めちまうだろ?
「あんまり高いものじゃないけど……おにぃは剣士だから必要だよね?」
「だから、はい。アームインナー!」
三人は眩しいくらいの笑みを見せて、俺に黒いアームインナーを差し出した。
なるほど、俺は確かに大剣を扱う。だからいつかは腕用の防具を使うことになるだろう。そのときこれを防具の下に着ければ……ってことだな。ありがたい。かなり実用性があるじゃないか。
受け取ったアームインナーに腕を通すと、案外長さがあるようで二の腕から手首までカバーしてくれる長さだった。きっとラムが選んだのだろう。肌触りもいいものだし、高くはないと言っていたけれど質素なりに機能性はある御様子。
「あなたが、アースさんが、もっと強くなってこれじゃ足りなくなったら……また来てください。その時には、もっともっと良いものを作ります」
おっと、今度は作るって言うのか。嬉しくもあるし、そこまでしなくともいいと思うところもある。
けどラムがそこまで言うんだ。
「期待してるぜ、ラム。お前らも頑張れよ? 俺は……まあ、また戻るから」
じゃあな、と口にして俺は村を出た。舗装された道が途切れて、森の青と道の境目がわからなくなっていく。溶けていく。見えなくなっていく。それで良い。分からない世界で足掻いて、生きていって、何かをいつかは掴む。
またね、と三人の声が聞こえた。小さく、また、と口にした爺さんの声も聞こえた。
また、いつか。
ぱらぱらとまばらに子供たちは帰っていく。ミウが、静かに儂のそばにやって来た。
儂は考える。一種の人柱としてこの村に生きることとなった長い永い時間の中で、初めて出会ったと言って良いほど訪れることがなかっただろう特殊な存在。『大遺跡』を監視しある意味では封印しているこの村に、なんの抵抗もなく入り込むことができた特異な存在。
「村長……いえ、ギルドマスター。ラジット大陸ギルド支部長、ラグルフ・ヴァン・トランウェルト」
「改まってどうしたんだい、ミウ。それに儂は、ラグルフではないよ。もうそうじゃない。ラガットだ」
けれど儂には何となくだけれど、ミウの言いたいことを察していた。はは、長く生きるものではないね。
「私に休暇をください。……鍛え直します。私は慢心していました。私は力不足でした。……才に溺れていました」
「卑下はするものじゃないよ。……いや、休暇か。修行のためにこのギルドを空けたいんだね、君は」
「……はい。私の任務を、一時的に、ですが……放棄したいです」
ああ、アースくん。君は起爆剤だったんだね。ああいや、最初から最後まで、君は起爆剤だった。
この村に新たな若人は現れない。儂が基点になって生み出された迷いの結界が、それを阻むから。
この村では新たな出会いがほとんどない。事実ここ20年は……この村には誰も、魔物を除いた知恵を持つ新しい命は訪れなかった。ラムを含む子供たちはこの村しか知らず、行商はすべてミウと儂が行っていたから商人も知らなかった。
そんなある意味では閉鎖的なこの村の中で現れた君は、大きな起爆剤になった。
ラムはドラゴニュート。竜の因子と人の知恵を持つ。それゆえに彼が衣服を織ればそれは竜の加護に近いものを宿すし、彼が道具を作ればその道具は竜の力に近いものを、最終的に宿すことが可能になるだろう。
けれどラムの近くには直接的な親がいない。ドラゴニュートが持つその技術を見せる存在が身近にいなかった。だから彼はこの村の住人として居着くか、冒険者になるか以外の選択肢を持たなかった。考えもしなかった。
それが、アースくんとの出会いと別れの中で新たな目標ともなり得る言葉を立てた。約束を生んだ。
レノは犬人。彼はこれまでシラー以外の気安い友人を持たなかった。けれど彼はアースくんを通して外の世界の自由さを知った。犬人本来の奔放さ、自由さ、忠義の存在をどこかに刻み込んだ。
その経験を通じシラーとの生活を変えるのかどうかは、まあ儂の管轄外なんだけどね。
ソムもユノもシラーもユミも。儂の力のために外界のことを何も知らない子供でしかなかった。それがアースくんの物語のために、アースくんの人柄のために、外界へ目を向けることになった。彼女ら自身の力へ目を向けることに相成った。
儂やミウだけの力では成せなかったことさ。
「……構わないよ。元々儂が一人で成していたことを、君に僅かに負わせていたことだ。ミウ、君がそれを望むと言うなら、儂は、何も止めないよ」
儂は彼女から負担を返してもらう。"役目"を返還させる。
「さあ、行きなさい。君の持つ力をさらに研ぎ澄まして儂を救えるほどに、君がいつの日か誓った言葉の通りになれるように」
いつのことを言っているんですか、とミウはいつもよりも少しだけ柔らかい顔で笑った。儂が奪ってきてしまった時間に花を咲かせた。
ここからはもう、ミウには後ろ楯がなくなる。その分"自由"が彼女の責任になる。返還された力だけがミウの全てとなる。
言い訳はできない。もう退けはしない。
「行ってきます、お爺様」
……行ってらっしゃい、ミュレス・トランウェルト。儂の……大事な大事な、孫娘。
これにて序章は終了となります。
次回から一章へ移行します。
乞う御期待。