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おそくても、きっと

作者: TKD

 追い討ちをかけるように、ぽたぽたと雨が降ってきた。

 だが、羽篠紫うしのゆかりは、かばんに入った折り畳み傘に手をつける気にはなれなかった。

 張り出された掲示板。そこに紫の受験番号はない。

 がらがらと、頭の中で色々な物が崩れ落ちる。崩壊した瓦礫に、新たに積み重なる“後期試験”“夜間学校”“高校浪人”……

 もう一度、数字を上から順に追ってみる。

 ――ない。

 もう二度、三度と、紫は視線を上下させた。ただただ上下させた。本当にないのか。見落としてるだけじゃないのか。

 ――はは。ない。ないよ。

 自分の番号があるべき場所をいくら睨みつけても、数字は浮かび上がってきたりはしない。

 頭が段々と覚醒していく。辺りは人の音で騒然としていた。さっきまでは全ての音が遠くに聞こえていたのに。

 また一人、制服を着た――あれは東中のだ――女子生徒がやってきて、掲示物を見るなり悲鳴をあげた。歓喜の叫びを。

 ぱっと、花が咲いたように笑みを広げ、その子は携帯電話を素早くコールし耳にあてがった。受かっていたのだろう。相手は両親か友人か、それとも学校か。

 すぐ横にいる彼女が、紫にはとても眩しく見えた。さきほどから頬に当たる水滴は、ひょっとして自分にだけ降り注いでいるのではないか。そんな錯覚すら、彼女は覚えてしまった。

 短い通話を終え、彼女は校舎内へと走っていった。合格者には手続きの書類が渡されることになっているからだ。

 やがて少女は、人込みに溶け、消えた。

 紫はしばらく、意味もなくその場で立ち続けていた。



 見慣れた中学校の昇降口へ戻ってくると、普段は何の感慨も浮かばないのだが、紫はなぜかほっとした。これから職員室へ不合格の報告をしなければいけないのがいささか憂鬱ではあったが。

 水分の過剰摂取でメタボリック状態になった靴と靴下を脱いで上履きを履く。ブレザーと髪を軽くはたいて雨水を飛ばす。改めて自分の姿を見る。ワイシャツは雨を吸って肌にぴったりと張り付き、下に着ていた服が透けている。

 どざえもんみたいなこの格好を見て、先生は何て言うかな。

「ちょっと! あなた!」

 突然廊下に響き渡る女性の声。

「びっしょりじゃない!」

 咎めるような声の主は、養護教諭の笹部佳織であった。面倒見のいい快活な性格から、生徒からの評判は高い先生だった。一児の母であるらしいのだが、しっかりと整ったプロポーションは、それを感じさせない。

「着替えは!? 体育着は教室にないの!?」

 笹部は凄まじい速さで捲くし立てる。紫は完全に気圧されてしまった。

「……あ、あります」

 震えた小声は寒さから来るものだと思ったのか、笹部は矢継ぎ早に「何年何組の誰?」

「三年二組です……羽篠紫」

「保健室に行きなさい、暖房入ってるから。あ、タオルがあるから身体拭いときなさいねー!」

 そう言うと、駆け足で階段へ向かって行った。

 台風みたいな人だな。思わず紫は、雨を降らしてるのはあの人なんじゃないかと邪推してしまった。

 保健室は暖かかった。紫はかごに積まれたタオルを一枚手に取った。面をざっと拭いてから、髪についた水滴を拭い取っていく。

 窓ガラスは結露で覆われていて外は見えない。

 コツンコツンと、乱れた足音が響いてきた。段々と大きくなり、ドアの前で止まる。

「タオルの場所分かったー?」

 軽く息を乱しながら、笹部は紫の持っているタオルを見て、「それそれ」と満足そうに頷いた。

「これでいいんだよね?」笹部が巾着袋を差し出す。間違いなく紫の物だった。

「すいませんでした」小さく言って紫は受け取り、ベッドの傍に行ってカーテンを仕切った。紐を解いて、中身をシーツに置いていく。水を吸って重くなった衣服を脱いで適当にたたみ、空になった袋に詰める。

 下着姿になると、急に冷感が自己主張をし始めた。身震いしながら、皮膚に張り付いた水滴を拭っていく。指先は血行が悪くなったのか、薄黒く、関節が凍りついたように固い。握り拳を作ればバキバキと崩れ落ちそうだった。紫は抱きかかえるような格好で両手を脇の間に挟んだ。

「結果、どうだった?」

 カーテンの外側で、笹部が訊いた。

 紫は何と言おうか迷った。ただ一言、ありのままに結果を伝えればいいのだが、脳内に浮かんだ言葉が音声となって出てこなかった。

 不意に訪れた間に、笹部はやぶ蛇だったか、と頭を掻いた。

 ジャージに着替え終わると、紫はタオルを綺麗に四つ折りにたたみ、カーテンを引き開けた。

 結露の膜が張った窓越しに、笹部は外を見ていた。湯気の昇るマグカップを手に、誰もいない校庭を。

「――五年前の今日も、こんな雨だったかしらね。あの時も、わたしはこうして雨を見てた」

 笹部はどこか懐かしむような色を瞳に湛え、一口すする。

 紫の視線を感じたのだろうか、笹部は振り向いて軽く微笑んだ。

「わたしの息子もね、失敗しちゃったんだ、高校受験。どうせ私立なんて行かないんだから滑り止めに受ける必要なんてねえ! って啖呵切ってたくせに、落ちちゃってねー」

 その口調に、紫への慰めの色はなかった。「昨日のドラマ見た?」という感じの、無味無色のもの。

「――どんな感じでした?」

 それは単なる興味心だった。

 昨日の晩、もし自分の番号がなかったら、落ちたとしたら、と想像しただけで、紫は心臓が暴走し、呼吸が苦しくなったのを覚えている。

 しかし、実際はどうだ。

 紫は冷静だった。まるで自分が自分でないかのように、現状を俯瞰しているではないか。

 先生の息子はどうだったのだろうか。それ以前に、彼女は生徒からの人望もある。受験に失敗した生徒――特に女子の――が相談に来ていても何らおかしくはない。今までにも、こうして紫のような生徒を見てきたに違いない。

 自分は少数派なのか、多数派なのか。なぜか分からないが、無性にそれが知りたかった。

「いろんな子を見てきたけど、やっぱりみんな泣いてたわね。そりゃそうよね、十五歳にして早くも人生の壁にぶち当たるわけだから」

 けど――。そう前置きして、笹部は言った。

「今のとこ、あなたみたいな子は二人しかいないわね。あなたを含めて二人。ま、滑り止めの私立受けないで都立一本で行くって子のほうがめずらしいといえばめずらしいけどね」

 紫は心臓がトクンと高く跳ね上がるのを感じた。反射運動のように疑問が口を出る。

「どうして都立一本だって?」

「保健室のおばさんはね、総じて名探偵なのよ」

 紫の懐疑的な視線を、笹部は首をすくめてかわす。一拍置いて、

「あなたの“雰囲気”から推測しただけよ。言ったでしょ、あなたで“二人め”だってさ。栄えある第一号は、家の愚息なわけよ」

 笹部は愉快そうに笑った。

「あなたたちってホントに似てるのね。学校に戻ってきた時間も、受験高校も、雰囲気も、全部いっしょ。これから進むのは、一次と比べて倍率が跳ね上がる二次試験だっていうのにね。まあ、家の息子の場合は単に危機感がなかっただけかもしれないけど。――ああ、ちなみにあいつも、ここでこうしてジャージ姿にドレスアップしてたわ、あなたと同じ場所で」

 紫が思わずベッドの上を凝視するのを見て、笹部は愉快そうに笑った。

 そこで紫は分かった。なぜ先ほどから笹部が妙にえびす顔で紫を見ていたのかを。

 彼女は自分を通じて息子の姿を見ていたのだ。五年前の雨の日の出来事を。

「結局、なんとか無事後期試験に受かって、今は大学生。人生なんて、案外なんとかなるものよ」

 話は終わりらしく、笹部は両出を軽く広げてみせた。

 しばらく沈黙があった。

 その静寂を破ったのは笹部だった。思い出したように声を出す。

「羽篠さん、あなたって神頼みとかする方?」

 一応お守りくらいは持っていた。願懸けにそこまでウエイトを置いているわけではなかった。クラス全体の八割は所持していたため、「持ってないと取り残されてしまう」という不安感から手に入れたという感が強かった。

「ここの学校にもね、隠れた“名所”があるのよ。二次試験のみに効く、ね」

 息子もそれで受かったみたいのもんだから。そう言って笹部は紫にウインクしてみせた。

「あなたも一度、行ってみたら? 岡本先生にはわたしから言っといてあげるからさ。場所はね――」



 雨雲も、蛇口が緩みすぎているのを悟ったのか、雨脚は幾分弱くなっていた。

 とは言え、陽はまだ毛布に包まっているようで、起きる気配はない。

 上下の服は乾いているのだが、靴はすでに水分飽和状態で、歩く度にズポスポとしまらない音をたてる。素足で履いているため、せっかく身体を暖めたのに台無しである。

 校舎の裏には、焼却炉と職員の駐車スペース、点在する木々があるだけだ。

 笹部が言っていた桜の木はすぐに見つかった。と言うより、これしかない。

 それは立派な大木で、直径は、紫が両手を広げてもすっぽり入ってしまうほどだ。由緒ある神社にあっても違和感はない。むしろここにあるほうが不自然に感じる人もいるかもしれない。

 紫は視線を上へと向ける。

 裸の大木。まるで仮死状態のようだ。今のわたしのように、花を纏わぬ寂しい老木。

 傾けた傘の隙間から雨粒が入り込み、こめかみを伝って目の中に入った。視界が滲む。反射的にまぶたを擦る。擦れば擦るほど、目尻からは水が溢れて、目の奥が熱くなる。刺激物を食べたわけでもないのに鼻腔がツーンと痛む。

 周りには誰もいない。そもそも、常時ここは人気がない場所とも言える。

 込みあがってくる嗚咽。

 紫は泣いた。声をあげて泣いた。

 全て流してしまえばいい。無意識下で抑えられていた感情も、全部。

 何分ぐらいそうしていただろうか。紫は幾分、身体が軽くなったような気がした。

 ふと、紫は気付いた。何かが木の表面に彫ってある。見たところ文字のようだ。

『僕は鳥になる!』

 乱雑に刻み込まれたその言葉に、紫は思わず吹き出してしまった。他人から見ればただのふざけた落書きにしか見えないだろうが、今の紫は真意を悟ることができた。恐らく、鳥が種を運び、木を育てるという所から由来しているのだろう。つまりは、“さくらを咲かせてやる”という決意の表明なのだ。

 書いた人物が笹部の息子だとは断言できないが、紫はなぜか確信があった。まるで当時の現場に居合わせたかのように、情景が見えるのだ。

 ――見知らぬ少年が、同じように、この場で感情を爆発させ、必ず受かってみせると固く決意をしている。

 紫はもう一度、高木を見上げた。

 今は裸のこの大木も、一ヵ月後には新たな命が実を破り顔を出す。風に揺られるたび彼らは空を舞う。自身の生命力、存在感を誇示するかのように。そして、旅立つ者たちを祝福するかのように。

 彼らは、必ずやってくる。たとえ遅咲きでも。

 きっと。

 初めまして、これが初投稿になりますカルミアと申します。まずはこの場をお借りして、今企画の発案者である次深さまにお礼を申し上げます。すばらしい企画に参加させていただき、ありがとうございました。

 拙作に目を通していただいた方々にも、深く感謝のお言葉を述べさせていただきます。ありがとうございました。


 まだまだ下手くそなカルミアですが、これからも切磋琢磨していきたいと思います。それではっ。

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