文章に苦手意識を持っているけど小説を書く
たぶん。私は文章を書くのが苦手だ。
特に、感想文とか、手紙とか何を書いていいかわからない。
何を思いましたか?何を感じましたか?と聞かれても「へぇ〜、そうなんだあ」ぐらいの感想しか出てこない。
りんごを描写しろと言われたって赤くて丸い。食べると甘くて美味しいとか、月並みの言葉でしか言い表せない。
ルビーのような〜〜。一口噛めば芳醇な〜〜。なんて表現、どんな思考回路をしていれば瞬時に思いつくのだろう。是非とも頭をかち割って見せてもらいたいものだ。マトリョシカのように中からりんごが出てくるに違いない。
と、冗談はそれぐらいにして。
私は文章に対して苦手意識を持っている。
それでも小説を書き続ける理由について今日は書いていこうと思う。
昔から、文章を書く事に苦手意識を持っていた。
感想文しかり、手紙しかり、そういったものは避けて通ってきたように思う。
夏休みの宿題で定番の読書感想文は人生の中で一回か二回ぐらいしか提出した事がない。一冊の本に対して、二百文字詰め原稿用紙二、三枚分の感想なんて浮かばないし、入賞した感想文を読んでみると本の感想と言うより、本を読んで想起した自身の話だ。
それって本に関係なくない?とも思ったが、AとBを繋げて考える事は大人たちにとって、“豊かな感性”だったのだろう。
「面白かった」「つまんなかった」
本を読んだ感想なんてこれで十分ではないか。
ここがこうで、あれがああで、だからこんな風に思った。なんて、いちいち考えていてはそれこそ野暮ったい。
主人公と一緒に笑って、泣いて。迫り来る危機に鼓動は速まり、あまりの悲しみに胸が締め付けられる。涙はぼろぼろとこぼれて、ぱたんと本を閉じれば、物語の余韻に浸る。
その感動を言葉に書き現わすことなんてできるはずがない。
と、当時の私が考えていたわけではない。
当時はただ、感想とか自分の意見とか何を書けばいいか分からなかっただけだ。
小学生や中学生が文章を書く機会なんて、感想や手紙、反省文くらいしかなかったと思う。
例えば。最近の出来事だが、使用感について感想を書いて欲しいということで新製品の化粧水を試した。
つけた時の感覚だとか、肌の調子だとか、匂いだとか。良かった点。改善した方がいい点など、意見を求められた。
正直、他の化粧水と何が違うのかよく分からなかった。抱いた感想は「普通の化粧水ですね」だ。けれど、これをそのまま感想として書いたって何の役にも立たないし、わざわざ書く意味もない。だからと言って何も書かないわけにはいかない状況で、確実に批判を食らう感想を書くのもいかがなものか。だったら当たり障りのないことを書こうと思っても、当たり障りのない感想って何だろうとまた悩む。
いくつになってもこの手のものには弱いままだ。
学生の時分は常に何かを書かなければいけない状況だった。
その都度、何を思ったわけではなくとも無理やり空白を埋めなくてはならない。
また感想。また反省。毎回毎回、何を書けって言うんだ! それこそ “いかに空白を埋めるか?” に一番頭を使っていた。
もちろん、感想や反省が好きになるはずもなく。
文章を書く事に対する苦手意識に繋がっていったように思う。
文章に苦手意識を持つ理由はもう一つある。
小学生の頃は一切小説を読まなかった私だが中学に上がってからは一転、重度の活字中毒者になった。休日になれば図書館に通いつめ、分厚い小説を何冊も借り、家でも学校でも、暇ではなくとも読んでいた。本を手離すのは授業中とお風呂に入るときだけ。テスト期間などは絶好の読書日和。今思うとどこにそんな時間があったんだろうと自分で不思議に思うほど、読書浸けの毎日だった。
と言っても私は偏食の嫌いがあるため好んだジャンルはただひとつ、海外の児童文学だけだ。
最近はヤングアダルト小説と呼ばれているが、ひと昔前はジュブナイル小説と呼ばれていたらしい。ティーンエイジャー向けの小説、つまり十代の少年向けの小説の事だ。
ジュブナイルという言葉は最近どはまりしたバンドの曲名で知った。これは余談である。
中でもとりわけ好きだったのが冒険とか魔法とかのファンタジー小説だ。
一番の有名どころはハリーポッターだろう。他にもハウルの動く城で有名なダイアナ・ウィン・ジョーンズや、日本でアニメ化もしたデルトラクエストを書いたエミリー・ロッダ。
ドイツの児童文学ではラルフ・イーザウの小説も好きだ。
翻訳家の金原瑞人さんと言えばああ、ああいう小説が好きなのねと理解してくれる人もいるのではないだろうか。
とにかく。私はそのあたりの小説を端から端まで読みまくった。
ちなみにハリーポッターの最終巻は私が初めて夜明けを見た作品だ。
読みまくった結果、私は自身のハードルを上げすぎてしまったらしい。
そもそも私が小説を書くようになったのは友達の言葉がきっかけだった。
私は友達と一緒にトイレに行くような性格でも、休み時間の度に友達と話すような協調性のある人間でもなかったため、本を読む事が多かった。
別に友達がいなかったわけではない。優先順位が本の続きだっただけだ。
大人になってから『読書中に話しかけてもいつもうわの空だった』と言われた。……申し訳ない。
それはともかく、私が本好きと言うのは周知の事実だった。
そんな私に友達は言った。
『〇〇ちゃんは小説書かないの?』
晴天の霹靂だった。
私にとって小説とはすでに完成されたものだった。
車に乗るのが好きな人でも、車を一から作りたい!と思う人は少数ではないだろうか?
それと同じで自分で小説を書くなんて発想はまったくなかったのだ。小説は小説家が書くもので、限られた人が書くものなのだと思い込んでいた。
けれど、友達のその言葉は私の既成観念を粉々に砕いたのだ。
小説を書くのに必要なのは紙とペンだけ。私が小説を書かない理由なんてひとつもなかった。
さあ、ペンを持て。頭の中の物語を真っ白なノートに書き綴れ。
『ーー女は無我夢中で走り続ける。漆黒のマントを見に纏い、フードを深くかぶっている。襟元にはペンダントが輝く。腕にはしっかりと赤ん坊を抱きかかえていた。その赤ん坊もまた、黒い布で包まれている。満月は女を逃すまいと、一面の闇を冷たく照らしていた。後方からは追っ手が迫っている。馬蹄の音がどんどん近づいている』
……どんどん?なんか雰囲気に合わなくないか?他の言葉で言い表したいけど、何がいいんだろう?そもそも、言葉足りなくない?もっと情景描写した方がいいんだろうか?
なんて、ひとつの言葉ごとに適切な表現はないかと電子辞書を駆使して検索した日には一向に先に進まない。
後から後から物語は溢れ出して、続きを書く事に飽きてしまうのだ。
ここで先ほどの自身のハードルを上げすぎた、だ。
素人の分際で、自分が書く小説に今まで読んできた小説のレベルを求めていたのだ。
本職と素人のガキが書く文章など比べるまでもないし、初めから出来るなら誰だって苦労はしない。
そんなことも気付かずに高望みしては結局行き詰まる。
冒頭だけ書かれた、後は白紙のページが続くノートばかりが増えていった。
そんな時、出会ったのが『小説家になろう』だ。
私はそれまで“小説書かないの?”と言った友達以外には誰ひとり自分が小説を書いている事を教えていなかった。
わざわざ自分から言うものでもないし、恥ずかしさもあったのだと思う。
中学の頃は友達に書いてきた小説を読んでもらったりしていたが、別々の高校に進学し会う機会はめっきり減った。
私が書いた小説は誰にも読まれなくなったのだ。
せっかく書いたのだから誰かに読んでもらいたい。そう思うのは間違っていないはずだ。
けれど、今更打ち明けて小説を読んでもらうなんて、小っ恥ずかしくてできるはずがない。だからと言って出版社に投稿するほどのものを書ききる根気はない。
そうして行き着いた結論こそが小説家になろうだった。
その頃、本屋でも異世界トリップものや乙ゲー転生ものなどの小説をよく見かけるようになった。初めはなんだか最近流行ってるなあと思う程度だったが、そのうちの一冊を読んでからどはまりし、その作品が小説家になろうというサイトに掲載されているものだと知った。
そこから他の小説にも手を出し、読んでいるうちに気づけば朝という日が何度もあった。
「小説を書きたい」「書いてみたい」という方の登録も歓迎しています。
こんな小説も歓迎します!
・文章が苦手な人が書いた作品
“小説家になろうについて” という所にこんな風に書かれている。
ここなら私でも小説を投稿できるかもしれない。その思いは日に日に強くなり、私は投稿を決意した。
小説家になろうに投稿するにあたって、私は自分に決め事を課した。
私はそれまでいくつも物語を考えてきたが、考えただけで小説として完結させたのは一作品しかなかった。それも三千字程度の短編だ。
本当はどの物語もちゃんと終わらせてあげたい。けれど、私には全てを書ききるだけの力がなかったのだ。
文章力、構成力、描写力、継続力、私にはすべての力が不足していた。
だからと言って、自身の無力さを嘆いていても始まらない。
力が不足しているなら身につければいい。亀のような行進でも着実に前へと進めばいい。
私はここで小説を完結させよう。
そう、決めたのだ。
どれだけ文章が不細工でも、これでいいのか?と自分で首をひねるような表現でも気にせずに書き進める。
初めて投稿した小説は今では十万文字を超えた。書き始めて一年が過ぎた。
更新スピードはだいぶ遅いし、今でもあれを書いたりこれを書いたりとふらふらしている。それでもこんなに長く書いたのは始めてだ。
初めてブックマークがついた時は嬉しかったし、もらった感想は何度も読み返している。
誰かが自分の書いた小説を読んでくれている。続きを待ってくれている。よし、頑張ろう。と思えるのは、誰かに読んでもらって初めて味わえる感情だ。
私は文章に苦手意識を持っている。
それでも小説を書いているし、おそらく死ぬまで書き続けるのだろう。
たとえ、下手だろうが読みにくかろうが、単語が連なれば文章だ。
文章が連なれば、物語が始まる。
私が小説を書き続ける理由はただひとつ。
小説が大好きだからだ。