スームアンメーオノーンファッ――猫かぶり
好き。
本田奏が、星野明里を好き。
明里の上に馬乗りになってこちらを見下ろす男の顔は笑ってもからかってもいなくて、ただ痛みを堪えるような顔をしている。告げた先から後悔しているような、傷ついた顔。
明里はなにも考えられず、ただ呆然とその顔を見返していた。
「ごめん」
その言葉とともに、明里の上から奏は退く。掴まれていた両手首は、うっすらと熱の残骸だけを帯びる。顔が触れ合うほど近かった濃密な気配が消えて、無意識に止めていた息を吐いた。
なにに対するごめん、なのかわからず、顔だけわずかに上げ相手を見る。思考は風に乗る雲のようにあちらこちらで千切れている。起き上がると、今さらのように手が震えた。
明里が起きると、奏は距離を取るように立ち上がった。立ったまま、自分の髪をぐしゃりとかきまわす。
奏はふーっと肩で息を吐いて、こちらを見ないまま言った。
「ずっと言いたかったことがあるんだ。いや、言わなきゃいけないこと、がある」
言いたいのではなく、言わないといけない。
わざわざ訂正されたそのニュアンスを掴みとれるわけもなく、明里はただ茫と奏の後ろ姿を見つめる。
奏は正面の本棚のほうに歩み寄ると、一番隅に立て掛けられたなにかを手に取った。こちらを振り返ったその目は、雲の多い日の夜空のような、ふしぎな暗さがあった。
「それなに」
自分の声は頼りなくかすれていて、ああ私やっぱり恐かったのか、と気づく。そのことに笑ったらいいのか泣いたらいいのか、あるいは目の前の相手をおもいきり殴ればいいのかわからず、震える顎に力をこめた。
奏が持っているのは本だった。文庫よりは大きく、ハードカバーよりは小さな紺色の本は、端がかなりよれていた。ずいぶん古い物らしい。
少し離れたところから掲げられる一冊の本。
「……覚えてるか?」
なぜか奏の声は、震えているように聞こえた。明里は黙ってその本を見つめる。
古い本だった。頁の端は何度も捲られた所為でその跡がついている。紺色の表紙に、金字で描かれたタイトルを目で読む。
「…………あ?」
どこかまぬけな声が出たのは、記憶と結びついたそれがあまりに予想外のものだったからだ。
中学のとき、明里が図書室で借りた物語だった。
もう内容も覚えてない本をそれでも思い出せたのは、これが学校で借りた最後の本だからだ。
「なんでこんなの、持ってるの」
薄汚れて傷んだ本は、たとえ古本屋にあっても気がつかなかっただろう。
ふしぎな思いで相手を見れば、奏は静かな声で答えた。
「俺が、自分のしたことを忘れないために」
「奏君、今日どこ寄って帰る~?」
授業が終わると、いつものようにヤマオカとタツヤが席を取り囲んだ。ヤマオカの太い腕とタツヤの細い腕の間から、奏は無人の席をちらと見る。
星野明里の席。彼女が学校に来なくなってから一週間が経っていた。
最初は誰も気づかなかった。彼女はそれほど影が薄く、友だちと呼べる存在もいなかったから。
きっと、奏しか気づいてなかったはずだ。どんなときも学校に来ていた彼女が、あの翌日から来なくなったことを。
今日の三時間目は古文だった。日付と出席番号を照らし合わせて生徒を指す主義の教師が呼んだのは明里の名前だった。
「星野休みか」
そこで教師もはじめて気づいたように、
「なんだ、今週ずっと来てないのか」
と呟いた。
そのとき初めてクラスメイトの視線の波が、椅子と机がぴしりと付いたままの席に漂った。
「そういえば、最近休んでるね」
誰かがぼそりと言った。声が教室に波紋のように広がりかけたところで、奏はそれを制するように片手を上げた。
「先生、よかったら僕休んでる間のプリントとか、星野さんの家に届けに行きますよ」
古文の教師は担任でもあった。受け持ちの生徒が一週間も休んでいたことに今さら気づいたことが後ろめたいのか、担任は奏の言葉にほっとしたように頷いた。
「本田は面倒見が良いな。みんなも見習うように」
定年まであと何年、と数えるほうが早いだろう初老の教師に気に入られている自覚はあった。うっすら笑顔を浮かべて頷いて見せれば、万事問題は解決というふうに授業を再開する。
馬鹿みたいだ。
笑ったまま、奏はそう思った。
「今日は星野の家行くんだ。さっきの話聞いてただろう」
机の脇に提げている鞄を掴んでそう答えれば、ヤマオカとタツヤが顔を見合わせた。
「奏君、ホントに行くの」
「行かないでいいじゃんあいつんちなんて」
ケロッとした顔で言う彼らは、一週間前なにがあったのか本当に覚えてないようだ。どんなに面白かった映画の話題も、三日はしない。彼らにとってあの出来事は、その程度だったのだ。
「うん、でも俺、クラス委員だしな」
肩書きを理由にすれば、ヤマオカたちもあぁと納得して頷く。担任と同じだ。こいつらも馬鹿だな、と冷めた心で呟く。
最近、そういうことがある。熱中していた遊びが、いきなり電池が切れたようにつまらなく感じることが。ヤマオカたちが馬鹿なのは前からなのに、なんだかそれが前よりもっと際立って見えて、奏は内心うんざりする。
「じゃ、俺行くわ」
扉に向かって歩き出した奏を、
「奏」
別の声が呼び止めた。
いつも一緒にトイレに行く女子二人を脇に連れて、ユリが両腕を組んで立っていた。
「あいつのところ行かないでよ」
皆があのことを忘れても、ユリだけは忘れてなかった。折に触れてはなんであんなことしたの、と自分を詰る彼女にも、ヤマオカたちと同じようにうんざりしていた。
は、と小さく息を吐いて億劫そうに首を傾げる。
「先生にもう行くって言ったし」
「いいじゃんそんなの!」
やたら大きな声で叫ぶので、それまでめいめい帰り支度をしながら話していたクラスメイトがこちらを向く。好奇心の入り混じった視線を一掃するように手近な数名を睨めば、慌てたように元の会話に戻っていった。
再びユリを見ると、やけに深刻そうな顔で下を向いている。両端に立ってる女子が励ますように囁いているのが、苛々を増徴させる。
めんどくさい。
怒ったフリをしてこちらに機嫌を取らせようとするユリの我が侭な性格も、前はこれほど嫌だと思わなかった。だけど今日はやけに面倒に感じたから、なにも言わず通り過ぎる。
「待ってよ」
慌てたユリが自ら駆け寄って腕を掴む、その様子を無表情に見下ろした。怒ったような泣きそうな、自分の意図が外れてショックを隠せない様子の顔。それが冷めた奏の目と合うと今度は怒りに変わった。
「最近変だよ奏。しょっちゅうボーっとしてるし、一緒にいても全然楽しくなさそうだし」
突然感情を爆発させたユリの、言いたいことがわからない。大体ボーっとした覚えなんてない。
怪訝な顔で黙っていると、ふいにユリの大きな目に涙が盛り上がった。
「ねぇ……星野さんのこと好きになっちゃったんじゃないよね」
教室中がざわめいた。奏に牽制されても、やはり皆聞き耳を立てていたらしい。けれど予想外の言葉に目を見張った奏は、まわりの喧騒は気にならなかった。
自分の言葉に自分でダメージを受けて本格的に泣き始めるユリを、左右の女子が背中に手をあてて宥めている。
両手で顔を抑えて泣くユリが、ふいにあの日の明里に重なる。
血、出てる
音にする前に空気に消えてきそうな、小さな呟きだった。正面にいた自分以外には聞こえなかっただろう。
星野明里は黙ってティッシュを取り出して、奏の唇の血を拭った。
それまで奏が見たことのない表情だった。だれからもあんな目で見られたことはない。小学校のときに行った林間教室の夜、宿舎に迷いこんできた野生の鹿をなぜか思い出した。珍客にどよめく子どもたちを前にした鹿は、脅えた様子も見せずに凛と立っていた。丸く大きな瞳が、月光を浴びて濡れたように輝いていた。
その明里が、奏とキスしてしまったことを認識すると緩やかに表情を変えた。涙が音もなくこぼれ落ちる。
本当に、こぼれて落ちる、という表現がぴったりだとおもった。めがねの向こうの目が、こんなに大きいなんて誰が予想しただろう。大きなガラスの器から水滴が落ちるみたいに、黙って落ちていく涙の粒を無意識に目が追っていた。
してやろうか
ただの遊びのつもりだった。前の日に図書室の隙間から見えた明里の目が、怯えたようにも恍惚としたようにも見えて、なんとなく、もう少し近くであの顔を覗き込んで見たくなった。普段塞がっている固い蓋がなにかの拍子で少しずれたら、その向こうになにがあるか誰だって興味があるはずだ。
それなのに、あんな顔をするから。
「ユリは俺のこと好きなの」
尋ねれば、周りからどっと囃し立てる声がする。この間と同じだ、と浮かべる笑みとは逆の冷えた頭で考えた。なんでもすぐ調子に乗って騒ぎ立てる。それなのに、すぐ忘れる。
馬鹿だな。そう思ったのは、周囲に対してなのか、頬を赤らめるユリに対してなのか。
それとも、別のなにかにか。
――つまらないな。
ふっとまたあの感覚がよみがえった。電池が切れたように、目の前のものに興味がなくなる。
ユリが涙を拭って嬉しそうに周りを見渡す。さっき縮こまっていたように見えた体はすっと伸びて、そうすると左右の女子は申し合わせたように一歩引いた。女王と従者。そう心の中で思えば、皮肉気な笑いが口の端に浮かんだ。
「ユリ」
にこりと笑いかけてやる。地声より少し高めの声を出すと、印象が明るくなって好印象を持たれやすい。以前読んだサラリーマン向けの自己啓発本に書いてあった。
奏は笑顔のまま言った。
「俺は、ユリのこと好きじゃない。別れよう」
担任から聞いた住所を頼りに明里の家に向かう。漠然と予想したとおりの、集合住宅の片隅にある古くも新しくもない一戸建て。灰色のブロック塀を頭ふたつ分ほど越すように生えている木々には花も実もついてなかった。ところどころ色の剥げた金色の門扉の向こうに、石段を二段重ねて作られた土台に建つ家がある。
表札の隣に設置されたインタフォンを押す。数秒待ったが反応はなかった。少なくとも本人はいるはずなので、かまわず再度インタフォンに指をあてる。
二度目を鳴らす前に、門扉の向こうの扉が開いた。
「どなたですか?」
あまり似てないな、というのが第一印象だった。
娘はあんなに太っているのに、母親はその分痩せているようだった。この二人、足して二で割ったらちょうどいいのに、などとおもっていても顔には出さない。落ち窪んだ丸い形の目が、一度だけ見ためがねのない明里に似てるといえば似ていた。
「クラス委員の本田と言います。星野さんが休んでる間のプリントを持ってきました」
肩に掛けている鞄を開けて、
「あと僕のノートをコピーしたので、良かったら使ってください」
一週間分あるため、結構な量になっているコピー用紙の束を取り出す。中学生男子にしては自分の字はきれいなほうだと思う。恐縮しながらお礼を言われることを想定して微笑みかけると、
「いりません」
明里の母親は扉の前に立ったまま告げた。言ってる意味がわからず、おもわず笑顔を引っこめる。
明里の母親は無表情にこちらを見ていた。丸みのある目は平常時では優しく見えるだろうに、今はそれがまったく感じられなかった。
「あの子は学校を辞めますので、もうそんなもの必要ありません」
そんなもの、と言われた紙の束が手の中でガサリと擦れる。ガラス皿のような目と目を合わせて、辞める? と無意識に呟いていた。
辞めるって、学校を?
がちゃり、と母親の後ろで扉のドアノブを鳴らす音。扉が開く気配に、固まっていた奏は素早く振り向く。明里だ、とおもった。
「それじゃ、これで失礼します」
出てきたのはワイシャツにパンツ姿の腹の突き出た男だった。明里の母親に向かって声をかける。
「先にもう使わないものとかを詰める用のダンボールをお送りしますね。当日までに適当に詰めてってください」
「はいわかりました」
ありがとうございました、と明里の母親は穏やかに笑って頭を下げた。男は石段を下りると門扉の前で立ち尽くす奏をちらりと見て、そのまま横を通り過ぎた。一瞬開いた門扉が、再び閉じられる。
もう使わないものとか詰めるダンボール。
男の言葉がゆらりと回る。日常生活でダンボールが必要なシーンは、一つしか考えられない。
「引っ越すんですか」
学校を辞めるという意味を把握して、おもわず尋ねていた。
明里の母親は微笑みの消えた顔で奏を見下ろすと、
「夫の転勤が決まったので。ちょうどよかったわ」
軽く言われた最後の言葉に、ぎくりと体が強張る。
さきほどからの奏への態度と、この言葉。
もしかして知ってるのか。自分が明里になにをしていたか。
なんとなく、明里は誰にも言ったりしないだろうと高をくくっていた。だけど自分と対峙する母親の空気は明らかに冷たい怒りに満ちていて、ヒステリックに叫び声を上げたりしないぶん余計厄介に思えた。
「転勤なんですか。どちらに行かれるんですか」
内心の動揺を隠すように微笑んで尋ねれば、母親は無言のまま石段を下りる。門扉を挟んで、正面に立った。
なんだよ。
警戒して、無意識に半歩下がる。明里の母親は笑った。目は少しも笑ってないまま、娘とちがって痩せた頬に、笑んだ皺が刻まれる。
「クラス委員なんて人望があるんですね。それじゃ皆さんに伝えてもらえますか」
唐突に切り出された伝言は、訝る間も、止める間もなかった。
「あの子は、今が一番辛いときだから、ここを乗り越えたらこの先はずっと幸せです。でもあなたたちはちがう。誰かを深く傷つけた事実は、一生心の中に根を張ります。若いあなた方がおもってるより、ずっとずっと長い間」
突然見えない刃を喉元に突きつけられた気がした。まばたきもできずに相手を見返す。笑みを消した鋭く強い眼差しで、母親は奏を見据えて言った。
「どうぞ後悔してください。人を傷つける行為は、最後は必ず自分に返ってくるんです」
そうやって追い返されたのが二週間前。奏は放課後の廊下を歩いていた。頭の中ではもう何度目かしれない、明里の母親の言葉が再生されていた。
後悔してくださいって、そんなこと言われたって。
そんな、いつの日か目が覚めたように罪悪感に苦しむくらいだったら、最初からやってない。大人はわかってないんだ。教室という檻の中で、家という檻の中で、子どもたちがどれだけ暗くて強い情動を抱えてるかなんて。
みんな一番下は嫌なんだ。それだけの奴もいるし、他にも理由がある奴もいる。ひとりひとりにマイクを向けて尋ねるなんてことはしないけど、奏にはわかる。星野明里みたいな奴は必要なんだ。
そんなふうに、明里の母親に心の中で反論することが増えている。
ぼんやりと歩いていた奏はふっと足を止めて腕時計を見た。ユリと別れてから放課後にやることもなくなって、かといって家には帰りたくはなかった。ヤマオカたちを呼ぼうか。そうおもってると、
「引っ越すんだって?」
目の前の部屋から声がした。顔を上げると、ちょうど図書室の前だった。薄く開いた扉の向こうで、たまに来る司書教諭が本棚と本棚の間にもたれかかっている。
――――あ。
目を見開いて立ち止まる。
「そうなんです。だからこの本、返さないとって思って。返却期限間に合わなくてすみません」
司書教諭の向かいに立っていたのは明里だった。
三週間ぶりに見る明里は特に変わってなかった。痩せた様子も、やつれた感じもない。いつもどおりぶ厚いめがねをかけて、いつもどおりダサいみつあみをしている。
それなのに、なんとなく声に弾みがある。表情もどこか生き生きとして見える。なぜか目が離せなくて、知らぬ間に開いた隙間に顔を押し付けるようにして明里を見ていた。
二人は奏の存在に気づかず、朗らかに談笑している。
「いいよいいよ。バタバタしてたでしょう。でもどこに引っ越すの?」
「タイです」
――たい?
聞こえてきた言葉が、国の名前とはすぐには結びつかなかった。さらに扉に近づいて耳を澄ますと、
「海外なの」
司書教諭が驚いた声を上げて、それでようやくタイがあの外国のことだと気づいた。
転校って、海外なのか。
すぅっと息を吸いこむ。なぜか胸の内側が、さざ波が立つように騒いだ。
「大変だろうけど、でも楽しみだね」
司書教諭も明里の気もちが前向きなことを察したのか、笑みを含んだ声で言う。
「はい」
明里は頷いて、そして顔を上げた。夕暮れの図書室で、後ろの窓から西日が差していて、表情はあまり分からないはずなのに。
それでも奏は見た。明里がうれしそうに、笑うところを。
きれい、とおもったわけでも、かわいい、と見惚れたわけでもない。それなのに奏は、なにか大きなものを突きつけられた気がして、目が離せなかった。
星野明里でも、笑うんだ。
教室の彼女は、いつも、なにをされても無表情だった。黙って命令に従って、嫌そうにすることも、泣いたり叫んだりすることもない。一度だけだ。あの、キスの後だけ、明里は嫌だと言って泣いたのだ。
泣き顔をはじめて見た。そして今、笑った顔をはじめて見ていた。
「これ、ありがとうございました」
明里はそう言って胸に抱えていた一冊の本を司書教諭に手渡した。
その後少しのやり取りの後、明里がこちらに向かってきた。奏は咄嗟に廊下の突き当たりに身を隠した。
ガラララ、と扉の開く音がして、明里が図書室から出てきた。
こっち来るか?
胸の内側が再び騒ぐ。
もし顔を突き合わせたらどうなるだろう。たぶん、お互いとても気まずい。だから心臓が騒いでるんだろうと判断する。
だけど、これで最後だ。
そう思うと、こっちに来るなと思いながらも、体はまるで見つかろうとしてるかのように前に出ていく。
けれど明里はこちらには気づかず、そのまま奏と反対の廊下に向かって歩いていった。
奏は壁に片手を突いて、その後ろ姿をじっと見つめていた。歩く振動につられて、みつあみの先が少しだけ揺れる。むちっとした足の歩幅がいつもより大きな気がするのは、これからの未来に向かって気もちが高揚してるからだろうか。
そうだ。嬉しそうなんだ、あいつ。この学校から離れることが。
俺から離れることが、うれしいんだ。
発見と同時に、それまで騒いでいた心音が静かになっていく。
明里の姿が完全に見えなくなってから、息を吐いて視線を図書室に向けた。閉じきってない扉に手を差し込んで引いた。
「すみません、探してる本があるんですけど」
明里がいなくなって無人になっていた図書室に、自分の声が響く。カウンターでなにか書いていた司書教諭が、驚いたように顔を上げた。
奏は笑顔を浮かべながらカウンターまで直進した。カウンターには案の定、明里が返したばかりの本が本棚に戻されずに置かれていた。
「あぁ、それです。その本借りたいんです」
自分でも自分の行動の意味がわからない。
だけど、その本を他の誰かに借りられたくなかった。
司書教諭は、これ? と唐突な依頼を訝るような声で呟いた。
「そうです」
司書教諭から本を受け取り、見てなかった表紙に視線を落とす。紺色のハードカバーに、金字でタイトルが記されている。知らない作者が書いた知らない物語だった。
図書カードを作ったことがなかったので、司書教諭に言われるままに鉛筆で新品のカードに名前を書く。
「こっちの欄にも書いてね」
司書教諭は本の背表紙の裏側を見せた。そこには貸出し者の名前を書く用紙が貼りつけてあり、一番下の列に明里の名前が書かれていた。
星野明里
少し丸い彼女の字。枠のなかに遠慮がちに小さく書かれたそれを見て、吸い込んだ息が胸の奥で固まった。
「君?」
司書教諭が、鉛筆を持ったままなかなか書こうとしない奏に声をかける。奏は急いで自分の名前を記入した。焦ったせいで、いつもより乱れた字になる。こんなんじゃない、いつももっとうまく書けるのに。なんだか悔しくて、でも書き直すのも不自然だから我慢した。
もう二度と会うことはない。
さよならも告げずに去っていった明里の後ろ姿が、なぜか目の裏に焼きついて離れなかった。
物語なんて国語の授業や読書感想文以外で読んだこともない。うんと小さい時でさえ、母親に絵本を読み聞かせられた記憶もなかった。だから本を目の前にした最初の抵抗は深さの読めない水に潜る時にも似ていて、けれどページを捲ってしまえばそんなこと気にもならなかった。
「帰ってたの」
声にハッと顔を上げれば、自室のドアをわずかに引いて母親が顔を覗かせていた。会社から帰ってきたばかりなのか、パンツスーツ姿のままだ。
「……早いね」
壁にかかっている時計を見ながら言う。六時半。出版社で働く母親は、いつも終電間際まで帰ってこない。
「一度帰ってきたの。これから出張だから」
これ、と言って差し出された指先には折り畳んだ一万円札が挟まれている。奏は無言で立ち上がると、万札を受け取った。
「卵の賞味期限、見ておいてね」
奏がまだ子どものとき、母親の出張中腐りかけていた卵を放置していたら腐臭がすごかったことがある。以来これだけは言うようにしている母親がなんだか可笑しくて、奏はいつも皮肉が混ざった笑いを誘われる。唯一気になることが卵の賞味期限だって。もし奏が学校でなにをしているか知ったら、この母親はどうなるんだろう。
それでも今日は、そんなことで笑う気にはならなかった。掌の万札を広げると、カサリと紙の乾いた音がした。
数少ない伝達事項を伝えたら気がすんだらしく、母親はドアの向こうに体を引く。
「それじゃ、私もう行くから」
奏はわかった、と目で頷く。それを見てるのか見てないのか、ドアを閉めかけた母親はなぜか一度止まると、振り返った。
「泣いてたの?」
「…………え?」
「目が赤いわ」
一瞬虚を突かれたように固まった奏は、次の瞬間いつもの笑顔を作った。
「本を読んでたんだ。感動して」
母親はじっと奏を見たまま、何度か浅く頷く。ブラウスの上から覗く首の筋が鳥の骨のように浮き出ていた。
もともと太ってたわけではないけど、離婚してからはさらに痩せた。ジャケットを羽織ってるときはわかりづらいけど、スーツを脱いで部屋着になったときの母は、後ろから見てもわかるくらい薄く細くなった。
だから奏は痩せた女が苦手だ。そしてそれよりもっと、太った女を嫌悪した。
なんの苦労もしてないから、そんなにだらしない体型なんだ。そう思うと、丸く膨らんだ身体の輪郭はこちらに幸せを主張してきているように見えた。
さっき見たばかりの後ろ姿を思い出す。揺れるみつあみと、小さくなっていく白く丸いシルエット。
「ちゃんと勉強もしなさいよ」
物思いは、母親の言葉にかき消された。息子との会話がなくても、成績表のグラフの推移を見ればその成長は測れると、母親はそう信じている。だから奏は笑う。いつもの笑みを均等に唇に刻んで、わかってると答えた。
回答に満足した母親は、今度こそバタンとドアを閉めた。奏はすぐにベッドにもたれかかると本を開く。
そっと目元に指で触れる。泣いたのか、なんて。聞かれたことも驚いたし、自分が泣いていたことも信じられない。たしかにやたら目の辺りが熱くなった気はしたけど。
本を読んで泣くなんて、自分にもそんなことが起こるのかと知れば、なんとなく力のぬけた笑いが零れた。読み進めていたはずのページをパラパラと戻っていく。
そうしながら、ふと思う。
星野明里も、同じように泣いたんだろうか。
考えても仕方のないことだ。第一、そんなことどうでもいい。
それなのに、なんとなく気になって文字が頭に入らなくなってきた。さっき夢中で呼んだ場面をもう一度読みながら、心がもうひとつのことを追う。
泣くとしたら、この間みたいに泣くんだろうか。大きな目で、雫を落とすみたいに。
答えのない問いばかりが文字の隙間から溢れ出る。耐え切れず、本を乱暴に閉じた。
けっきょく、その本を図書室に返すことはできなかった。
明里がいなくなってからも、誰の話題にも上らない彼女はまるで幻みたいだった。星野明里なんていう生徒は、最初からいなかったんじゃないか。そんな風に思うとき、本の一番後ろに貼られた紙を見て、彼女の文字を見つめた。
丸く小さな文字を見て、ああやっぱりいるんだと、その存在を確かめる。なぜかそうせずにはいられなかった。
「――成人式のとき、中学の同級生に会ってさ。おまえが帰ってきてるらしいって聞いて」
ソファに座ったまま俯いていた奏が、少し顔を上げる。
明里は乾いた喉をごくりと動かした。もうずっと口を挟めないでいる長い独白が、そろそろ終わりを迎えようとしていると気づいた。
「おまえは知らないだろうけど、会いに行ったんだよ」
黙ったまま目を見張る明里に、奏は柔らかな苦笑を浮かべた。
奏は、中学生のとき一度だけ行ったことのあるその家の前に立っていた。
明里の家は一戸建てだった。であれば、海外赴任の間も誰かに管理を任せて再びそこに住む可能性が高い。そう思っておぼろげな記憶を頼りに向かった先で、明里の家はあの日と同じようにそこに建っていた。
あのとき、十四歳だった自分がどんなふうに思ってこの景色を眺めたのか。もうはっきりとは思い出せない。一月の風は冷たく頬や耳を切るけれど、寒さも気にならずにまじまじと塀に埋まる表札を見つめた。星野と刻まれた文字に、長い息を吐いた。
明里が帰ってきてるらしい。
同窓会会場と化した成人式で、そこにいない者の近況を誰もが知ってる限り発表しあった。その中で、誰かがそう言った。
「本当かそれ」
予想以上の反応を示した奏に、同級生は面食らったようだった。
「ああ。俺の母ちゃんが言ってたんだよ。母ちゃんスーパーでパートしてっから」
やたら情報通でさ、そう言う同級生の言葉は既に聞こえていなかった。
噂話を聞いただけでこんなところまでやって来ている自分のことが、奏にはやっぱりよくわからない。
ただこの五年間、星野明里のことを忘れたことはなかった。
自分の中に長いこと溜まっている澱のような物がなにかをはっきりさせたくて、再びこの場所に訪れていた。
インタフォンを押すと、あの日と同じように電子音が鳴った。
はい、という声はおそらく母親のものだ。五年前よりその位置が低くなったインタフォンに向かって屈みこむ。
「あの……明里さんはご在宅でしょうか」
『どちらさまですか』
声に不審者を警戒する響きが滲む。それでも、いません、と言われなかったことに胸が鳴った。掌に汗がじわりと滲む。
「本田と申します。明里さんの、中学の同級生です」
相手が無言になる。直後、ブツッと音がしてインタフォンが切られた。
奏は再び息を吐いた。下ろした手の指先同士を擦る。心臓がドクドクと鳴っている。
彼女の母親は、きっと自分のことを覚えている。
正直に名乗ってしまった十四歳の自分は、きっともっと強気な目をしてここに立っていた。五年経って、あの日の向こう見ずな強心臓をわけてほしいくらいだと苦く笑う。
ガチャリと施錠を解く音がする。
五年前と同じ。石段を二段上がったところにある扉から、明里の母親がこちらを見つめていた。急いで背筋を伸ばす。
「……あなた」
さすがに驚いたらしく、明里の母親はまじまじと奏を見つめていた。昔より小柄に見えるのは、自分の背が伸びたからだろうか。
奏は黙って頭を下げた。足元のアスファルトと目を合わせて、ゆっくりと口を開く。
「突然すみません。明里さんに、会わせてもらえますか」
心臓の音がうるさくて、自分の声がよく聞こえない。
明里の母親は五年前と同じ厳しい眼差しで奏を見た。両腕を身体の前で組んで、首を横に振る。
「今はいない。出かけてるの」
やっぱりここにはいるんだ。そうおもった次の瞬間、母親の言葉に表情が固まる。
「あの子、学校を卒業したらまたバンコクに戻るから」
「…………え?」
「あっちの旅行会社で働きたいんですって」
あっちの旅行会社。予期してなかった単語が、頭の中でくり返される。
「今度は何年向こうにいるかわからないけど。まぁ彼女が望んだことだからね」
娘に思いを馳せたからか、明里の母親はわずかに表情を和ませた。
一方奏は予想外の言葉に混乱していた。
いつ帰って来たのか知らないけど、今度は自発的にタイに行こうとしているらしい明里。
奏が覚えている明里のイメージと違いすぎて、一体この五年に星野明里はどんな人間になったんだろうと胸が波立つ。
「だから、本田さん」
固い声で名前を呼ばれて顔を上げる。もう微笑んでない彼女の眼差しが、五年前から少しも緩んでないと知って、奏は体を強張らせた。
「もうあの子のことはそっとしておいてください。あなたの罪悪感を埋めるために、あの子と会わせることはできないわ」
罪悪感。
自分の彼女に対する思いを一言で示され、反応できなかった。胸に広がるその言葉は的を得ているようでもあり、けれど心の奥が否と答える。
罪悪感、じゃない。
そんなものを五年も抱えていられるほど、殊勝な性格じゃない。
血、出てる。
自分の唇を拭ってくれた、清潔な眼差し。直後の泣き顔と、西日の射す図書室で見た笑顔。小さくなっていく後ろ姿。
繋げて思い浮かべてもどうということのない小さな思い出。それなのにもうずっと長い間、忘れられないでいる。
古くなった本の一番後ろに貼られた紙。そこに書かれた星野明里という名前。
同じ文字が表札に書かれるこの家に、自分が立っているということ。
吐いた息が震えた。
「……罪悪感じゃありません」
ああ、と思う。
自覚と同時に、言葉が零れた。
唐突にユリを思い出す。星野さんのことが好きなの? と聞かれたことがあった。
息だけで笑う。きっと、彼女のほうが先に気がついていた。
「明里さんのことが、好きなんです」
五年の間に沢山の本を読んだ。物語の主人公たちが人目も憚らず涙する、その気もちがはじめてわかった気がして苦く笑う。
叶うことのない気もちに、ようやく気がついた。マイナスからの、スタート地点にも立てなかった想い。
自ら遠ざけた所為で、友だちにさえなれなかった。
なんて馬鹿だったんだろう。
明里の母親は両腕を組んだまま、言葉の真意を図るように黙っていた。奏の告白に僅かも心揺さぶられた様子のない、判決を下す裁判員のような冷静な眼差しだった。
長い沈黙の後、明里の母親が口を開く。
「明里は今、自分の目標に向かって毎日がんばってるの。それを邪魔しないでちょうだい」
それから少しの沈黙のあと、もし、と続ける。明里の母親は緩んだ両腕を組みなおした。
「もしあなたの気もちが本物なら、こんなところにいないで、自分の人生を頑張りなさい。明里に見合う男じゃなければ私たちは認めないし、それは今のところあなたじゃないのよ」
そう言うと、五年前と同じように扉は閉じられた。
その後奏の大学生活は少し変わった。時おり代返を頼んでいた講義も全て出席し、色々なバイトをして沢山の人と出会った。
国内外の安宿に泊まるユースホステルサークルに入部したのもこのときだ。明里が旅行会社で働きたいと考えているらしいことの、影響がなかったと言えば嘘になる。
それでもサークル活動が楽しかったことは事実だし、就職先を決めるときも、自然と旅行代理店が視野に入った。
自分の人生を頑張りなさい。
昔と同じように、彼女の母親の言葉が頭を回る。けれどもうそれに抵抗することはない。
そんなとき、奏はあの本を取り出した。
明里が最後に借りた本の装丁を撫でては、自分がどうしたいかを考える。
きっともう、星野明里は自分の遥か先を行っている。中学生のとき、小さなクラスのボスだった自分なんて見えないところまで。
追いつきたい、と思う。今は無理でも、彼女がいつか自分を認めて、そして許してくれる時まで。自分の人生を頑張る、と決めた。
そうすれば、いつか会える。そう信じた。