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コーペンエン――大声で言い争う

「勝手な行動は困るからね」

 営業時間が終わった店には斎野だけが残っていた。自動扉越しに見える廊下の灯りも消され、もうすぐこの商業ビル自体が閉まる時間になる。ぼんやりと白く浮かび上がる店内で、斎野は両腕を組んだ。

「ノー・ショウを捜すのは、まぁ仕方ない。だけど他のお客さんはどうなる。ガイドはね、そのツアー全てのお客さんに責任があるんだよ」

 いつもとはちがう厳しい上司の顔をした斎野に、明里は素直にはいと頷いた。


「社長、星野さんは他のお客様のフォロー依頼をしていました。きちんと対処しなかった僕の責任です」

 奏の言葉におもわず隣を見上げれば、奏は決然とした顔で斎野を見ていた。

「責任は僕にあります」

 斎野は眉を顰めた。

「おまえにもあるよそりゃ。バンを回収しろって言うから行ってみたら、中にお客さんいるままだったんだから。ちゃんと説明していきなさいよ」

 いつもの口調に戻った斎野は、ため息を吐いてどさりと椅子に座り込んだ。

「まぁね。幸いお客さんたちは事情を理解してくれてるようだから良かったけど。で、そのお客さんたちは? 今どうしてんの」

「ホテルに送っていきました。もう二度とこんなことをしないよう言っておきましたので」

 奏の言葉に、指先のささくれを見ていた斎野はチラッと顔を上げた。そのまま奏をじっと見る。奏は表情を強張らせて言葉を待っている。

 斎野は再び視線を落とした。

「ま、いいや。二人とも、今日はもう帰んなさい」

 はい、と奏が頭を下げて、明里も機械的にそれに従った。


 雑音と砂まみれの映像しか映さないテレビみたいに、心がざらざらと灰色一色になっている。なにも考えられない。

 斎野は明里がこんな問題を起こして帰ってくるなんて思わなかったはずだ。信頼を裏切ったことを、顔を合わせたことで強く感じた。

 隣を歩く男は、やけにきれいな姿勢で歩くからだろうか、叱責を受けたばかりなのに自信に満ちて見える。それとも自分が卑屈になっているからそう感じるだけなのか。

 もうよくわからない。


 店のビルを出ると、ほぼ無意識にLINEを開いてカーヴィンの名前をタップした。いつもより遅い時間だから、他のお客さんを乗せてるかもしれない。そうおもっていると、

「なにやってんだよ」

 低い声が苛立ったように漏らされる。なにか言うより先に、車道の脇に出た奏が片手を腰の位置でひらひらと揺らした。ほどなくしてピンク色のタクシーが止まる。

 手を掴まれるとそのままタクシーに押し込められ、奏もその隣に座ると乱暴に扉を閉じた。

 タクシーが走り出す。肘を突いて窓の外を向いた奏の、考えてることはわからない。

 タクシーのシートの布地が裂けている部分を避けて座りなおすと、体の力がふっと緩んだ。ずっと緊張していたことに気づく。

 それ以上なにか考えるのも億劫で、目を閉じる。眠ったわけじゃなかったけど、あっという間にタクシーはコンドミニアムの前に着いた。


 コンドミニアムの階段を、奏はやっぱり自分が家主かのように先にずんずんと歩いていく。尊大な背中は横暴な王様のようで、さっき女の子を抱きしめていた背中とは全然ちがって見える。

 やっぱりこっちがこいつの本性なんだ。そうおもったら、なぜかホッとしていた。

 部屋に着くなり、奏はこちらを振り返った。

「普通一緒に帰るだろ。なんでいつもあいつ呼ぼうとするんだ」

 唐突な言葉の意味がわからず眉間に皺を寄せる。玄関先で無言の睨み合い。数秒も続かないうちに、先に視線をそらされた。

「いいやなんでも。メシなにがいい」

 勝手に自己完結したらしく、あたりまえのように冷蔵庫を開ける。明里は黙ったままキッチンに視線を滑らせた。

 流しには炊飯ジャーが水に浸して置かれている。その下にある収納スペースの取っ手に引っかけたハンドタオルがいつの間にか新しいものに取り替えられていた。壁に吊るされた鍋やまな板やお玉は、明らかにここ最近出番が増えている。

 こんな生活に慣れちゃダメだ。

 唐突にそうおもった。

「なんで来たの」

 しゃがんで冷蔵庫を覗いていた奏が振り返って怪訝な顔をした。

「一人で大丈夫だって言ったじゃない。どうしてわざわざ来たりしたの」

 自分でもどうしてこんな言い方を選んだのかわからない。ただ、壊したいとおもった。知らず知らずのうちに築いてしまってる、築きつつあるなにかを、ぶち壊したいとおもった。

 バタン。

 大きな音を立てて冷蔵庫が閉められる。立ち上がって明里を見る目が、夜道に遭遇した野良猫のように強く光っていた。

 びくり、と心が揺れる。

「ざけんな。俺が行かなかったらどうなってたと思うんだよ」

「どうもなってない。せいぜい服が濡れたくらいよ」

 弱気な自分を見せたくなくて、わざと語気を強めた。奏の目が不愉快だとでも言うように細められる。

「今回はたまたま運が良かったんだよ。いいか、もう二度とあんなことするなよ」

 その言い方に、半ば無理やり奮い立たせた感情が本気で赤く波立った。

「指図しないで。私は自分の仕事をやっただけ。大体、いきなり店出てくるなんて無責任だと思わないの」

「誰の所為だと思ってんだよ!」

 大声を出した奏に、おもわず肩が小さく跳ねた。固まった明里の反応を見た奏は、眉を寄せて気まずげに視線をそらした。

「あー。ちがう、だからっ」

 背を向けて、忌々しげにガシガシと頭をかく。ダイニングテーブルに手をついてなにかブツブツ言う奏の声は、くぐもっていて明里の耳に届かない。

 ふー、と細い息を吐いて心を落ち着ける。奏なんて、恐くない。自分に言い聞かせる。

 私は強い。強くなった。だから、大丈夫。


「俺のせいか」

 ふいにぼそりと声が響いて、奏の背中に視線をもどした。

「なに?」

 奏は頭だけをこちらに向けた。

「おまえがなんでも一人でやろうとするところ」

 言葉の意味がわからず、明里は遠くの物を見ようとする時のように目を細めた。

「中学生のときと全然ちがうもんな。変わったの、俺のせいなんだろ」

 不気味なほどの沈黙が落ちた。ホテル並に薄いドアの向こうで、誰かが廊下を歩く音がする。

「……なに言ってんのよ」

 唐突な発言にもかかわらず、笑い飛ばすことができない。歩み寄ってきた奏が、あっという間に距離を詰める。自分が猫に捕まる鼠にでもなった気がして、呆然と相手を見返すことしかできない。

「無理してるだろう、ずっと。おまえ、こんなんじゃなかった。言いたいことも言わないで、おとなしく掃除当番代わるような奴だったのに」

 その言葉に、カッと頬に血が昇った。身体が震えるのは、怒りからだ。

「もうコニシキに見えないな」

 ぼそりと吐かれた言葉に、顔に集まっていた血がざっと冷えた。

 咄嗟に振り上げた腕を簡単に掴まれて、もう片方の手で腰を引かれる。

 次の瞬間、唇に奏の唇が重なった。




 起きながら夢を見るなんてことあるんだろうか。キスを受けるというより、ただ固まって事態に圧倒されていた明里は、今が夢か現実か計りかねてそんなことを思った。

 いつのまにか明里の手を掴んでいた片手は頭に回って、明里を固定している。逃がさないとでもいうように。

 奏の指の間に挟まった髪の毛が引かれて痛い。その痛みでこれはやっぱり夢じゃないと判断した明里は、両手でおもいきり相手の肩を押した。効果はなく、細く見えた奏の胸筋が意外と厚いということだけわかった。

 動いたせいでお互いの唇に隙間ができたのか、ふいにそれまでと違う感覚に襲われる。

 奏の舌が明里の舌を捕え、絡める。おもわず喉の奥が鳴った。自分から猫の子のような声が出て、羞恥に頬が燃えた。さらに密着してきた身体を受け止めきれず、ななめに反っていく。それを抑えるように奏がさらに腕に力をこめる。

 

 まずい。ほんとうにまずい。

 一体どうしてこうなったのか。自分たちは数秒前まで言い合いをしていたはずだ。今日の一連の事件は奏にもショックを与えて、脳内分泌物が過剰に出て変なスイッチが押されてしまったんだろうか。わざとそんなことを考えても、深まる一方のキスに意識が持っていかれるのはどうしようもなかった。

 いつのまにか閉じていた目を薄く開ければ、明里より長い睫毛が明里の瞼に届きそうだ。男のくせに柔らかい前髪が明里の前髪にくすぐるようにあたって、ふたたび声が漏れる。

 舌が絡み合う淫靡な水音と、自分が時おり漏らす息を吐く音が妙に潰され、聞きたくない声が聞こえる。

 まるで動物みたいだ。

 終わりの見えないキスに溺れた霞がかかった意識のどこかで、そんなふうにおもったとき。


 放課後の図書室で動く影。動物の鳴き声のような。


 デブでブスのくせに覗きするなんて、マジキモイんだけど。


 教室で、少女が明里を見て嗤う。

「してやろうか」

 からかうように言う男。


 パンッ。

 頬を思い切り張った。奏が呆然とこちらを見る。その頬がジンと赤く色づいていく。

 言葉を言う前に目元に熱がじわりと広がる。涙が出る前のサイン。泣きそうだ、と気づくのは久しぶりだった。涙なんてもう何年も流してなかったのに。

「からかわないで」

 十二年前と、今と、両方に向けて言い放つ。

 驚いたように明里を見る男の手はまだ明里の腰を抱いていて、もうそれだけで我慢できなかった。おもいきり突き飛ばして距離をとる。

「明里」

 なんでこのタイミングで名前を呼ぶんだ。ちがう、さっきもだ。さっきも、呼んでた。

 銃だと思ったものから庇ってくれたとき。

 耐え切れず、その場にしゃがみこむ。顔を腕で覆うと、堪え切れなかった涙が滲んだ。

 もうなんなのよ。わけがわからない。

 命を懸けるヒーローみたいなことをしたかとおもったら、次の瞬間最低男に成り下がる。なんでそんなことができるの? 

 だけど自分もわからない。キスする前、こいつなんて言った? コニシキに見えない?

 そんなこと言われて、キスに答えられた自分が信じられない。最悪だ。この男も、私も。

 顔を伏せたままでいると、スリッパや服がこすれる音で、奏が明里の正面にかがみこんだのがわかった。

「ごめん」

 かんたんに謝らないでよ。余計みじめになる。

 結局十二年前と変わってないかもしれない。昔も今も、この男に翻弄され続けている。


「出てってよ」

 かすれた声は、長すぎるキスの弊害か、疲れ果てた所為なのか。視線だけ上にあげると、驚くくらい近くに奏の顔があった。おもわず身を引くと、バランスが崩れて無様に尻餅をついた。奏が目を見張る。

 もう、やだ。

 いきなり限界が来た。

 尻餅をついて、奏を見上げたまま明里は言った。涙が頬を流れ落ちていく。

 あつい、涙。

 ひさしぶりの感覚が、その熱さが、明里に火をつけていく。

「さっき言ったわよね。中学のときと全然ちがうって」

 涙を流したまま、どこか挑戦的な笑みを浮かべた。

「言いたいこと、言えるわけないじゃない。あんたたちに虐められてたんだから」

 奏は傍目にもわかるほどはっきりと身体を強張らせた。顔が青ざめていく。

 激情は、一度溢れると止められなかった。涙と同じだ。ずっとずっと、見せないようにしていたのに。

「毎日地獄みたいだった。逆らって、あんたとあんたの友だちにもっと酷いことされるのがこわかった」

 こっちに来て、必死で新しい自分を作ってきた。よく笑って、よく動く、逞しい星野明里。


「強い自分でいれば、もう二度とあんな目に遭わないでしょ。そのためなら、なんでもやった」 

 奏が自分の片手をぐっと握りこむ。その震える拳と、なにかに耐えているように細められた目を無感情に見る。もう一度言った。

「出て行って。これ以上私の人生を苦しめないで。もう充分だったはずよ」

 奏がじっと明里を見る。いつも猫のような形をしていた目は、傷ついたように鈍い眼差しを帯びていた。なんであんたがそんな顔するのよ、と思う。

 そんな、泣き出す前みたいな顔。


 奏はゆっくりと口を開く。告げるのを躊躇うような間の後に、それは言われた。

「十二年前、俺がおまえのこと好きだったって言ったら、信じるか」

「信じない」

 間髪入れずに言った。内心は心臓を握り潰されたみたいに痛かった。そんなありえないこと言って、この期に及んでまだ欺こうとする。騙されるわけないのに。

「そうだよな」

 小さな言葉と共に頷いた奏は、ゆっくりと立ち上がった。ソファの横にまとめている鞄を肩に提げると、それ以上なにも言わずに部屋を出て行った。 

 コンドミニアムの薄い扉の向こうで、足音が遠ざかっていくのが聞こえる。明里は立ち上がるとシャワーを浴びて、髪を乾かさずベッドに直行した。

 頬が濡れる。乾かしてない髪から零れる滴と、もう一度襲われた涙の発作で、顔中ぐしょぐしょになりながら眠れない夜を過ごした。




 どんなに嫌なことがあっても朝は来る。いじめられていた時でさえ学校に通っていた明里は、こんなことくらいじゃ仕事を休んだりしない。しないのだ、と自分に渇を入れて店のビルに入った。

 体の中を淀んだ水でも流れてるみたいだ。身体が重い。久しぶりにBTSで来たことも原因だろう。満員電車に鮨詰めされる居心地の悪さは、日本の通勤電車と変わらない。

 誰とも話したくなかったからBTSに乗ってきたけど、やっぱり明日からバイタクに戻そう、と決心する。

 明里はフーッと息を吐いて下を向くと、笑顔を作ってスタッフ用の裏口をくぐった。

「おはようございます」

 同僚たちが、声にちらりと振り返る。けれど誰も挨拶を返さず、困ったように目をそらしていった。

 ……なに?

 いつも仕事前は、皆ウォーターサーバーの周辺でおやつ当番のスタッフが持ってきたお菓子を食べながらダラダラと話をしている。それなのに今日は皆黙りこくって、早々とパソコンに向かっている。


 静かな店内で唯一、斎野の声が聞こえた。振り返ると、斎野はデスクで立ったまま電話をしていた。めったに見ない強張った顔で、ときおり頷いたり額に手をあてたりしている。そんな斎野の近くで、気遣わしげに様子を見るスーを見つけた。

 明里はスーのところに向かうと、小声で尋ねた。

「どうしたの」

 明里と目が合うと、言い淀むように再度斎野に視線をめぐらせた。いつもポンポンと答えるスーにしては珍しい反応に、いよいよ胸騒ぎが起きる。

 ふとまだ奏の姿が見えないことに気がついた。いつも始業二十分前には席にいて、資料を眺めたりカウンターを拭いたりしているのに。

そう、自分への態度は最悪でも、仕事に対する姿勢はいつも真面目だった。ふいにそんなことを思って、どんどん横道に逸れていく思考に自分でもついていけない。 昨日色々なことがあったせいで、まだ頭がおかしくなってるんだろうか。


「昨日のノー・ショウの人たち」

 スーの声に意識を戻される。スーは眉をしかめていた。

「あの人たちが、親会社(ワールド)にクレームつけてきたんだって。殺されそうだったとか、日本大使館に抗議してやるとか騒いでるみたいよ」

「なにそれ」

 急いで斎野を見る。強張った顔のまま椅子に座ろうともしないその様子は、生来の落ち着いた雰囲気とは離れていて、その様子だけでも状況は良く無さそうに見えた。

「殺されそうって。子どもに水鉄砲で撃たれただけだよ」

 スーに向かって言い訳のようにそう言うと、両腕を組んだスーがわかってるというように頷く。

「さっき本田さんから聞いた」

 奏の名前が出て、心臓が強く揺れる。口を開きかけたところで、電話を終えた斎野がこちらを振り返った。


「大丈夫ですか」

 スーが心配そうに尋ねる。明里も斎野のもとに近づく。心臓がまた嫌な騒ぎ方をしていた。

「いま電話、ワールドですか」

 尋ねると、斎野は疲れたように息を吐いて頷いた。

「まぁ、ワールドも相当慌ててたよ。お客さん側の話しか聞いてなかったからねぇ」

 斎野はギシッと音を立てて椅子に座った。

「とりあえず、お客さんのところまで謝りに行って来いってさ」

 その言葉に、ざわざわと騒いでいた心臓がグッと縮む。後ろで黙って話を聞いている同僚たちの、とまどった視線が自分に向くのを感じた。

 斎野はその視線を散らすように片手をぞんざいに上げた。

「ああ、でもそれはいいよ。もう本田君が行ってるから」

「…………え?」

 さらりと言われた言葉に目を見開いた。

 投げつけられた言葉は受け入れられずにパンと跳ね返る。

「……なんで」

「うん、ワールドがね、きっとそう言うだろうからって。朝一で出かけてったんだよ」

 ちがう、と明里は眉をひそめた。

「なんで本田さんが行ったんですか」

 ガイドしたのは明里だ。横井たちを止められなかったのも明里だ。どうして自分が知らない間に奏が尻拭いのようなことをしなくちゃいけないのか。

 頬が熱くなるのを感じる。身体が小さく震えた。

 自分の仕事の責任を果たせないことが悔しい。


「あー、それはね」

 斎野が言葉を選ぶように声を区切った。なにを言われるのかわからず、下ろしている手の拳を握りこんだとき。

 ウィィン、とパーテーションの向こうで自動扉が開いた。斎野は明里を見て、ほら行けとばかりに手を振って急きたてた。

 反射的に笑顔を作りながら、心は別のことを考えていた。

 奏に、自分の仕事の後始末もできないと思われたんだろうか。

 心の内側が鈍く痛む。悔しがる権利さえないと言われたようで、ぐっと拳を握りこんだ。




 結局その日、奏が店に戻ったのは昼を過ぎてからだった。黙ってカウンターの隣に滑り込んだ奏になにも言わなかったし、意識的に見ないようにしていた。

 それなのに。

「お待たせしました。航空券の確認が取れましたので」

 隣から聞こえてくる声を、いつもより耳が拾ってしまう。椅子を引く音。お客さんのやり取りで笑う少しかすれた声。なにかの拍子にチラッと見える横顔に、あぁ奏がいる、と認識して、明里の意思とは無関係に身体の内側が落ち着きを無くしていく。

 こんなこと昨日までなかった。さっきまで、深刻で大事なことをきちんと考えていたはずなのに。

 昨日自分の身に起きたことに、心の全部が乗っ取られる。

 腰に回された力強い腕。唇の熱や舌の感触。


「――――!」

 バカ。職場でなに考えてるんだろう。

 おもわず手に持っていたバインダーを自分の額に叩きつけて、沸き起こった熱をやり過ごす。

 そんな風に一人でパニックになっているのに、当の本人は至って普通だった。いつもと変わらないように仕事をしているのを見て、苦い思いが沸き起こる。

 あれはなんのつもりだったんだろう。


 十二年前、俺がおまえのこと好きだったって言ったら、信じるか。

 

 ぎり、と唇を噛む。ひどい冗談だ。からかっただけ、と言われたほうがどれだけ楽だったろう。

 あいつの考えてることがわからない。結局昔も今もお互い遠いところにいて、その距離は大人になっても変わらないんだ。


 スッキリしない気分のまま、やけに長く感じた仕事を終えて店のビルを出る。正面の道路でいつものようにカーヴィンが待っていた。朝とちがって、逆に誰かと話したい気分だった明里はホッとしてそちらに駆け寄る。

 近づいて、隣に意外な人物がいるのを見て目を丸くした。

「スー?」

 スマホをいじりながらカーヴィンと談笑していたスーが、明里に気づくと呆れた表情で首を傾げる。

「今日はなんかずっと暗かったね」

「暗かったって」

 苦笑いしながらも、続く言葉が見つけられずに黙ってしまう。スーは両腕を組んで、探るような目で明里を見た。

「明里、本田さんとなにかあったの」

 核心を突くような質問に、なにも言えず相手を見返す。スーは淡々とした眼差しで明里を見ている。

「本田さんが明里の代わりに謝りに行ったのって、明里が思ってるような理由じゃないと思うよ」

「え?」

 その言葉に目を見張る。

 明里が思ってるような理由。そんなの、どうしてスーにわかるんだろう。

「明里って仕事は熱心だけど、なんていうか、ほかのことはダメだよね」

 藪から棒にそんなことを言われ、咄嗟に反応できない。腕を組んだまま、スーは尚も言葉を重ねた。

「ねぇ明里って、カーヴィンと結婚したい?」

「はぁ?」

 大きな声が出た。それまで黙って立っていたカーヴィンも、慌てたようにスーを振り返った。

「僕は明里と結婚しないよ」

「私だってそんな気ないわよ」

 なんとなく先に言われたのが癪で、つい口がへの字に曲がる。スーはふぅん、と軽く相槌を打った。その顔はなぜか面白がるように笑っている。

「やっぱりそうよね。私勘違いしてたみたい。ごめんね」

 一体なんなんだ。

 よくわからないやり取りに疲れて、カーヴィンに視線を送った。

「ねぇ、もう帰ろ」

 カーヴィンが答えるより先に、

「あらだめよ」

 スーが割って入る。

「今日カーヴィンは私を送っていくんだもの」

 いよいよ苛々してきて、つい同僚をじろりと睨む。

「スー」

 スーは明里を無視してカーヴィンを見た。

「送ってくれる? カーヴィン」

 かわいらしく小首を傾げるスーに、カーヴィンは照れたように笑った。

「もちろんいいよ」

 そそくさとバイクに跨ると、スーをその後ろに乗せる。固まっていた明里は、ハッと我に帰る。

「ちょっと!」

 明里、と少し低い声でスーが振り返った。大きな目が、明里をじっと見上げている。

「さっき社長が言ってたの。本田さん、日本に帰っちゃうかもしれないんだって」




 パチン、と電気を点ける。自分の足音と、鞄を置く音がやけに響いた。動きを止めれば、また静かになる。

 一人だな、と感じた。

 数日前までは当たり前だったのに。人のいる気配に慣れていたことを、今知った。

 流し台には奏が洗って立てかけていた皿や茶碗が二人分置かれたままだった。いつも自分が置かないところに固めて積まれているフリーペーパーや新聞。

 そういうものに、奏の存在のかけらを感じて息を吐く。目をそらすように、再び部屋を出た。


 立ち並ぶ屋台の間を縫うように進む。煙を撒く焼き鳥。ピンと張った透明な袋に入って並ぶキムチ。ミキサーを置いたフルーツジュース。濃い匂いを纏う屋台の周りには、仕事帰りのタイ人たちが立って順番を待っている。

「ピー、アオガパオヌン(おばちゃん、ガパオひとつ)」

 端の折れた紙幣を渡して、スクンヴィット通り沿いに並ぶ屋台の一つで夕飯を買う。すぐ脇に一列に並べられたプラスチックのテーブルと椅子。腰を下ろすと、テーブルの下で眠っていた猫が起き上がって移動していく。

 前のほうに座るタイ人カップルの彼女が、ビーサンを履いた足を組んで楽しそうに笑う。彼氏が彼女の手を握ってなにか言う。

 パキン、とワリバシを割いて夕飯に口をつける。なんとなく食が進まず、気がつけば水ばかり飲んでしまう。

 自然と奏が作ったご飯を思い出していた。ひさしぶりの日本食はおいしかった。奏はああ見えて、食べる前にはいただきます、と言うタイプだった。

 誰かが近づく気配にはっと顔を上げると、すぐ隣を学生服の子たちが笑いながら通り過ぎた。あちこちで交わされる会話はどれも自分に向けたものじゃなく、横や後ろを漂って消えていく。

 そのとき、足元になにか柔らかいものがあたった。テーブルの下を覗き込む。

さっき眠っていた猫が、こちらをじっと見ていた。

 ツンとつりあがった目を見て、

「……おまえのほうがかわいいよね」

 そう呟いたら、なぜか胸が苦しくなった。


 日本に帰っちゃうかもしれないんだって

 

 スーの言葉が頭の中を回って、箸を持つ手が止まる。

 本当なんだろうか。

 だとしたら、それはなぜ?

 ――昨日のことと、関係があるのか。

 ガタン。

 気がつけば椅子から立ち上がっていた。

 たしかめないといけない。

 これ以上の尻拭いをさせられなかった。

 

 


 トンロー通りは日本人が多い界隈のひとつだ。レストランの入り口に出ているメニューには日本語が書いてあるのも多いし、通り沿いを歩いていると駐在員の妻たちが連れ立って歩いているのをよく見かける。

 周辺に建ち並ぶアパートやコンドミニアムはどれもホテルのように美しくそびえ立っていて、明里のコンドミニアムとは雲泥の差だ。

 その美しいアパートのうち一つに、奏は住んでいるらしい。


 のけ反って見ても何階建てかわからないタワーマンション。手入れされた芝のエントランスには長方形の噴水があり、下からオレンジ色の照明で柔らかく照らされていた。

 天井が吹き抜けになっているホテルのようなロビーを突っ切って歩きながら、自分がデリバリーピザの店員にでもなったような気がした。なんていうか、格がちがう。

 ロビー奥にあるカウンターには、美人の受付嬢がちょこんと座っていた。

「あちらにおかけになってお待ちください」

 家主の名前を告げると、受付嬢はきれいな英語でそう言った。

 こんなところに住んでたら、私のコンドミニアムなんて大層ぼろく見えただろうな。


 座り心地の良いソファに身を沈めながらそんなことをおもっていると、

「星野?」

 受付の脇にあるガラス扉が開いた。扉の縁を持ったまま、奏が驚いてこちらを見ている。

 ここで何してるんだ、ととまどったように尋ねる奏にかまわず、

「部屋案内して」

 と居丈高に言う。最初に家に押しかけてきた奏みたいだ、と思いながら。

 奏は眉をひそめて困惑を表した。けれどすぐ脇で興味深げにこちらを見ている受付嬢の存在を思い出したのか、小さく息を吐いてガラス扉を引いた。明里はするりとその間に滑り込む。

 ドラマやCMに出てきそうな磨き上げられたエレベーターホール。階ボタンさえ洒落たデザインになっている。エレベーターを待つ間、奏は明里のほうを一度も見ようとしなかった。明里も前に垂らした両手を組み合わせて、じっと下を向く。 


 気詰まりな時間を経て来たエレベーターは、二十一階で止まった。最上階の一段下。

 奏は表札のないアイボリーの扉まで来ると、扉脇のパネルを指で操作した。電子音とともに、扉の施錠が解かれた音がした。

 こちらを振り返った奏と目が合う。明里も目をそらさないでいると、奏が先に視線をそらせた。どこか疲れたようなその顔は、年齢よりも妙に奏を年上に見せた。


 白い大理石の床を、黒いカウンターキッチンと黒いダイニングテーブルが横断している。その向こうにベッドとして使えるくらい広い黒い革張りのソファがある。まだカーテンを引いてない窓は床から天井までを覆うサイズで、高層マンションやデパートの明りがきらびやかな夜景を作っているのが一望できた。

 モデルルームのような美しいアパートをぼんやりと眺めていると、後ろで電子音と共に扉が閉まる音がした。のろのろと振り返る。

「水漏れしてるんじゃなかったの?」

 天井も床も磨かれたようにきれいで、どこにも水の痕跡はなかった。

 奏は伏せていた目を上げて、明里を見る。

「嘘ついてたんだ。最初から水漏れなんてない」

 うそ、と言われたことを小さくくり返す。予想外の言葉に、咄嗟に反応できない。同時に、どこか緊張を孕んだような奏の態度に合点がいった。

「なんで」

 そんなこと、と口にすれば奏は腕を組んで、どこか自嘲めいた笑みを唇の片端につくった。

「おまえと話がしたかったんだ」

 はなし。

 話ってなんだろう。自分たちは同じテーブルでご飯を食べても、あまり話したこともなかったのに。居心地の良い同居生活じゃなかったと、お互い感じていただろうに。

 言われた言葉をどう処理すればいいかわからず、それ以上深く聞くこともできなかった。


「座れよ」

 固まっている明里を奏が軽く促がして、その言葉に肩の力を抜いてサンダルを脱ぐ。どこに座ればいいか迷っていると、ソファの前に置かれたローテーブルにお茶の入ったガラスコップを置かれる。つられるようにソファに腰を下ろした。

 奏はソファに座らず、隣のダイニングテーブルの椅子を引くと横向きに座った。多少相手と離れたことに安堵する。

 自分に時間を与えるため、ガラスコップに手を伸ばす。うちでは出さないウーロン茶だと気づく。そういえば歓迎会でもウーロン茶を飲んでたな、と思い出す。

 これが好きなんだろうか。そういえば、この男の好きな食べ物ひとつ知らないんだ。そんなことを思いながら辺りを見るともなく眺める。 


 ソファの向かいに置かれた本棚には、装丁が同じシリーズ物らしきハードカバー小説や文庫本が出版社ごとにきれいに並べられていた。タイトルをざっと見る限り、並べられた本のほとんどが小説のようだ。

 本読むんだ。

 なんとなく、ビジネス書とかばかり読んでいそうだったから意外に思う。

 明里は、逆にあまり本を読まなくなっていた。中学の時あんなに頻繁に図書室に通っていたのが嘘のようだ。

 バンコクには日本人向けの本屋がいくつもあり、そこまで行けば有名作家の新作や文庫も売っている。ジャンプを日本にいるときと同じように毎週号買っている友だちもいた。

 タイに来たばかりの頃、母親も大きな本屋に連れて行っては、好きなものを買っていいよと言ってくれた。

 だけどそんなとき、いつも明里は首を振って「いらない」と答えていた。

 タイに来て、笑えるようになった。顔やお腹や腕についていた贅肉が取れてきた。ジャンプを毎号買ってる、なんて些細でどうでもいいことを知れる友だちができた。

 すべてが順調に変わっていく中で、それまでと同じことをしていたらまたあの時の自分にもどるんじゃないか。わけもなくそんな気もちが沸き起こって、明里に本を読むことをやめさせた。

 多少の無理は段々体に馴染んできて、たくさんの新しい出会いや楽しいことに上書きされ、今ではすっかり読書への執着がなくなっている。学生時代に運動部にいた人が、当時使っていた道具を街角で見てあぁあれ、と思う、郷愁よりもっとアッサリしているあの感情に近いのかもしれない。


 だからずらりと並んだ本のタイトルを見ても、有名な作家以外はあまりわからなかった。ブランチで紹介されてたなこれ、と文庫のひとつを見ながらぼんやり思っていると、

「で? なにしに来たの」

 冷たい声で奏が言った。物思いを断ち切られて顔を上げる。奏はダイニングチェアーの上に片膝を突いて、声に見合う冷たい目をしてこちらを見ていた。水漏れなんてうそをついてまで、明里と話がしたがっていたようにはとても見えない。

 やっぱりからかわれただけだと結論付ければ、それまで柳のようにほっそりと頼りなげにだった心が通常の太さと逞しさを取り戻していく。


 明里はガラスコップをローテーブルに置くと、聞きたかったことを尋ねた。

「今日どうしてお客さんのところ一人で行ったの」

 言葉にすると、あのときの気もちがよみがえって唇をかみしめる。自分の仕事だ、最後まで責任を持ちたかった。

「知りたいのか」

口元を手の甲の上に乗せているからか、やたら低い声で奏が尋ねる。問いに頷くと、奏はふっと目をそらした。

「まず単純に、あのクレームが俺の所為だからだよ」

「あんたのせい?」

 答えに眉をひそめれば、淡々とした顔と声音が返ってきた。

「あの人たちホテルに送ったとき、俺けっこう説教したから。もう二度とこんなことしないでください、とか、他のひとの迷惑考えてくださいとか」

 そういえば、そんなこともあったと思い出す。あのとき明里はまだ放心状態で、横井たちに向かって話す奏を特に気にも留めず半分くらいは聞き流していた。一瞬でも本気で撃たれたと信じた奏の立場を思えば、多少彼らに対して口調がきつくなっても仕方ないだろうと思ってもいた。

「それが気に食わなかったみたいだよ。後から思い返して、腹立ってきたんだろ」

 掌で覆われた口元が、皮肉げに歪む。その様子を見ながらふっと思い出す。

 昨日奏が斎野に横井たちのことを報告したとき、斎野はなにか言いたげに顔を上げた。あのとき、多少こういう事態を予期してたのかもしれない。

 だからってどうにもならないことなのだけど。

「でも」

 明里は無意識に組んでいた両腕に力をこめて言う。

「横で聞いてたのになにもフォローしなかった私にも責任があるし」

 一緒に行けばよかった、そう続けようとすると、

 ダンッ。

 ふいにダイニングテーブルが叩かれ、明里は開いていた口をそのままに固まった。下を向いていた奏はそのまま乱暴なしぐさで立ち上がり、明里の目の前まで来た。

 こわい、と思う間もなかった。

 気がつけば、視界が反転していた。

 

 間近に、奏の顔。両手の下辺りをそれぞれ奏の手がつかんでいる。自分の上に跨る奏の膝が明里のスカートをピンと引っぱっていた。

 押し倒されている。状況として認識できても、頭が理解できない。呆然と目の前の相手を見る。簾のように垂れる黒髪の向こうでこちらを見る目は、猫ではなく、虎。


「こういうことされたら、どうした?」

 やけに冷静な声で奏が尋ねる。

「おまえ隙がありすぎんだよ。シャワー中に鍵もかけないような奴、野郎が待ってるホテルなんて行かせられるかよ」

 小さな声なのに、奏の顔が近い所為で全て聞き取れる。このタイミングで裸を見られたことを引き合いに出されるとは思わず、顔が燃えるように熱くなった。

「ふざけないでよ」

 てっきり忘れてると思ってたのに。嫌な思い出を露骨に出されて、言われたことの意図は理解できないまま噛み付く。

 奏がどこか皮肉な笑みを浮かべた。その目がなにかを諦めてるみたいに暗く影をもつ。

「昨日の今日でさ、よく俺んち来れるよな。なにされたか、覚えてないのか」

 あからさまな言い方に、熱い頬がさらに赤みを増した。

 表情の変化を見て、奏はぐっと顔を近づけた。胸と胸があたり、太腿同士が擦れあう。

 ちょっとなにこれ。

「離してよ」

 自分の中で赤信号が点滅している。密着した身体は熱いのに、背中から冷たい汗が滲む。明里はがむしゃらに身体を動かした。

 ふいに、脅える小動物のように暴れまわる明里を奏がぎゅっと明里を抱きしめた。

 昨日のように力任せに、というより、どこか労わるような、何がしかの感情がこめられてるような抱き方。そんなふうに思えば、ますます頭は混乱する。

 奏が静かに言った。

「おまえさ、あんま無茶すんな。そんなことしなくても、おまえが弱くないってわかってる。だから一人でやろうとしないで、俺を頼れ」

 暴れるように身体を捩っていた明里は、おもわず動きを止めた。


 一人でルンピニー公園に行ったことは、後悔してない。だけど捕まった横井たちを見たとき。少女に銃を突きつけられたと思ったとき。

 こわいと思った。

 だから助けに来てくれて、本当はすごく。

 自分を見る猫の形の目をぼうっと見つめる。ものすごく近い距離にその顔はあって、だけど魅入られたように動くことができない。


 強くありたかった。

 ずっとずっと、この先も強くいたかった。

 だけどそれはすこしだけ、疲れることでもあったから。

 本当はすごく、安心したんだ。


 奏は明里を見つめたまま、囁いた。

「いつだって俺が守ってやる。明里が好きなんだ」


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