クーコータレー ーコータレー――海に出るときは、海を侮ってはいけない
耳元で声がする。けどそれは、水の中で聞く音のように輪郭がぼやけて、意味を伴って聞こえてこない。
「おい、起きろよ」
何回目かの声で、明里は観念して横向きになると、そろそろと目を開ける。
鼻先三センチのところに、奏がいた。
驚きのあまりそのまま固まって、動くことができない。奏は無表情で明里を見つめていた。明里と同じように横向きになって、こちらを正面から見ている。
同じベッドの上で。
「……な、に……」
まだ動かない頭を置き去りに、言葉がこぼれ落ちる。喉の奥になにか粘っこいものが引っかかってるように掠れた声だった。
「起こしやったんだよ、感謝しろよ」
奏はそう言ってゆっくりと起き上がった。明里の足に巻きついてるブランケットは、そのままつながって奏のおなかの上に乗せられている。
なに、これ。どういうこと。
やけに視界がクリアで、その代わり目がものすごく乾いてる。コンタクトをしたまま眠ってしまったらしい。
うわ、やっちゃった。
目頭を抑えて瞬きしていると、淡々とした奏の声が頭上に降ってくる。
「遅刻するぞ」
その言葉に顔を上げる。窓のカーテンは端に寄せられていて、強い日差しが雲を白く発光させている。
朝だ。いつもの朝。
もう夜じゃない。
あたりまえのことを認識して、そこからは早かった。ベッドを飛び下りてクローゼットを開けると、手近な服を掴んでバスルームに飛びこむ。
シャワーを浴びながら、段々と冷静になってくる。
なんであいつ、私のベッドに寝てたの? 寝てたんだよね?
反射的にボディソープを塗りたくってる体を見下ろす。特に異常はなし。
ほーっと肩で息を吐きつつ、なんだか大失敗をした気になって落ち着かない。昨日の記憶が途中からブツリと切れてることに問題がある。奏はスーの家に行ったわけじゃなかったようだけど、二人並んで帰ってきた記憶もないのだ。
やばい。へんなことしてないといいけど……。
シャワーブースを出てバスタオルで髪を乾かしながら、悶々と考える。まさかと思うけど、私と昔からの知りだなんて吹聴してないだろうか。聞きたいけど聞けない。第一ちゃんと答えてくれるとも思えない。
っていうか、一番の問題は
「なんっであいつ私のベッドにいたわけ……っ」
結局そこに尽きる。ルールその一、寝室への立ち入り禁止を二日目にして破られた。極めてプライベートなスペースにどんな経緯で奴が入ったのか、覚えてないことも嫌だった。
「いやでもいっそ、覚えてないほうがいいのかな」
「おい、時間ないって」
そう言ってすぐ隣の扉が開いたのを、明里は呆けた顔で見ていた。奏もさすがに驚いたらしく、目が合った一瞬後にはバタンッと大きな音がして扉が閉められた。
「……早く用意しろ」
扉の向こうから低い声が聞こえる。もちろん反応なんてできない。声もなく、明里はその場に立ち尽くした。
できることなら今日はもうこのまま部屋に篭城してしまいたいくらいだったけど、そんなことはできない。
着替えを済ませてのろのろとリビングへ向かうと、奏は読んでいたフリーマガジンをバサリと畳んで立ち上がった。
「メシできてるから。食え」
明里の顔を見ずに言ってリビングを突っ切ってキッチンへと向かう。明里は扉の縁に置いた手に力をこめた。
「自分でやるからいい」
声に力がないのは、自分が嫌いな男に裸を見られるなんて人生に一度あるかないかの不幸に見舞われたからだ。願わくば即効で忘れてほしい。
「宿代の代わりだって言ったろう」
奏はさらりと答えると、ダイニングテーブルに食器を並べていった。おとといの肉じゃがに今朝はトマトソースがかかっている。その隣に、ご飯と大根の味噌汁と青菜のおひたし。
向かいの席には、当たり前のようにもう一組の茶碗と小皿が置かれている。奏は黙って椅子を引くと、箸を取った。
「いただきます」
小さな声が聞こえたと思ったら黙々と食べ始める。
どうやら明里にとって大ショックだったできごとも、こいつにとっては子どもの行水を見た程度の認識しかないらしい。
そうですよね、本田さんおモテになりますもんね、と自棄気味なテンションで悪態を吐く。でもむしろその方がいい。死ぬほど嫌だけど、忘れるように努力するだけだ。
茶碗を手にとって、
「いただきます」
奏のマネをしたわけじゃないけど、小さく言った。俯いた視界の先で、奏が顔を上げる気配がする。どうにもいたたまれなくて、底に具が沈殿した味噌汁をカチャカチャとかき混ぜた。
その朝迎えに来たカーヴィンは、なんだかいつもと違って少しよそよそしかった。明里が後ろに乗り込むと、やけに後ろを気にして、
「大丈夫? 行ってもいい?」
と何度も念押ししてくる。いつもより量の多い朝ごはんの所為で時間ギリギリになっていた明里は、そんなカーヴィンの態度の意味をいちいち考える暇もなかった。
「いいから行ってってば。レオレオ!(早く早く!)」
やや乱暴に背中をバシッと叩くと、旧式のテレビのようにモーターサイはようやく走り始めた。
会社に行ったら行ったで、ミーティングが終わるなり同僚たちの間をくぐり抜けてきたスーに呼び出された。
「どうしたの?」
八センチヒールで歩くスーのほうが背は高い。にもかかわらず下から上へと見上げてくるようなじっとりした眼差しにおもわず後ずさる。ごぽんごぽんごぽん。二人の後ろでウォーターサーバーから水の音がした。
「どうしたのじゃないわよ。ねぇ、昨日のあれなに」
スーが咎めるような目と口調でそう言っても、なにを言われてるのかわからなかった。きょとんとした顔で目立った反応をしない明里に苛立ったのか、噛みつくようにスーが言った。
「本田さんと明里、付き合ってるの?」
もしそうなら言ってくれてよかったのに、ちがう日本人見つけるから。そう言ってスーは両腕を組んだ。
「ねぇ、本田さんの友だちでこっちに来る人いないの? 聞いてみてよ。……明里?」
聞いてるの、と言ってスーが目の前で手をヒラヒラとさせる。思考が止まっていた明里はハッとして口を開いた。
「ちがうよ!」
スーは大きな声に驚いたようで、明里の前に出していた手を慌てて引っこめた。
「ちがうの? でも」
「メチャイ!(ちがう!) そんなわけないでしょ」
言葉にするのも嫌だ、そんなこと。眉間にシワを寄せて、失礼なこと言わないでよと言えば、なぜだか呆れたような顔でスーがまじまじとこちらを見ていた。
そのスーの肩越しに、パーテーションの手前で中華系タイ人スタッフと話している奏がいる。
ふと、使った茶碗に水を張っている後ろ姿を思い出した。料理だけじゃなくて後かたづけもこなす。なにも言わないけど、これもルール四に入ってるんだろうか。わかりにくい奴。
思考がまた他所へ行きそうになったところで、スーが明里をじろじろと見ていることに気づいて顔を顰める。
「なによ」
「……あのさ」
スーがなにか言いたげな顔で口を開いたとき、
「星野」
片手を上げて斎野が明里を呼んだ。
「はい、なんですか」
じゃあねと目でスーに告げて、斎野の方へと向かう。スーもおしゃべりを止めてカウンターへと向かった。
いやぁ参ったよ、と斎野が困った顔で明里を見る。
「今ミアさんから連絡来てね、今日到着予定のお客さん、迎えに行けなくなっちゃったんだって」
「えーなんでですか」
日本から来る団体客を空港で迎えて、用意しているツアーに案内する現地ガイドは専門会社に委託している。ミアはそこの担当者だ。
「予定してた子がいきなり辞めちゃったみたい」
その言葉に顔をしかめた。タイ人がいなくなるように辞めるのは珍しくないとはいえ、こういうアクシデントはやっぱり困る。
「それで?」
「うん、ほかの子たちも出払ってるみたいだからさ、明里ちゃんお客さんを迎えに行ってあげてくれない?」
これツアー内容ね、と既に刷ってある資料を渡された。
送迎だけで良いような言い方をしたけど、実際はそうじゃない。初日から色々な観光地を巡るツアーのようで、要はツアーガイドをやれということだ。資料にざっと目を通しながら息を吐く。
クーラーの効いた室内でのパソコン業務と屋外での半日ツアーガイドでは、体への負担もちがう。
それでも、今言ってすぐ現地に行かせても問題なくツアー客を案内できると思われていることが嬉しかった。だから、
「私明日の昼は屋台に行くのやめますね」
暗にランチを奢れ、と言ってニヤッと笑う。斎野はハッハと笑って椅子をギシリと揺らした。
「ようこそバンコクへ」
明里は目の前にいる十名ほどの日本人観光客に笑顔を向けながら、手元にあるツアー客の資料とそれぞれの顔を見比べ、名前と顔を記憶していった。職業柄、一度会った人の顔と名前を覚えるのは得意だ。二十代カップル、老夫婦、小学生の子どもを二人連れた四人家族、そして男子大学生の三人組。これでメンバーは全員のようだった。
行程表を開く。ワット・ポーとワット・アルンと王宮を見て、その後買い物にサヤーム・パラゴンまで連れて行ったらそれぞれのホテルまで送っていく。
何度か頭でシミュレーションしていると、
「あのぉ、すいません」
声がかかり、顔を上げる。大学生のうちの一人だった。めがねをかけ、少し太ったその男に笑顔を向けながら、手元の資料を思い出す。横井という、十九歳の学生だ。
横井がめがねの向こうの小さな目を細めてニヤニヤと笑った。
「今ってデモってやってんですか?」
その質問に、ほかの客も不安げに顔を見合わせたのがわかる。
この間まで、何度も受けた問い合わせだ。明里は笑顔で淀みなく説明した。
「たしかにデモは現在も継続されてますが、場所を公園一箇所だけに移して行われています。皆さんが行く場所はデモ会場とは離れてますので大丈夫ですよ」
明里の言葉にカップルの女の子がほっとしたように彼氏を見た。明里も無意識に微笑む。
政府からの渡航注意喚起が明けても、実際に来るまでは不安もあっただろう。それでもこうして来てくれた人たちにとって、良い旅行になれば良いと思った。
けれど次の瞬間、エーッという声が大きく響いた。
「デモ見れないのぉ? なんだよそれー」
横井の隣に立つ背の低い男がふて腐れたように丸い頬を更に膨らませた。その言葉に呼応するように、後ろに立つ痩せた男も頭の後ろで手を組んだ。
「期待してたのになぁ。つまんねぇなー」
予想してなかった反応にポカンとする明里には構わず、三人はひとしきり不満を口にした。
「お姉さんほんとに見れないんですか?」
横井が未練がましい様子で言ってくる。家族連れの夫婦が咎めるような眼差しを向けているのにも気づかず、
「日本でさ、毎日ニュースで流れてるから旬ネタだって皆で楽しみにしてたのにさぁ」
なー、と口々に言い合う。
明里は口の中に感じた苦い物を飲み下した。バンコクのデモを日本がどう報道してるか、明里もケーブルテレビで日本の番組を見てるから知っている。
ニュースやワイドショーでは、手榴弾が投げ込まれたとか発砲事件があるとか、そういうところばかりを切り取って流していた。
たしかにそれも事実なんだけど、それだけじゃない。デモ会場ではファッションショーが開かれたり、マッサージ屋や露天が出たりしていた。タイ人のあくなき商売根性と、なんでも楽しんでしまう国民性が見えて、楽しそうにさえ見える。
デモグッズを買って楽しそうにパレードに参加する人たちと、そこに投げ込まれる手榴弾。楽しそうに見えて、だけどやっぱりそれだけでは済まない。日本のニュースが流すように殺伐としてばかりじゃないけど、お祭りだけでもない。
毒のある花のように二面性を持っていて、だから戦なんだろうと思う。
「申し訳ございません。お客様の安全を第一に考えている為、デモ会場に近い場所はご案内できないんです」
「なんだよ、つまんねぇの」
笑顔のまま言うと、横井がつまらなそう言って両腕を組んだ。ほかの客たちは横井らを非難するような目を向けている。気まずい空気が流れ、明里は慌てて取り繕うように小学生の子どもと手を繋いだ父親に視線をあてた。
「さぁ、それでは車まで移動しましょう」
むりやり高い声を出す。のろのろと着いてくる一行の一番後ろで、横井たちが早くも興ざめしたような顔であたりに目を向けていた。そのほかの人たちは、一連のやり取りに戸惑ったように、それぞれ顔を見合わせあって歩いていた。
あぁ、嫌な予感。
久しぶりに笑顔を保つことが難しく、これはランチ一回では割が合わないんではないかと思いはじめていた。
親会社のロゴが入ったバンが、サヤーム・パラゴンの前に止まった。サヤーム・パラゴンは地下に東南アジア最大級の水族館があるほか、蝋人形館も映画館もスパもある巨大ショッピングモールだ。
その正面に建つサヤーム・センターも同じくらい大きなショッピングモールで、スタイリッシュな店内にタイ人の若者が好きなファッションブランドが多く入っている。デパートがひしめくこの辺りはタイの原宿とか渋谷とか呼ばれるだけあって、ローカルの若者が多い。
「みなさん着きましたよー」
バンの扉を開けて降りるように促がしても、誰もがのろのろとした動きだ。ツアー客たちは、皆一様に疲れた顔をしている。先ほど空港で騒いでみせた三人組もむっつり黙ったまま目を閉じているのを見て、おもわず同情してしまう。
無理もない。七時間のフライトを終えた足で、日本より十度は暑い日ざしのなか歩き通しで寺院や王宮を見たのだ。到着したテンションも落ち着いて、今が疲労のピークだろう。
一番後ろに座っていた老夫婦の夫人は目を閉じたままなかなか動こうとせず、その様子を見ていた夫は明里を見るとすまなさそうに言った。
「すいません、私らは一足先にホテルに戻っててもいいですかね」
明里はすぐに頷いた。手元の資料を見る。ツアー客はそれぞれ別のホテルに滞在予定で、夫婦の宿泊先はスクンヴィット通りを離れた滞在型のリゾートホテルだった。ここからだと少し距離がある。
外で明里を待っているツアー客に、バンを降りて声をかける。
「それでは、今から二時間後にここに戻ってきてください」
あらかじめ用意していた各店の割引券の束を手渡していく。スパの割引券を見つけたカップルの女の子が、元気を取り戻したように彼におねだりを始めた。
それぞれのペースでデパートに歩き始めたツアー客の中で、横井たち三人組はデパートの入口に立ったまま地図を広げていた。男三人ではファッションビルで二時間も時間が潰せないかもしれない。
声をかけようか迷いつつ、バンを振り返れば青白い顔で目を閉じる夫人と、それを心配そうに見る夫の姿があった。
まぁ彼らも、きっとなにか見つけるだろう。たった二時間だ。
そう切り換えて、バンの中に戻る。
「お待たせしました」
多めに持ってきていた水を手渡し、病院に寄りましょうかと尋ねると、夫人は微苦笑しながら首をゆるく横に振った。
「寝れば良くなるから。悪いわね」
「若い人と同じようにはいかないけど、私らは私らのペースでゆっくりやるから」
動き始めたバンの中で、夫婦はそう言って穏やかに笑い合った。明里も自然と笑顔になる。
いいな、こういうの。
仕事を通じて素敵な人たちと巡り会えたとき、この仕事をやってよかったと心から思える。
日本より悪路な道をバンがガタガタ震えながら走っていく。夫婦は黙って身を寄せ合い、車内は穏やかな沈黙に満ちた。
これが繋がらなかったら会社に連絡だ。
明里の後ろのバンから、ツアー客たちが心配そうに様子を見ているのを感じながら、明里はスマホを持ってないほうの手で腕時計を見た。
サヤーム・パラゴン前。二時間後の集合時間から二十二分が経っている。
横井たち三人の姿は未だ無かった。
ツアー予約時に入力してもらう代表者の連絡先は、日本国内のスマホ電話で繋がらなかった。緊急連絡先として書かれていた実家らしき連絡先に、明里は三回目の電話をかけていた。呼び出し音は二回目のときと同様、留守番電話に切り替わってしまう。同じ文句を、しつこいだろうかとためらう余裕も無く吹き込んで通話を切った。
スマホに表示された時間を見る。電話している間にさらに一分経ったらしい。二十三分の遅れ。
NO SHOW
そんな言葉が頭をよぎる。業界用語で、時間になってもお客さんが現れないことを呼ぶ言葉だ。
ごくんと喉を鳴らして、落ち着け、と自分に言い聞かせる。言い聞かせても、ざわざわと嫌な鼓動を刻み始めた心臓は静かにならない。いつもガイド業務はしないので、ノー・ショウなんてはじめてのことだった。
会社に連絡しないと。
履歴から電話番号を引こうとすると、
「おねえさん」
声が後ろからかかった。
振り返ると、小さな男の子がこちらを見上げていた。四人家族で来ているお客さんの息子だ。
「お兄さんたちどこ行ったのか、僕知ってるよ」
男の子の言葉に目を見張る。バンから出てきた母親が慌てて息子に駆け寄った。
「こらっ、いいかげんなこと言わないのっ」
男の子はムキになったように母親の腕から身をよじる。
「ほんとだもん。聞こえたもん」
「尚希君」
明里は資料で知った名前で少年を呼ぶと、同じ目線まで膝を折った。尚希は名前を呼ばれたことに驚き、少し怖気づいたように母親の膝に顔を押し付けた。明里はかまわず続けた。
「お兄さんたち、どこ行くって言ってたかな?」
胸の鼓動が鳴り止まない。嫌な予感を押し隠して、明里は微笑んで見せた。
尚希は目線を下にさげ、ややふて腐れたように口を開いた。
ビー、ビー、ビー。
日本のプルルとはちがう、やけにけたたましいタイの呼び出し音。間近に聞くのは耐え切れず、つい通話口から耳を離してしまうその煩わしい音が、今は全く気にならなかった。
「はい、ファーツーリストです」
反射的に眉を寄せた。電話番はスーの仕事なのに。どうして今に限って。
「星野です」
言いながら、下にさげた片手をヒラヒラと振る。ピンク色のタクシーが止まり、明里は助手席の扉を開けた。
「ルンピニー公園」
運転手は嫌そうな顔をして首を振る。お客の行きたいところに必ず連れてってくれるわけではなく、場所によっては運転手が乗車拒否をしてくるこの国の制度はほんとにどうかと思う。
ええい、しょうがない。
黙って百バーツ札を二枚渡す。初乗りが三十五バーツのタクシーで、距離を考えたら多すぎる金額だ。二枚の百バーツ札を手にした運転手は指先を小さく振り、乗れ、と合図した。
その時になって、通話中のまま放ったらかしだったスマホを再び耳にあてる。
「星野さん、聞こえますか」
「聞こえます、はい」
「なにしてるんですか? 今ルンピニーって言いませんでした?」
奏の声が訝るように言う。明里はかまわず、
「あの、手が空いてる人誰でもいいので、今からサヤームに行ってもらえますか。バンの中でお客さんが待ってるんです」
一瞬の沈黙。
「……なに言ってるんですか?」
「お客さんが一組ノー・ショウです。いる場所が特定できたので迎えに行ってきます」
ノー・ショウ? 通話口から呟く声が聞こえる。明里は身を乗り出して、早く早く、と運転手を急かした。
星野さん。少し離したスマホから、奏の焦ったような声が聞こえてきた。
「なんですか」
「えーと、ノー・ショウはわかった、わかったんだけど、それで迎えに行くってなんですか。連絡着いてるならこっち来てもらうか、先に残りのお客さんを帰すかしないと」
「連絡は着かないんです。こちらが行かないと、最悪」
言葉を区切って、ふーっと息を吸って吐く。
「戻って来れないかもしれません」
トイレ行ったときね、と尚希は言った。
「お兄さんたち一緒だったの。それで、中でお着替えしてた」
「お着替え?」
下を向いたまま、尚希はコクリと頷く。
「真っ赤なシャツ着てね、おそろいだねって言ったら、これ着て公園行くんだって言ってたよ」
真っ赤なシャツ。
その言葉が意味することを認識して、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。
バンコクデモに参加する人たちは、自分たちの意思をその色の服を着ることで表している。政府を支持する層は赤シャツ派、支持しない層は黄シャツ派と呼ばれ、それぞれがその色のシャツを着ていた。
尚希の言う公園がもし、黄シャツ派が滞留しているルンピニー公園だとしたら。
黄シャツの群れのなかに、彼らは反対派のシャツを着ていくことになる。
まちがえてるのか、それともわざとなのか。もしわざとなら、なんて悪趣味なんだろう。
デモ隊は基本的に関係ない人たちに攻撃を仕掛けてこない。だからといって、あからさまな揶揄や誹りに無関心でいる人ばかりじゃないはずだ。
まいった、と思った。だけど俯いていたのは数秒のことで、顔を上げる頃には自分を立て直していた。
「教えてくれてありがとう」
笑顔を見せて言うと、尚希は照れたような笑みを返した。
ことのあらましを話し終える頃には、ルンピニー公園が目前に迫っていた。もともとサヤームからルンピニー公園は離れてない。
「そういうわけなので、彼らを探しに行ってきます」
「ちょっと待て」
さきほどより一段低い声に、身を乗り出して窓の外を見ていた明里はスマホに意識を戻した。
「向かってんのか今? 一人でか」
今までとはちがう言葉遣いと声音。会社用に普段身につけている仮面をどうしてか脱ぎ捨てた様子に驚きながら、反射的にはい、と答える。
途端、ノイズのような音が耳元で起こる。それが舌打ちだと気づいたのは、直後の焦れた話し方からだ。
「なにやってんだ。勝手なことしてんなよ」
その言葉にムッと反応する。交通安全のお守りとしてタクシー運転手がバックミラーにぶらさげるジャスミンの花輪。その花輪越しに、唇を曲げる自分がミラーに映った。
「しょうがないじゃないですか。そんな危ない場所に行くの、放っとけない」
「だからだよ!」
怒鳴り声がスマホから漏れ出て聞こえたのか、ミラー越しに運転手と目があった。
「そんな危ないとこ一人で行くな。今すぐ行くからそこで待ってろ」
「え――――」
驚いて出た声を遮るように、
「もしいなかったら許さねぇからな」
言うだけ言うと、通話はブツッと切れた。スマホを耳に当てた体勢のまま、明里は絶句する。
通話が切れたスマホに映った時間をぼんやりと見る。六時前。店にほかのお客さんはいなかっただろうか。
斎野や同僚たちの呆気にとられた顔が目に浮かぶ。ヒクリと片方の口の端が上がったけど、それは笑いにもならず消えた。
なに? 今の。
なにかを考えるより先にタクシーが止まって、顔を上げる。開いた高い門の向こうに、さらに背の高い木々が緑の壁のように立ち並んでいる。その下に、野外フェスのように所狭しと張られるテント。歩道には、銃を携えた軍人が立っていた。
ルンピニー公園。
反政府デモキャンプ地を見て、明里は詰めていた息を吐き出した。
「あのバカ」
ガチャンと乱暴に電話を置く。言った言葉が店内に響く。静まり返った店内の視線が、自分に集中しているのを痛いほど感じた。すぐ隣にいるスタッフが、口元に書類をあてて恐々とこちらを見ている。
幸いにもカウンターに客はいなかった。いなかったが、ガラスの自動扉越しに通路を通り過ぎる買い物客が、奏を見て驚いた顔をしている。
しかしまずい、という思いに至るより先に勢いよく振り返って、唖然とこちらを見ている斎野に言った。
「ノー・ショウが出ました。サーヤムのバン、だれか回収行ってもらえますか。俺は星野のところに行きます」
「お、落ち着きなって。どうしたの。いま電話星野?」
斎野もさすがに面食らったのか、顔が強張っている。その後ろに座るスーがポカンと口を開けていた。奏はかまわずパーテーションを突っ切ると、鞄をむんずと掴んだ。心臓がドクドクと轟くように唸っていて、吐く息は獣のように荒い。
「ノー・ショウが、バカな客が、赤い服着てルンピニに行ったみたいです。で、それを探しに行くって、ひとりで」
当然のように一人で行くと言った声を思い出して歯軋りする。
なんでも勝手にやろうとする。再会したときもそうだ。風のように現れて、奏をスリから助け出した。
いつの間にあんなに強くなった?
いやちがう。強くあろうとするのはなぜだ。
――俺が原因か。
そこまで考えたとき、急沸騰していた頭がガツンと冷えた気がした。斎野は両腕を組んでじっと奏を見ている。
奏は垂直に頭を下げた。
「すみません、どうしても行かせてほしいんです。お願いします」
行きたいから、行かせてほしい。子どもの言い訳だ。こんなのが社会で通用するわけないとわかっている。
それでも、ほかに言い方がわからなかった。
頭の上から、は~ぁと大きなため息が聞こえる。
「うん、まぁ、ちょっと落ち着きなさい。バンを回収すればいいのね、それはわかった、こっちでなんとかしとく。で、星野のことはね」
一度言葉を切った斎野は、組んでいた腕を腰にあてると再び息を吐いた。すぐにでも飛んでいきそうな顔つきの奏を見て、斎野は顔を顰めた。
「わかったわかった行ってこい。ちゃんと後で説明しなさいよ」
斎野が最後まで言わないうちに、奏は自動扉に体当たりする勢いで走っていった。
「……なに、あれ」
どこか毒気を抜かれたような声でスーは呟いた。
「そうだよなぁ。たしかに仲良くしてほしいとは言ったんだけどなぁ」
斎野はそうひとりごちた後、気を取り直したように
「あー、とりあえずバン回収するか」
すぐ近くにいる男性スタッフに指示を出した。そうしながら、あっという間にいなくなった若者の、もう見えない後姿を思い浮かべて苦笑いした。
なんだか大変な奴を日本から送り込まれたのかもしれん、と思いながら。
赤と青の縞々模様の旗があちこちでゆらめく。デモをあらわす縞々は、青い空と生い茂る木々の緑の下、はっきりと色を重ねて主張する。歩く人たちは旗と同じ赤と青の縞々のリボンが垂れたホイッスルや傘を持っている。
交差点封鎖のときと同じだった。デモグッズを売りさばく屋台が隙間なく並んでいて、ずうっと演説が流れている。花見のようにシートの上に座って、内輪で顔を仰ぎながら屋台の料理を食べる人たち。目立った敵意も殺伐とした雰囲気もない。
あつい。
ろくな日陰もないし、すれちがう人たちのように帽子をかぶってきたわけでもない。六時を過ぎたばかりのバンコクはまだまだ熱が引かず、すぐ横に広がる池に衝動的に飛び込みたくなる。
やっぱり四月は真夏だ、と身をもって実感しながら手の甲で汗を拭う。
冷房の効いたデパートで、鞄でも服でも見ていてくれればどれだけよかったか。
明里はポケットからヘアゴムを取り出すと、汗で貼りついた髪をひとつにまとめた。
予想以上の人の多さは、いい意味でデモの切迫した感じを薄れさせて、本当に野外フェスにでも来てるような気にさせる。外国人も時々いる。今も目元をのぞいて全てを黒い布で覆い隠したイスラムの女性とすれちがった。
アイパッドで演説の様子を撮る人や、写真を撮り合ってはSNSにアップする人たち。思ったよりも和やかそうに見える会場にホッとしつつ、人の多さに横井たちを探すのは困難にも思えた。
一人じゃやっぱり難しいかもしれない。そう思って、さきほどの声を思い出す。
そんな危ないとこ一人で行くな。今すぐ行くからそこで待ってろ
なに言ってんだか、とおもった。ただでさえ明里がいないから日本語が話せるスタッフは少ないというのに、奏まで出てきてもらっては困る。
電話口できちんとそう言えなかったことに若干の悔しさを感じつつ、仮面をつけて踊る二人組みの脇をすり抜けた。
それにしても、こんなに沢山の人たちがいるのに、赤い服を着ている人は一人もいない。
ぐるりと視線を一周させ、明里は小さく息を吐く。
のん気に屋台でご飯を食べてるだけのように見えるのに、申し合わせたように誰もがその禁忌の色を身に付けるのを避けている。
そのことに、笑顔の下に隠された狂気と紙一重の強い意思を見た気がする。こんな中にあの三人がふらりとやってきたら一体どうなってしまうんだろうと思わずにはいられなかった。
手近な屋台で水を買いながら、売り子のおばさんに尋ねてみた。
「赤い服を着た日本人を見なかった?」
赤い服、という言葉におばさんは怪訝な顔を見せながら、黙って首を横に振った。
「日本人ならさっき見たよ」
そう言ったのは、その隣でクーラーボックスに氷を足してる少女だった。尚希と同い歳くらいだろうか。明里は慌てて目線を下げて、
「どこで見たの」
と尋ねる。少女の棒のように細い手が、「あっち」という言葉とともに特設ステージの方を指差した。
「ありがとう」
声をかけると、少女は黙って下を向いた。クーラーボックス越しの素足は、なにも履いてない。少女の足元にタライが置かれていて、そこに黄ばんだ衣類が水を含んで重ねられていた。デモキャンプ地で暮らす人たちが、公園の池で洗濯をしてるというのは本当らしい。
薄汚れた水のなかに入っているシャツに描かれたキャラクターばかりがやけにかわいく溌剌としていて、明里は視線をもどした。
カルチャーショックで片づけてはいけない、けれどほかにどう言い表して良いかわからないものは、いつもたくさんあった。この国が好きだということと、自分の立場は一緒にはならなくて、ときおり明里は息が苦しくなる。どうしたって自分の顧客は、千バーツ以上支払ってアフタヌーンティーをする人たちでしかない。
それと、こんなトラブルを引き起こす愚かで裕福な日本人。
だけどそれでも自分のお客様だ。明里は気を引き締めて、人波をかき分けて走った。
どこかのグループがライブを演奏中のステージの前には、日差しを避けるために頭にタオルをかぶったり傘をさしたりしてる人たちが大勢座っていた。
録音されている演説の声とライブの音楽が重なり合って、ますます混沌としているその空間で、明里は赤いシャツを探す。
そのときふいに、ステージ前から複数の怒鳴り声が聞こえた。誰もが驚いた顔でそちらを見る。明里は喉の奥で声を漏らした。
横井たちだった。
三人は酔ってるのか、体をフラフラと揺らしながらあろうことかステージによじ上ろうとしている。周りの人たちが後ろからシャツを掴んで止めているが、抵抗して騒いでいるようだ。ステージの男たちも演奏しながら怪訝な視線を彼らに向けている。
「なにやってるのよ、もう」
明里は舌打ちすると、好機の目で騒ぎを見る人たちを押しのけてステージへと急ぐ。横井たちは誰かから羽交い絞めのような形で捕えられながらも、抵抗を止めてない。
「すみません、とおしてください」
明里は大声で叫びながらステージに近づいていった。けれど周りの人たちも、ステージ前で騒ぐ外国人を見ようとそれぞれ立ち上がったり動いたりしてるせいで、なかなか近づくことができない。
「お願い、とおして!」
人と人の間をかき分けて、ようやくすぐステージ前へと近づく。
「横井さん!」
子どもを抱いたタイ人夫婦の間から顔を出すと、横井たちは驚いた顔をしてこちらを見た。三人とも頬が真っ赤だ。やはり酔ってるらしい。
ああもうほんとに、殴り飛ばしてやりたい。
三人を拘束するように掴んでる男たちに声をかける。
「ごめんなさい、この人たちただの観光客なの。すぐ連れて帰るから」
男たちはきつい眼差しのまま顔を見合わせる。手を解こうとしない様子に嫌なものを感じながらも、できるだけ笑顔を見せて近寄る。
「ちょっとガイドさん、なんで来たんスか。俺たち楽しんでるのに」
状況を理解してないのか、後ろから腕を掴まれているくせに、横井は不満げに言う。
「いいから、さっさと帰りますよ」
横井を拘束している男たちに目線をあてたまま答える。男のうちの一人が明里を見返した。
「なんでこの日本人たちは赤いシャツを着てるんだ」
別の男が怒りに満ちた目を向ける。
「俺たちをバカにしてるなら制裁を下す」
明里は乾いた喉をごくんと下した。
「コートーカー(ごめんなさい)」
余計なことを言わないために、一度言葉を切った。
いつの間にか、自分たちを中心に人の輪ができている。猜疑心に満ちた視線が鋭く明里たちを取り囲む。返答次第ではどうなるかわからない。
「彼らはなにも知らないの。あなた方の戦いを侮辱するつもりはないわ」
こちらを見る、いくつもの目。検分されているような眼差しに、頬がビリビリと痺れた。三人組もさすがに事態をおかしいと感じ始めたのか、取り囲むタイ人たちに脅えたような眼差しを向けて黙っている。
実際は短いはずなのに、その沈黙はやけに長く感じた。やがて、
「ディアオニー オーパイスィ(いますぐ出て行け)」
男の一人がそう言って、横井の拘束を解く。体中から汗が噴き出した気がした。こくりと頷いたとき、
「ディアオ ゴーン(待って)」
背中から、声がかかる。
高く細い声。振り向けば、先ほどの少女だった。大きな目が、清潔な光を宿して強く光っている。
ヒッと小さな声が横から聞こえた。横井か別の男か、わからなかった。明里はなにも言えず、少女をひたと見つめていた。
少女の痩せ細った両手。その小さな両手に余るような、大きな黒い銃がこちらをまっすぐに向いていた。
周囲の大人の怒鳴る声がする。
少女のくちびるが小さく動いた。
その言葉は、聞き取れなかった。
少女の細い腕が痙攣するように動いたとき、明里は無意識に飛び出していた。呆然と立つ横井たちの前に走り出る。驚く横井たちと目が合う。
同時に、その自分をなにかが覆った。力強い、それが人の腕だと遅れて理解する。大きな腕に、しっかりと抱きとめられる。
熱を、匂いを感じた。
あかり、と声を聞いた。
誰かが怒鳴る声がぼんやりと聞こえる。
来るだろうと身構えでいた衝撃は、しばらく経っても来なかった。
そうっと目を見開く。
ぽたり。
自分の前髪から、滴がひとつ垂れた。地面に吸い込まれていくそれを、ぼんやりと見る。
「……なんだよぉ」
横井か誰か別の男か、今にも泣き出しそうな弱い声。
「大丈夫か」
耳元で、はっきりした声が聞こえた。俯く明里を覗き込む、その顔とゆっくり目を合わせる。
後ろから日差しがその人を照らして、濃い影が明里にかぶさるように重なっていた。
――――なんで。
「勝手に動くなって、言っただろう」
ぐしゃり、と音がしそうなほど顔を顰められる。猫のような形の目が一緒に歪んで、瞳に映る自分の顔を見ることができなくなった。
髪の毛がぐっしょり濡れている。
そこから垂れてくるのは、赤い液体。ではなく、透明な、
「……水、だよな、これ」
奏が額を掌で拭って眉を寄せる。明里は奏の腕の中におさまったまま、首だけを少女に戻した。
勢いよく噴出したのは弾丸ではなく、水。
逆光で見間違えたのか、空気に呑まれたのか。店で兄弟たちが遊んで使ってたのと同じ。
ソンクラーンの水鉄砲だった。
水鉄砲を掴んだ少女が叫んだ。
「出て行ってよ! 日本人にはわかんない! 私たちの気もちなんて!」
少女はやけを起こしたように、横井たちに向かって水鉄砲で水を撒き散らしている。
まだ沢山の言葉を持たない彼女に代わって、彼女の怒りや悲しみが発散されているようだった。横井たちはわぁとかうへぇとかまぬけな声を出して、横に飛びのく。
ぼんやりその様子を見ていた明里は、頬を抑えられる感触に正面を向いた。奏が片手を明里の頬にあて、ざっと全身眺める。
「大丈夫か」
再びそう尋ねる。奏の額にかかる前髪が、滴をつくっている。それを眺めながら、無意識に頷いていた。奏は軽く頷くと、明里の頬から手を離した。迷いのない足取りで少女の方へと向かう。
なにをするつもりだろう。そうおもってもまだ、声は出なかった。なにかに魂を抜かれたように、自分を立て直すことが出来ない。
少女が奏を見て、警戒するようになにか叫んだ。周囲の人たちも険しい顔で、少女を守るように間に立つ。それをやんわりと手で制した奏は、倍以上背の高い男をにらみつける少女に向かってかがみこんだ。
少女が怯んだように半歩下がる。身を守るように、水鉄砲を本物の銃のように奏に突きつけた。
少女に向かって奏が一歩近づく。身をかがめて、
「ごめんね」
そう言って、奏は目の前の少女を抱きしめた。
「ごめん」
水を含んだ黒髪が、日差しを受けて白く光る。パンツスーツの膝を地面について、汚れるのもかまわず奏は両腕で小さな身体を包む。
労わるように。
励ますように。
償うように。
面食らった顔で棒立ちになっていた少女は、やがて顔をくしゃりと歪めた。周囲の大人たちがとまどったように顔を見合わせる。それまでの殺気立った雰囲気がゆるやかに霧散していくのを感じた。
奏の濡れた白いシャツが身体に張り付いている。広い背中の向こうで、泣きそうなのを我慢している少女の顔が小さく見えた。
なんだか知らない人みたいだ。
ごめん、だって。あんな声も出るんだ。あんな風に優しく言うこともできるんだ。
こんな風に颯爽と現れて、問題を解決して、なんだかまともな人みたい。まともに優しい人みたい。
そんなことないと、知ってるのに。
少女を離した奏が横井たちに固い表情でなにか言っているのを、相変わらずぼんやりと見つめていた。
まだ、動けなかった。