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チャッナンルッチャスカオバーン――敵を家のなかに入れる

 呆けたように奏を見る。奏は明里の手を握ったまま、ますます楽しそうに笑みを深めた。

「…………なん」

 クッとまた笑う。

「隠し通せたとでも思ってたのかよ。バカだな」

 バカだな。


 軽く言われたその言葉に、あのときの記憶がよみがえる。

 雑巾に書き殴られた文字。みんなの笑う声。奏の歪んで笑う目。

 ぞっと背中が冷たくなり、指先が小刻みに震える。そんな馬鹿な、と思うのに、考えるより先に体が反応していた。奏はそんな明里をじっと見て呟く。

「さっきまでと大違いだな」

 冷たい目で見られ、声が喉の奥で細くなる。

「いつから……」

「ちょっとずつな。同じ名前だったし、もしかしたらと思った。今日一日いて確信したよ。ああ、こいつコニシキだって」

 顔から血の気が引いていくのが分かる。気づかれていることに気づいてなかった。だけど思い返せば、会社とちがうな、とおもったときは何度もあった。

 ふっと思う。

 もしかして、それを確かめるために今日二人で会おうとしたんだろうか。

 固まってしまった体の代わりに、頭だけはめまぐるしく動いている。そんな明里を無表情に見つめていた奏が、ゆらりと動いた。

 顔が近づき、前髪が明里の額にあたる。小さく笑った息が鼻先をかすめた。酒のにおいは、しなかった。

「……お酒」

 かろうじてそれだけ呟くと、動きを止めた奏がおかしそうに言った。

「飲んでないのに、酔うはずないじゃん」

 いらないよ、必要ない。

 さっきの言葉の意味を理解して、それでもわからない。

 嘘だった? なんのために? 

 混乱して相手を見返すと、奏は楽しげに笑った。

「おまえ変わったけど、やっぱり変わってないよ。そういうとこ」

 奏の顔が近づく。殴りつけてやりたいのに、驚きが強すぎて頭がはたらかない。 ぼうっとしていると、耳元に口元を近づけた奏が、囁くように尋ねる。


「あれからさ、だれかとキスしたか」

 耳に声が忍び込む。輪郭だけだった伴った言葉の意味が届いたとき、羞恥に頬が燃えた。

 同時にそれは覚醒の合図でもあった。十二年前の幻影が掻き消えて、二十四歳の星野明里が戻ってくる。

 おもいきり足を振り上げると、相手の股関節のあたりにおもいきりヒールが当たった。ホテル視察に備えて、いつも履くスニーカーとはちがう八センチヒール。ざまあみろ。


 不意を突かれた奏は、前かがみになって力を緩めた。その隙に両手を振り払って脇に避ける。

「そんなこと、あんたに関係ないでしょ!」

 怒鳴ると、怒りに任せて扉をバンと開けた。そのまま右に折れて客室を出る。重い扉が後ろでバンと鳴るのを背中に聞いて、震える指先でエレベーターのボタンを押した。

 のろのろと閉まるエレベーターのクローズボタンを執拗に連打して、ようやく動き始めたエレベーターの中、耐え切れず座り込んだ。

 もう、もう、最悪だ。




「おはよ~、昨日どう」

 だった、という斎野の言葉は明里と目が合ったところで消えた。明里はカウンターで頬杖をついたまま、なんでもないです、と口の中で答えた。

「なになになに、なんかあったの」

 言葉ほど慌ててない口調で斎野は明里を覗き込む。明里がだんまりを決め込んでいると、今度は明里の後ろから声がした。

「なにもないですよ。すごくきれいなホテルで、支配人も年末商戦に向けて色々と企画中だそうです。こちらの希望価格を提示しましたが、色好い返事をもらえそうですよ」

 おもわず振り返る。一度家に帰ったのか、昨日とはちがうシャツを着た奏が立っていた。目が合うとそらすより前に微笑んできたのがわかって、胸の底が苦く焼けた。

「星野さんのおかげですよ、たくさん資料も撮ってくれたし。そういえば、昨晩部屋のアメニティ持ち帰ってませんでした?」

 頬杖を突いていた肘がガクンと滑って、カウンターに並べられたガイドブックやフリーペーパーの小冊子が雪崩を起こした。

「ちょっと、もしかして一緒に泊まったの?」

 スーが口元を両手で抑えて明里を見た。

「そんなわけないでしょ!」

 スーに怒鳴って、そのまま視線を後ろの男に滑らせた。奏は相変わらずニヤニヤと笑っていて、その顔は昨夜を思い出させた。

 朝が来たらこの男が記憶喪失になっていればいいのに。本気でそうおもった明里の願いは届かなかったらしい。十二年越しの悪夢がふたたび始まろうとしている。

「泊まったのは僕一人ですよ。ただ、部屋の内装を女性目線で確認してほしかったんです」

 ぬけぬけと言う奏の頭を今すぐにこのぶ厚いこのガイドブックでひっぱたいてやりたい。資料を並べなおしながら、冊子を握る手に力がこもった。

「そいで、もう支配人と話してきたの」

 斎野が手近な椅子に座って奏を見た。奏はにっこり笑った。

「今朝名刺を渡してきました。今度はもう少し安い価格で泊めてくれると言ってましたよ」

 その言葉に斎野は満足そうに頷いた。仕事が早い人が好きなんだ社長は。

 やり取りを視界に入れないように、並べなおした冊子をもう一度手にとってパラパラと捲る。本の端が小刻みに震えてるのは、自分の指先が震えているってことだろうか。認めたくない、そんなこと。

 最新号とはいえ、もうずいぶん前に発行されているその冊子を一心に眺めていると、ふっと影が差した。少し浅黒い肌が視界の隅に見えて、ぎくりと固まる。


「昨日はありがとうございました」

 昨夜の不遜さはおくびにも出さず、奏が明里を見下ろして笑った。

「星野さんと一緒にいると勉強になります。また下見、付き合ってくださいね」

 笑顔を向ける男をじっと見上げる。この男がなにを考えてるのか全然わからない。十二年前より更にタチが悪くなっている気がする。

 それでも昔とちがうこともある。明里は強くなった。もう太ってないし、無口でもない。生きる場所を自分で選んで、そこで立っている。

 こんな男に、明里の居場所を邪魔させない。

 

 視線からなにを読み取ったのか、無言の攻防の後に奏はふっと口元を緩めた。

 斎野が、大きなS字フックのようなマッサージグッズを肩にあてながら奏に言った。

「ほい、そんじゃ、仕入れの打ち合わせしようか。他の候補もあるんだろ?」

「いくつか用意しています。観光地とセットで提供しようと思っていて」

 そう言いながら奏と斎野は打ち合わせスペースがある奥の部屋へと消えた。観光地とセットなんて話、昨日は言ってなかった。ほかの候補なんて、いつの間に用意したのか。

 一人でサクサク進められるじゃないか。なんで自分を巻き込んだんだ。

 お客さんが来たときにすぐメモできるように、カウンターに刺しているペンは毎朝インクの出を確かめる。ぐるぐるぐる、と何重も黒い円を描く。ペンの勢いがついて、小さな黒い穴が空いて描いた半円が途中で止まる。

 なんとなく嫌な気分になって眉をひそめたところで、自動扉が開いた。お客さんだ。明里は笑顔を作って立ち上がった。

 どんなときでも仕事なら切り換えてみせる。

「サワディーカー(こんにちは)」

 明里は笑顔を浮かべたまま、カウンターの下でメモを握りつぶした。




「じゃあね、カーヴィン」

 モーターサイを降りると小さく手を上げた。カーヴィンが言う。

「明里、今日はたくさんお酒を飲むといいよ」

 唐突な言葉に、なんで、と目を丸くすると、

「眠れないときはお酒。常識だよ」

 カーヴィンが茶褐色の手を伸ばして親指を立てた。ヘルメットの間から覗く目は朗らかに笑っていて、明里もつられて力が抜ける。寝不足でひどい顔をしていることを、そっと気にかけてくれていたと思うと心の中が丸く温かくなった。

 (ソイ)に出て行くカーヴィンのモーターサイが小さくなっていくのを見送る。やっぱりこの国はいい、と思って、今朝膨れて爆発しそうだった胸の風船が平常時の大きさに戻っていくのを感じる。

 小さく息をついてコンドミニアムに向かおうとした時、

「おい」

 声が聞こえた。日本語の呼びかけに、ふっと視線を向ける。


「――――な」

 にしてるの、という言葉が口の奥で消えた。

 コンドミニアムの壁に片肘を預けて、奏が腕を組んで立っていた。足元にはボストンバッグが一つ置かれ、取っ手が奏の革靴にもたれかかっている。

 驚きすぎて反応できずにいる明里にかまわず、奏はコンドミニアムのエントランスに繋がるガラスのドアを引いた。駐在員たちが住むシャレたアパートじゃないから警備員もいない。易々と外部の侵入を許してしまう。

 ドアを手で抑えながら、奏が振り返る。

「部屋どこ?」

 ぼうっと相手の行動を見ていた明里は、その言葉にハッと我に返った。

「なにしてんの。帰ってよ」

 奏は扉から手を離すと、エントランスに並んでいるメールボックスから明里の名前を探し出し、三階か、と呟いた。その言葉に青ざめる。まさかこんなところまで嫌がらせに来たんだろうか。

 そしてやっぱり会社にいるときとは全然ちがう。みごとな猫かぶりだ、と眉をひそめる。

 思えば昔からこういうことが得意な奴だった。中学のときの担任なんて顔も忘れてるけど、こいつのことを気に入ってたという感覚だけはなんとなく覚えている。

 影で女の子を虐める最低な男だったのに。なんでこいつばかり、未だに世の中をうまく渡ってるんだろう。 

 そんな風におもっている間にもサクサクと階段を歩いていった奏は、家主よりも先に部屋の扉の前に立っていた。

「早く開けろよ、これ重いんだから」

 片手に持つボストンバッグをわずかに揺らして奏が言う。その荷物の意味は。

 嫌な予感が間近に迫っていて、それを跳ねつけるように腹筋に力を入れて立った。真っ向から奏を見上げる。

「開けるわけないでしょ。ここでなにしてるの?」

 さっきは無視された質問が、今度は聞き入れられた。奏は眉間にシワを寄せて、

「アパートが水漏れした」

 と答えた。

「…………は?」

 眉をひそめる明里にかまわず、奏は頭を傾けると目を閉じて嫌そうに言った。

「帰ったら床びしゃびしゃだったんだ。おとといシャワー出しっぱなしにしてたみたいでさ。昨日留守にしてたろ? 放置してたらひでぇことになってんだよ。大家さんに言ったらさ、旧正月(ソンクラーン)前は忙しくて業者が掴まらないって言うし」

 それで明里の家に来たと。

 ボストンバッグを持って? 

 さきほどから感じている嫌な予感がいよいよ眼前に迫ってきて、両腕を組んで身構える。

「だからさ、泊めてくんない?」

 半ば予想していた言葉だったけど、それでも衝撃は大きかった。腕を組んだまま、まじまじと相手を見る。

 一体どんな神経をしていたら、昔自分がいじめた相手、というのを抜きにしても、付き合ってもない異性相手に泊めてくんない? なんて言えるんだろう。

 およそ明里の常識では考えられないことだけれど、このやたら顔がきれいな男は、これまでの人生で泊めてくんない? と言えば女の子たちに喜んで受け入れてもらってたのかもしれない。なんかこう、経験に裏打ちされている発言のような気がした。

 とはいえ、明里の答えは決まっている。 

「いや」

 一言口にすれば、奏の唇が不機嫌そうに歪む。おもちゃを取り上げられた子どものような、変に無邪気な顔だった。

「なんでだよ」

 理由なんてたくさんある。この男、仕事はできるかもしれないけどバカなんじゃないの。

 明里は眩暈を感じて額を抑えながら、小さく言った。

「ホテル取りなさいよ」

 今朝、サワン・ファーホテルを安く使えると言っていたことを思い出す。早速使うチャンスが来たということだ。

「これからアパートの修理費や水漏れで壊れた家電の買い直しやらで、金飛んでくんだよ。ホテルなんて使えるか。おまえん家ならタダだろ」

 自分の所為だというのに当然とばかりにそんなことを言う。タイに来て色んなカルチャーショックを経てきたけれど、これはまた別の意味で衝撃的だ。

 なんだか口を開くのも億劫だけど、話をしないと諦めてもらうこともできないので、仕方なく言った。

「なら事情話して、社長のとこに泊めてもらったら。あそこだったらここより広いし」

 というより、居候先の相談相手は同性が先だろうと思うけれど、そこはこの男の常識に無さそうなので黙っておく。

「せっかくできる男だと思われてるんだ。イメージ崩せないだろ」

 その言葉に、胸の内側で風船がまたも弾けた。

「あんたねぇ」

 奏の半そでシャツの裾を握って力任せに引き寄せる。不意をつかれたのか、奏が目を見開いて明里を見下ろす。

「バカにしないで。うちの社長はそんなことで簡単に態度変えたりなんかしないわよ」

 斎野は今のところ、このむかつく男をできる男だと思ってるんだろう。若くして親会社から駐在員として派遣されてきた奏に期待してるのだ。

 あのホテルを仕入先に薦めたのは明里だ。でも打ち合わせは奏と二人で行われた。奏が来る前にはカウンター業務以外もちょこちょこ引き受けてきたけれど、きっとこれからはそんなこともなくなっていく。そうやって業務の棲み分けができて、結果的に仕事がうまく回っていくようになるんだろう。

 それでいいけど、ちょっとだけ、いやけっこう、羨んでいる自分がいた。

 

 直面している問題と関係ないところで、急に心が沈んでしまう。それもこれも全部、目の前の元いじめっ子の所為だと思うと恨みも増す。

 だからシャツの裾を掴んだままジロッと睨みあげたというのに、奏はまじまじと明里を見ている。

 そして言った。

「やっぱりおまえ変わらないな」

 それは昨日も聞いた。けど異論がある。明里なりに必死になって積み重ねた十二年を、あっという間に崩すような言葉だから。

 それなのに開いた口から言葉が出なかったのは、奏の口調がどこか真剣味を帯びているような気がしたからだ。強く掴んだ半そでシャツの裾はシワになっていて、未だに握りしめてることに気がついて手を離す。

「とにかく、ウチはだめ。どうしても社長ん家が嫌なら」

 いやなら、と考えて閃く。

「スーのとこは? スーならいいかも」

 おもわず勢いこんで言う。途端に奏が警戒するように目を眇める。

「は?」

 尋ねる声が低くなっていることも気にせず、

「スーなら泊めてくれるよ。頼んでみる」

 そう言ってポケットからスマホを取り出す。スーが奏に好意、というか興味があることは明白だ。本当ならこんな男絶対友だちに紹介したくないけど、背に腹は変えられないというか、スーも喜ぶなら利害一致というか、そんな気もちでLINEのロゴをタップした。

 緑色のロゴマークが画面いっぱいに表れたところで、上から手首を抑えつけられた。

 顔を上げると、冷ややかな目で奏がこちらを見ていた。

「おまえやっぱりバカだな」

 冷たい目と同じ、冷たい声。反射的にギクリと体が強張る。

「俺に逆らえると思ってるの」

 掃除当番代わってよ。

 そう言った中学生の奏が重なって見えた。胃袋に石でも詰められたように苦しくなる。

 昔植えつけられた恐怖が、急速に体と心を追いつめていく。そうなってしまうと、今までまともに言葉を返せていたことがふしぎなくらいだった。


「いいの? みんなに言っても。俺たちは元同級生で、俺は星野さんのファーストキスの相手なんですって」

 奏が口元だけ笑って言う。口が笑った分だけ目元が一層冷たくなったみたいで、なにも言えなかった。いつの間にか膝と膝が密着していて、慌てて退くとその分だけ距離を詰められた。昨日と同じだ。

「ねぇ、やなんでしょ? 海外で仕事してるしっかり者の星野さんは、俺に虐められてたなんて、誰にも知られたくないんだよね?」

 猫の形の目がゆらめいて光る。ひどく愉しげに見えるその目が憎い。憎いのに、だからこそ、視線をそらすことができなかった。

 掃除当番代わってよ。そう言われて、拒否できたことは過去に一度もなかったのだ。




 正気の沙汰とは思えない。深夜のタクシー運転手より危険な人物を家に招き入れるなんて。

 でもそれ以外にどんな選択肢があった? 奏の言うように、絶対にばらされたくない。ファーストキスなんて正直どうでもいい。

 ただ十四歳のとき、虐められていたことを誰にも知られたくなかった。かわいそうだったねなんて、絶対に言われたくなかった。

 普通に考えたら、虐めのことがばれたら困るのは明里じゃなくて奏のほうだろう。明里は被害者で、奏は加害者だ。女の子を虐めていたなんて、控えめに言っても最低だ。

 わからない。こいつの考えることなんて十四歳のときから、これっぽっちもわからない。

 それでもたしかに明里は誰にも知られたくなかった。だから結局、奏の狙い通りにことは進んでいる。


「なんだ案外広いじゃん」

 ボストンバッグを床に置いて、奏が物珍しげに部屋を眺める。明里は唇を噛んでその様子を視界から追いやった。

 玄関の正面にある二人掛けのダイニングテーブルの椅子には明里のパーカーとカーディガンがハンガー代わりにかけられて、テーブルにはフリーペーパーや諸々の振込み書が散乱している。すぐ後ろにあるソファには、テーブルと同じようにバサバサと置かれている雑誌や、取り込んだきり畳んでない洗濯物たちがわさっと積まれている。

 洗濯物をどかして、つっけんどんに言う。

「寝るならここで寝て。シャワーとトイレはあっち」

 振り返って、玄関の左手にあるキッチンの方を顎で示す。キッチンのななめ前の壁にひとつ扉があって、そこがユニットバスになっている。


 奏は面白そうに部屋を眺めている。見ても楽しいものなんてない。壁にかかっている絵や飾りはコンドミニアムに最初から付いてるのをどかしてないだけで、明里自身はインテリアに凝る趣味はない。備え付けのテレビと、その横の空間に積まれているのは業界誌や旅行のパンフレットだ。自分の店のも競合店のも、新しいのが刷られているとつい持ち帰って眺めてしまう。

 我ながら可愛げのない部屋だけど、誰を呼ぶわけでもないしそれでかまわないと思っている。散らかってることだって気にならない。のに、じろじろ見られるとさすがに落ち着かない。見ないで、と言うのもそれはそれで恥ずかしい言葉な気がした。

 結果、自分の畳んでないシャツやキャミソールの山を抱えて気もちだけは毅然として立っている。

「いつ部屋直るの」

 明里の質問に奏は肩をすくめた。

「さあ、わかんない。旧正月(ソンクラーン)明けには直してくれるんじゃん」

 そんなに! 

 眩暈がしそうになるのを、足を踏ん張ってこらえた。

 来週からはじまるソンクラーンはタイの正月だ。この期間はどのビルも会社も休みになるから、今の時期はみんな仕事を前倒しして働いている。奏のアパートの大家が忙しいのもその所為なんだろうとは思う。

 だけどそのソンクラーン明けということは、少なくともあと一週間はアパートを使えないってことだ。そんなに長い間この男が明里の部屋にいるなんて、絶対ありえなかった。

「無理! そこまでは面倒見れない。社長に言ってみてよ。会社でなにか補助出るかもしれないじゃない」

 なんなら一緒に頼んであげてもいい。必死に言い募る明里を、どこか他人事のように見て奏は視線を明里の後ろに向けた。

「なぁ、そっちおまえの部屋?」

 視線の先に気づいて、おもわず身構える。

「そうだけど」

 ベッドと化粧台があるだけの部屋だ。それでも人に見せるようなものじゃないし、相手が奏となれば尚更だ。

 ふーん、と言うその唇はオモチャでも発見したように笑っている。嫌な予感がして、慌てて扉の正面に立つ。

「ルールその一、こっちは入ってこないで」

 片手を上げてひとさし指を一本突き出す。その拍子に、洗濯物の束からひらりとフェイスタオルが落ちた。それでも怪訝そうに明里を見る奏から目をそらさない。

「ルールその二、トイレの処理と貴重品の管理は自分でやって」

 タイのトイレ事情は深刻だ。簡単に言うと、トイレットペーパーが流せない。家族でもない男のトイレットペーパーを捨てるなんて考えたくもないし、相手だって嫌だろう。奏はなにも言わずにわずかに眉を上げた。それを同意とみなして続ける。

「ルールその三、もし私に何かしたら、すぐに追い出す」

 突き出す指が三本に増えると、無表情だった奏が再び興味を引かれた顔をした。唇の端が上がって、こちらを見る目が獲物を見つけた猫のように嫌な光り方をする。

 その目を音がするくらい強く睨みつける。

 追いつめられたら鼠だって猫相手に噛み付く。やられてばかりじゃない。

「もちろんしないよ。悪いけど俺、そこまで不自由してないんだ」

 ええそうでしょうとも。心の中で悪態をつく。

 それならその不自由させない女の子たちのところに行ったらいいのに、なんの嫌がらせだろう。それともやっぱりかっこ悪いところを見せたくないっていうプライドなんだろうか。

 まぁなんでもいい。明里はトラベルエージェントであってカウンセラーではないので、元同級生の心理になんか興味はない。


「それじゃ、私ご飯食べてくるから適当にシャワー使って寝て」

 言い置いて玄関に向かうと、少し驚いたような声が後ろから追ってくる。

「一人にしていいのか」

 その言葉に呆れて振り返る。

「なに、家捜しでもするの」

 貴重品はベッドルームに鍵をかけてまとめてあるし、もし何か無くなってたら犯人はこいつ以外ない。さすがに変なことはしないだろうと思っているけど、そうでもないっていうんだろうか。どこまでも信用できない奴。

「するわけないだろ」

 明里の言葉にいささかムッとしたように奏は返すと、

「家で食べないのかよ、メシ」

「いつも外食だから」

 キッチンの壁には鍋とフライパンとまな板が吊るされていて、一応形だけは整っている。これは明里が用意したものじゃなくて、コンドミニアムに予めついていた器具だ。

 キッチンカウンターに置かれているのはアイロンと霧吹き。ここでは料理じゃなくてアイロンをしてる。スペースがちょうどいいのだ。

 明里の言葉に、奏が嫌そうに眉をひそめた。

「毎日? 不経済だな」

 そんなことない。屋台で食べれば、日系スーパーで高い日本製の調味料や食材を買うより安く済む。タイ人が料理しないのなんて有名な話だ。でも思うだけで言葉は返さない。余計な会話はしたくなかった。

 言葉を殺して、まるで中学生のときみたいだと思ってると、奏が予想外のことを言った。

「じゃあ俺が作ってやるよ」

 言葉に目を見張る。反射的に言っていた。

「いいよそんなことしなくて」

 遠慮ではなく本心だ。使ってないとはいえ自分のキッチンを使われるのも抵抗があるし、なによりそんなことすれば一緒に料理を食べないといけなくなる。

 焦る明里に構わず、奏はスタスタとキッチンまで行くと勝手に冷蔵庫を開けた。

「すげーな、酒しか入ってねぇ。おまえが酒飲みとか、まだ信じられないわ」

 言いながら冷凍庫も開ける。

「ちょっと、勝手に見ないでよ」

「見るようなもの入ってないじゃん。おまえさ、少しは備蓄しといたほうがいいぞ。いきなり具合悪くなったときとか困るだろ」

 まともなことをまともな声音で言われて、驚いて声が詰まる。不躾なほど相手をじっと見ても当の本人は気にした様子もなく、検診を終えた医師のように事務的かつ淡々とした表情だ。

「俺ちょっとスーパー行ってくる」

「え?」

 言いながら、すでに玄関に向かって歩き始めている。靴を履く後ろ姿に慌てて駆け寄って、

「余計なことしないでいいってば」

「俺に鍵渡したくないだろ。帰るまでいろよな」

 会話のキャッチボールが全然できない。たまにビックリするほど話を聞かないお客さんがいるけど、奏も同じだ。目的がわからない分、お客さんよりひどい。

「ちょ――」

 なにか言うより先に扉が閉められた。廊下を歩く足音を聞きながら、その場に座り込む。

 なんなんだ一体。どうしてこんなに向こうのペースになってるんだ。

「もう、死にそ……」

 呟く声が室内に儚く消えた。


 ほっくり湯気の立つジャガイモとニンジンとシラタキの肉じゃが。焼き塩鮭。野菜炒めには肉じゃがに入ってるのとは切り方のちがうニンジンとキャベツとタマネギ。

 そしてご飯と油揚げと豆腐が浮かんだ味噌汁。一汁三菜という奴を、ひさしぶりに見た。歓迎会のとき斎野に向かって電気コンロに慣れないとか言っていたはずなのに、奏は鍋を焦げ付かせることもなく上手に料理を作ってみせた。

「余ったやつラップして冷ましてるから、後で冷蔵庫入れておけ。明日も食えるだろ」

 ダイニングテーブルの対面に座った奏が言う。奏の箸はワリバシだ。箸は一膳しかない。この国はスプーンとフォークが主流だから、コンドミニアムにも箸の用意はなかった。 

 奏の言葉にぎこちなく頷きながら、

「材料費」

 かろうじてそれだけ言えば、味噌汁をすすりながら視線だけこちらに向けてくる。

「いらない。代わりに家賃チャラな。ルール四? に入れとけ」

 そういうことか、と納得する。家を提供する代わりにご飯を作ってもらえる。取引なら、割り切って考えられる。どこで買ってきたのか、日本のばら肉とはちがう厚切りの牛肉を噛む。タイの牛肉はあまりおいしくないはずなのに、どんな方法なのか臭みもなく柔らかかった。

 久しぶりに食べる日本食に無言で箸が進む。まずくない。それどころか、おいしかった。辛すぎず酸っぱくもなく、マイルドな味は懐かしくて強張っていた力が自然とぬける。

「大学のときユースホステルサークルにいて、いろんな所で炊事したんだ。だから料理は得意」

 聞いてもないのに、そんなことを話す。顔が良くて料理ができて、肝心の性格はきっとうまく隠し通してる。これでモテないはずがない。

 食べ物が口に詰まってることを理由に、わずかに頷くだけで反応を終えた。

 開け放したベランダの扉から、BTSの走る音と車のクラクションが流れてくる。バンコクの夜は騒々しく、沈黙が漂う室内を埋めてくれる。

 炒めたキャベツとニンジンをつまむ箸と、その箸をつかむ長い指を見つめた。十四歳のときより大きくなったであろう手。十二年前のこいつの手なんて、あまり覚えてないから比較のしようもないけど。

 ふいに、奏が息だけで笑った。顔を上げると、奏はおかしそうにこっちを見ていた。

「なんか、ウケるなって思って。おまえと飯食ってるなんてさ」

 こくん、と甘く煮詰まったニンジンが喉を通っていく。

 自分でこの状況を作っておいてよく言う。だけど言いたいことはわかった。

 十四歳のときの自分が、この状況を見たら卒倒するだろう。かつての虐めっ子と十二年後に食卓を囲む日が来るなんて、だれが想像した?

 なんと言っていいかわからず、味噌汁と一緒に言葉を飲み込む。豆腐が口に滑り込んできて、咀嚼すれば音もなく崩れる。

 けっきょく会話らしい会話もないままに、食事の時間は終わった。




 扉の向こうからガタリと物音がして、おもわず肘を突いて起き上がる。しばらくその体勢のまま固まって、無意識に詰めていた息を吐き出して再び横になった。

 寝返りを打って、絡みつくタオルケットを足先で避ける。暑くなってきた。三時間タイマーの冷房が切れたことを知って、あぁ今何時なんだろうとげんなりする。 ベッドサイドに置いたスマホをタップすると、その明るさが目に眩しいくらいにはウトウトしていたらしい。

 それでもきちんとした眠りがやってくるのはまだだいぶ先だろう。カーヴィンが言った通り、たくさんお酒を飲めばよかった。

 もう一度寝返りをして、やっぱり気になって起き上がる。足音を立てずに扉まで行って、そっと耳を扉に押し当てた。

 いつもこっちの部屋からは聞こえない冷房の音がガタガタと聞こえて、それが奴の気配というわけでもないけど、ああやっぱりいるんだな、と思い知って胃が重たくなる。さっきの物音以外は特にない。スヤスヤと眠ってるんだろう。

 ハーッとため息を吐いて扉から離れる。何してるんだろう。自分の家なのにコソコソして、これじゃ私が招かざる客のよう。

 ほんと勘弁してよね。

 暑さにもかまわずタオルケットを頭からかぶって、低い唸り声をあげた。


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