グラナームーペンランムー―― 一転する
「仕入れについて教えてもらいたいんですが」
奏が明里の顔を覗きこむようにして言った。客が途切れたカウンターに横並びで座っている。
カウンターの下、ひっそりと息を吸い込んで、吐く。心拍を正常にもどす。
「仕入れ」
おうむ返しに尋ねることで時間を稼ぐ。奏がはい、と言って頷いた。
「親会社向け商品の仕入れは僕が担当しろって社長が。まだこの辺りに詳しくないので、なにかおススメあれば教えてほしいんですけど」
パッケージツアーに組み込まれる交通手段やホテル、観光施設なんかのことを「素材」と呼び、その素材を調達してくる作業を仕入と呼ぶ。
どの航空会社、どのホテルを仕入れてツアーに盛り込むかによってパッケージツアーの華やかさは変わる。だから素材の仕入れ業務は大切だし、親会社の名前で出しているツアーに変な素材は仕入れられない。
そんな責任のある仕事を、この男は来た翌日からやれるらしい。
鼻白むのを感じながら、それでも椅子を回転させて奏の正面を向く。お客の前ではもちろんしないけど、普段は足を組むのがクセだ。
「ワールドからリストって来てますか?」
尋ねれば、奏がこれです、と机に広げたA4用紙を見る。親会社が予定している年末年始向け商品の希望価格リスト。見ておもわずため息がこぼれる。低価格海外ツアーをメインに扱う競合先に引きずられるように、上は益々ロープライスで行けるツアーばかりほしがるようになっている。
これくらいの金額でまとめるとなると、航空会社は指定不可で決定だ。だけどホテルくらい選べるようにしないと、年末を海外で楽しく過ごそうと思うお客は商品を選ばない。
用紙の端を短く切りそろえた爪で弾きながら、頭の中に浮かんだホテルに片っ端からバツをつけていく。そのなかで、ふと思いついて振り返る。
「スー、エンポリの近くにできた新しいホテル、あれ名前なんだっけ」
アイフォンでLINEゲームをやっていたスーがビクッとして顔を上げる。暇になると勤務中でもスマホで遊び始めるタイ人は多い。ファー・ツーリストは日系企業だから従業員の態度もだいぶ真面目だけど、それでも持って産まれた国民性っていうやつは御しがたい。
そんなところも含めてなんだか憎めず、明里は苦笑交じりで同僚を見やった。
「サワン・ファーホテルのこと?」
スーが首を傾けて尋ねる。尋ねたのは明里なのに、目線は奏に行っている。
「あぁ、それだ」
ありがと、と言って体をななめにしてパソコンに向かう。
高級デパート、エンポリアムは目下二号店を建設中だ。それに先んじて建てられたホテルはタイ語で青い楽園という名前の通り、スクンヴィット周辺には珍しいリゾート感のある見た目が印象的だ。できたばかりのホテルだから、向こうも得意先を探してるはず。攻める相手としては悪くないと思えた。
パーセンテージが百になるまで画像が表示されないオシャレなホームページを開きながら、奏に言う。
「ここ良いと思いますよ。BTSが近いし、はじめてのクリスマスだから大きなイベントやると思うし」
「タイって仏教ですよね?」
尋ねる奏の言葉におもわず表情を緩める。
「そう。だけどクリスマス大好きなんです」
こういうところがタイらしくて明里は好きだ。お坊さんが講演しているところに通りがかれば、若い子も裸足でウロウロしていたおじさんも忽ち黙って手を合わせる。そんな敬遠さがある一方で、クリスマスの電飾の派手さは欧米にも引けをとらない。日本よりは絶対派手だ。
仕事中にスマホやっても許される。必要なときに真面目に働いていれば。要はバランスの問題だ。
マイペンライ、と言って相手を許す。ついでに自分も許されることを当たり前にしている。そんな、もちつもたれつ、の関係が明里には心地よかった。
そんなふうに考えて無意識に微笑んでいると、いつのまにか奏がじっとこちらを見ていた。
「星野さん」
「はい?」
わずかに身構えて尋ねると、
「そのホテル、よかったら今度一緒に行ってもらえますか」
営業に同行してほしいということか。それは無理だ、と明里は首を振る。
「行くなら社長と行ってもらえますか。私はカウンター業務があるので」
明里のメイン業務はカウンタースタッフだ。多少のヘルプはできても、この場所を離れるわけにはいかない。
「ああそうじゃなくて」
そう言って、奏は手を口元にあてると黙ってしまった。なんだろう、と思いつつパソコンに表示されるホテルの画像を次々クリックしていく。新しい施設はいつも気になる。
「あの、日曜は予定ありますか」
マウスをクリックして館内設備をチェックする。バンコクはホテル供給過多だけど、センスが良いホテルはやっぱり値段が高い。安いビジネスホテルか、高いリゾートホテルか。このホテルは断然後者に持ってきたいだろう。親会社が広告スペースをどれだけ回してくれるかでも価格への反応はちがうはずだ。
「星野さん?」
奏を振り返る。なんともいえない顔で自分を見ている男に、あ、すみません、と答える。
「なんですか?」
尋ねると、なぜだか少し笑われた。堪えていたものがおもいがけず零れたような、ひそやかな笑い方だった。
奏は客室の画像を横から覗き込むように身を寄せて、明里をじっと見た。
「このホテルに一緒に行ってくれませんか、プライベートで」
「…………は?」
おもわず低い声が出る。呆けた明里の顔を見て、奏はクッと笑った。
「お客として、ホテルの中身を見てみたいんです。もちろん本当に宿泊なんてできないから、サロンでコーヒー飲むだけでもいい」
言ってることが飲みこめてくると、いつの間にか止めていた息をのろのろと吐いた。奏は明里の反応に気がついたのか、またクスリと笑った。
からかわれた? わざと誤解するような、紛らわしい言い方をして。
そう思って、頬に熱が集まる。こっちは真剣に仕事の話をしてるのに。おもわず睨むように見上げて、そうしながらふいに十二年前にも同じことがあったとおもった。
してやろうか、と誘うように開かれた唇。おもわせぶりなことを言って、明里の反応を見て愉しむ。
ああ、本当に奏なんだな、と妙に納得した。この男はたしかに本田奏だ。
だから睨んでいた目を眇めて、冷たい声を出した。
「勤務時間外の同行なら、他の人を誘ったらどうですか」
振り返ると、スーがスマホを握りしめてこちらの様子を窺っていた。手を振ると、無邪気に笑い返してくる。銀色の歯列矯正がむき出しになる。
「日本人向けのパッケージプランなんで、できれば星野さんと行きたいんです」
奏は柔らかに笑いながらも引こうとしない。明里ははっきりと顔をしかめた。
「日本人なら社長で良いじゃないですか」
自分の言葉に内心で苦笑する。普通の企業だったら、自分の代わりに社長を差し出そうとしないだろう。とりあえず今断れれば良い。斎野がいないのを良いことに勝手に盾にする。
奏が唇に乗せた笑みを消したと同時に、
「ただいま~。あー疲れたぁ」
裏口から斎野が顔を出した。ホテルと商談しに行っていた斎野は、ノーネクタイのシャツの胸元をつまんでパタパタと風を送っていた。
「もー暑くて嫌んなるよ。あのホテル、空調が一定してないみたいでさぁ。こないだ行ったときは寒かったのに」
「社長」
少し固い声で奏が言う。明里はゲッとおもって椅子を回転させた。
「なに」
隅に置いてある冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した斎野が振り返る。
「日曜日、一緒にホテルでアフタヌーンティーしてくれませんか。僕と二人で」
「はぁ?」
斎野が眉を寄せた。明里は唇をかみしめて下を向く。
「仕入先候補なんですけど、一度お客として行ってみたくて」
「僕とおまえが? やだよ」
ペットボトルにストローを注して、斎野が首を振る。
「なんで野郎二人でアフタヌーンティーなんて」
「ですよね」
奏の相槌を睨みつけるも、奏は斎野に向かって微笑んでいてこちらは見ない。
「星野さんにお願いしたら、社長と行けと言われ」
「ちょっと」
おもわず声をあげる。どうしてそんなことわざわざ言うのよ、という思いをこめて奏を見ると、逆にキョトンとした顔で見返された。なんで怒ってるのかわからないという顔。
「明里ちゃん、新人君の面倒見てあげてって言ったじゃない。連れてってあげなさいよ」
なんでもないことのように斎野が言う。
「いやそんな」
言いかけたとき、後ろで自動扉の開く音がした。小さな子どもを抱いた欧米人とタイ人のカップルが来て、慌てて笑顔を作る。
「それじゃ、日曜よろしくおねがいします」
笑顔の奏が小さい声で言って、この話は終了とばかりに夫婦に向き直って椅子を示す。
明里は堪えきれないため息を吐いて、椅子に座りなおした。後ろで誰かの鳴らすスマホのゲームが音漏れして、パキューンと間抜けな音を立てた。
ポロロロン、と軽やかな中にも響きのある音が女性の手から優しく弾かれる。タイの古典楽器キムは、民族衣装に身を包んだ女性が足を崩して座るその正面に置かれている。琴と木琴を足したような様相で、いくつも弾かれた弦を木製の棒で弾いて奏でる。
ピアノの生演奏のように、BGMにキムの演奏を用いるホテルは多い。サワン・ファーホテルもその一つだったようだ。
明里がデジカメを向けると、奏者の女性は目線をこちらに向けてにこやかに笑った。顔をこちらに向けても、演奏は滞りなく進む。ポロロロン、ポロロロロン。高い天井が喧騒を吸い込み、心地いい程度のざわめきの中に音が自然に溶けていく。
いくつかシャッターを切っていると、ちょうど注文していたアフタヌーンティーが運ばれてきた。タイ式と英国式、二種類のアフタヌーンティーが机に並ぶ。英国式はよくガイドブックでも目にする金色の柵に乗った皿に、スコーンやサンドイッチが盛り付けられている。タイ式は柵が黒い木でできていて、茶菓子はタイの名産品だ。大きな笹の葉の上に、パリパリに揚げられた餃子のような菓子やさつま揚げのような菓子が並ぶ。明里はこれも何枚か写真に収めた。
「けっこう楽しんでるじゃないですか」
向かい合う男がどこかからかうように言って笑った。乗り気じゃなかったことは通じてたらしい。
明里はカメラを顔から離して真顔で言った。
「資料です。明日社長に見せたほうがいいでしょう」
タイに来たらアフタヌーンティーに行きたがる観光客は多い。だから英国式もタイ式も何度も行った。今さらスコーンに生クリームを塗って食べたところでキャッキャしないけど、仕事と割り切れば馴染むのは簡単だ。
奏は肩を何も言わずに唇の端を上げると、頼んでいたコーヒーを口に運んだ。アフタヌーンティーに来ておいて紅茶を頼まないところも気に食わない。
気に食わないといえば、この状況が全くもって気に食わない。なにが楽しくて、昔自分を虐めた男と休日の昼間にお茶なんてしなくちゃいけないんだ。
イングリッシュ・ブレックファーストなんてシャレた名前の紅茶に口をつける。ティーセットがテーブルごとに違う柄で、味よりなによりこういうところは女性ウケする。そう思って、一度ソーサーに戻したティーカップを改めて写真に撮った。
「星野さん、こういうところ誰かと来たりしないんですか」
おむすびのように笹の葉に包まれた三角形の菓子を取りながら、奏が尋ねた。視線だけを寄こせば、浅く笑った顔と目が合う。
なんか店にいるときと雰囲気がちがうような。そう思いながらも答える。
「普段はそんなに来ませんね。日本から友だち来たとき案内したり」
友だちという言葉をサラリと使ってみる。
中学のとき明里に友だちはいなかった。それでもタイから日本に帰った四年間、通った大学で友だちはたくさんできた。明里がまたタイに戻って働きたいと言ったとき、明里らしいね、と笑って賛成してくれた友人たち。
星野明里はもう弱くなんかない。たった一人で外国で生きる、そのことを心配されないようなタフネスな女になった。
そのことを、この男に教えてやりたいと思った。
そんな考えにはまったく気づかない様子で、奏は尋ねた。
「恋人とかいないんですか」
不意を付かれて黙ったままでいると、奏がゆっくりとしたしぐさで口を開き、ジャスミンと混ぜ合わせて作ったもち米を舌に乗せる。咀嚼されるその様子を、ぼんやりと眺めていた。時おりのぞく赤い舌が、ふっとあの記憶を呼び起こす。
夕暮れの図書室。細い扉の向こうで、絡み合う舌。
「星野さん?」
はっとして手元の紅茶に目を落とす。胸がざわざわと音を立てて、それに抗うようにカップを持つ手に力をこめる。スコーンを手にとって、苺のジャムを乱暴に塗りつける。
今さら思い出すなんて、どうかしてる。
「店に迎えに来てたタイ人って彼氏なんですか」
いくらなんでも踏み込み過ぎている質問におもわず睨みつけると、奏は可笑しそうに笑った顔でこちらを見ていた。その顔がすごく気に入らない。あの頃もこんな目で見られていた気がする。珍しいオモチャを見るような、顔。
「どうでもいいじゃないですか」
心からそう言ってスコーンを口に入れる。柔らかなスコーンを噛み砕くように咀嚼した。
自分だっているんだろう、値段も分からない革の鞄を送ってくれるような相手が。私にだっていたっていいはずだ。
ほんとは、彼氏なんていないけど。
大学時代、はじめて恋人と呼べる人ができた。だけどあの頃の明里にはやりたいことが多すぎて、且つ大学時代の四年間はタイに戻る土台作りという位置づけもあったから、友だちのように寝ても覚めても彼のことばかり、という付き合いじゃなかった。告白されたから好奇心で付き合ってみて、いくつかの年間イベントを一緒に過ごしたけど、心は常にふわふわといろんなところをさ迷っていた。座った傍からよそ見をして腰を浮かせるような状態で、目の前の相手に集中していたとは言えない。
そんな付き合い方では、相手に飽きられるのも時間の問題だった。
明里は俺がいなくても、全然平気そうだよね。
なにかの拍子に言われたその言葉を、すぐ否定すればよかったんだろうけど。
無言はそのまま肯定になった。結局それが決定打となって、明里は振られたのだ。
――だけどそんなことをこの男に知らせる必要はない。
頬をスコーンで膨らませながらじろりと見ると、ふっと視線を下げられる。
奏が肘を突いて手の甲で隠した口元から、堪えきれない笑い声が聞こえる。明里はウンザリした思いで椅子の背もたれに背中を預けた。なにが楽しいんだかサッパリわからない。
「支配人を呼びますか? 名刺もってきてます?」
話を仕事に戻そうとする。さっさと責任者を紹介してもらって、それで帰りたい。
「まだ残ってますよ。味もきちんと知っておかないと」
今までの笑いとは別の、保険を勧めるセールスマンのような営業スマイルで言われた。
「お客さんに、なにがおいしいとか教えなくていいんですか?」
まるで明里の習慣を知ってるかのような発言に、無言で眉をひそめる。この間の歓迎会で食事をしただけじゃ、気づくわけもないのに。
けれど実際、そう言われると義務感に駆られて席を立てなくなった。はぁっと息を吐いて体を起こす。
「ここの領収書、会社で清算してくださいよ」
せめてなにか言ってやりたくてそう口にする。奏がおかしそうに笑うのが視界の端にチラチラ映る。
こんなに笑う男だったっけ? でもやっぱりどう考えても、バカにされてるとしか思えない。苦々しく思いながら、再びティーカップを手に取った。
「それじゃ、帰りましょう」
「いやです」
テーブルに突っ伏した男はふざけたことを言った。明里は頭痛を感じて頭に手をあてる。もうキムの音は聞こえない。代わりにすぐ脇の通りを走っていく車とモーターサイの音がうるさかった。奏がだらりと伸ばした手が飲み干されたグラスに当たっていて、慌ててグラスを遠ざける。割ったりでもしたら大変だ。
すでに時間は九時を過ぎていた。なんでこんなことになったんだ、と本格的に痛み始めた頭で考える。アフタヌーンティーを終えてホテルを出たときはまだ四時前だった。これで帰れると喜ぶ明里に、既に眠りかけているこの男は言ったのだ。市街を案内してくださいと。
「嫌ですよなんで」
おもわず本音で返した明里に、しかし気分を悪くした風でもなく奏は笑顔で言った。
「俺、来たばかりでまだこのへん詳しくないんですよ。日本の調味料とかレトルト売ってるスーパーもあるんですよね? そういうの、教えてもらいたいなぁと」
冗談じゃない。仕事ならともかく、プライベートで一緒なんて論外だ。
「じゃあメモ書きますから。それ見せてタクシーに連れて行ってもらってください」
暗に一人で行けと促がすと、ふぅんと小さく奏が呟く。もう笑ってない。真顔で明里を見下ろしていた。その眼差しはどこか冷たい。
「仕事なら良いんですか」
奏がベルトのバックルにかけていたポシェットから財布を出した。
「それじゃ、俺お客さんになりますよ」
「え?」
黒い財布を開き、何枚かお札を出し始めたのを見てギョッとする。
「ちょっとなに」
「星野さんに近所をツアコンしてもらうの、いくらになります? 言ってください」
どこか投げやりな口調。その言い方は気になったけど、それよりも、
「なにしてるのよ!」
おもわず怒鳴りつければ、それまで冷えた目をしていた奏が驚いたような顔で明里を見る。明里はかまわず、虫をたたきつけるように両手でお札を抑えた。
「外で簡単にお金なんて見せないで」
二人はホテルの敷地を出て、通りに立っていた。この近辺には物乞いもあまりいないけど、無用心なことに変わりはない。これだからこの男は変な男たちに狙われるんだと納得する。
ぱちくりと瞬く目が、何に怒られてるんだかわからない小学生のように無邪気に見えて、こいつが無邪気であるはずがないことはよくわかってるのに脱力する。
「わかったわよ、いいわよどこでも案内する。だけど絶対、今みたいな真似しないでね」
いつの間にか敬語を使ってないことにも気づかず、いいわねと念を押してジロリと奏を見上げれば、奏は素直に頷いた。
ハーッとため息を吐く。再会したときと同じだ。やっぱりこの男、どこか危なっかしい。
昔はもっとしっかりした男に見えたのに。そう繕っていただけなんだろうか? それとも虐められていた明里には、彼や彼の周りが特殊な視界で見えてたんだろうか。
問うわけにもいかない質問を心に溜めたまま奏を見れば、
「やっぱり星野さんは優しいですね」
奏は笑ってそう言った。
こうして明里は十二年前からの天敵と、貴重な休みを一緒に過ごすことになった。
日本人御用達の日系スーパーを案内して、その界隈にある日本人向けの書店や漫画喫茶といった娯楽施設から、靴が壊れたらこの店、服が破けたら道端にミシンを設置して座ってるおばさんに渡せばいいなんてことまで教えてやる。
ちょっと休みませんか、腹も減ったし。そう言ったのは奏だ。四月はとにかく暑く、少し外を歩いただけで簡単に体力を奪われる。その申し出は断れなかった。
そういうわけで、ワイン樽をテーブル代わりにしたこのパブに座っている。酒が飲めないはずの奏がいつの間にアルコールを頼んだのか、明里は全然知らなかった。
「ちょっと本田さん、起きてくださいよ」
さっきから起き上がろうとしない奏に、多少不安を感じて呼びかける。注文のピークを過ぎて暇になったウェイトレスが、スマホをいじりながらチラチラと奏を見ている。
「本田さん、家どこなんですか?」
タクシーに突っこんで帰らせるかBTSまで担いで移動するか、決めかねながら質問する。気持ちとしては断然前者だが、夜のタクシーに酔っ払いを一人で乗せるのはさすがに危険だ。身ぐるみ全部剥がされかねない。
「さわんふぁー……ほてる」
突っ伏したままの本田が、くぐもった声で答える。ため息をついて、この酔っ払いと悪態をつきたいのを堪えた。
「昼間行ったホテルじゃなくて、住んでるアパートですよ。どこですか?」
そもそも、引っ越してきたばかりで自分の住所を覚えてるんだろうか。奏がベルト通しに下げている小さなポシェットを見る。この中に、メモかなにかあればいいけど。
そういえば、あの大きな鞄はやめたんだな、と気づく。明里と同じように、ベルト通しにポシェットを提げている。スーには全然おしゃれじゃないと笑われるけど、これが一番身軽だしスリに遭う心配も少ない。長年の試行錯誤の結果だった。
そう思っていると、むくりと奏が起き上がった。少しトロンとした目で、
「いや、今日はあそこ予約しました」
「え?」
予想外のことを言う。目を丸くしていると、椅子に背もたれがないことを忘れてるのか体を後ろに傾けていく。そのまま落っこちそうになるのでおもわず腕を引くと、両肘を突いて手で頭を抑えた。うな垂れてるように見えるその格好を、なにも言えず見つめる。かなり酔ってるみたいだ。
「お水もらいましょうか」
「おれ、サワン・ファー泊まってみたくて」
明里の質問が聞こえてないのか、奏が話し続ける。
「泊まったことないホテル、ひとにすすめらんない。から、予約したんです」
驚いて奏を見つめる。奏の猫の形の目が、じっと明里を見返す。
「それって、会社のお金ですか」
いろいろと驚いたけど、一番気になったことを聞いた。
ブッと声というより音がした。頭をさげた奏が、おかしそうに笑っている。
「星野さんて、おもしろいよね」
急にくだけた口調で言われて戸惑ってると、笑ったまま奏が言った。
「自腹です、もちろん。俺が勝手にしたかっただけだから」
ああそう、とホッとする。なにがおもしろいんだかわからないけど、とりあえず懸念していたことが晴れてよかった。それにおもったより意識がしっかりしてるみたいで安心する。
「それじゃ、タクシーにします?」
尋ねながら、後ろでスマホをやってるスタッフを呼ぶ。会計をお願いしてから再びテーブルを見ると、
「ちょっと、本田さん?」
奏はまたもやテーブルに突っ伏していて、その後何度呼びかけても起きることはなかった。
信じられない、この男。
額から滲む汗が目の端を通過して、パシパシとまばたきする。そのまま汗が首をつたってTシャツの内側に入っていくのを感じながら、右手に力をこめた。汗で滑りやすい。いっそこのまま落としたら、いいかげん目を覚ますだろうか。
長いホテルの廊下を、意識を失った奏を担いで歩いている。ルームキーを貰うときにスタッフが心配そうに「ご一緒しますか?」と言ってきたけれど、今後もし商談相手になるなら顔を覚えられるとまずいと思って断った。
あ、でも予約名でバレるんじゃないの?
今さら気づいてハーッと息を吐く。こんな醜態を曝して、その後取引がスムーズに行くだろうか。せめて尋ねてきたスタッフが支配人に言わないことを祈るばかりだ。
ほんと、全部こいつのせいだ。
左肩に乗せている男を睨めば、意外なほど近い距離に眠っている顔があった。
「ちょっと」
自分より長いであろう睫毛をおもしろくない気分で見ながら言う。
「いいかげん起きなさいよ」
やっぱり反応はない。諦めて、明里は奏を引きずっていった。
長い廊下を歩いて、ようやくカードキーと同じ部屋番号の扉を見つける。キーを差し込んで、部屋の奥のベッドに奏を放る。
「あー、つかれた」
首をグリグリ回しながら奏を見下ろす。乗り切らなかった片足がベッドからはみ出たまま、スヤスヤと寝こけてる。閉められてないカーテンが、夜のネオンを部屋に切り取って奏の顔を白く照らしていた。
「……ほんと、なんなのよあんた」
眠ってる奏を見ながら、ぽつりと呟く。
泊まってみないとわからないって、自腹切ってまで泊まろうとしたこと。
「少しだけ、認めてやってもいいって思ったのに」
全部台無しだ。
だいたい、安くないホテルにお金かけて泊まるくらいなら、ホテル内のスパとかレストランとか、そういうのを見ておくべきなのに。なんでいつでも行けるスーパーに行っちゃうかな。
はぁ、とため息を吐いて室内を見渡す。ダブルベッドの隣に、足を伸ばして座れるソファが二脚。ソファの間にある丸テーブルにはウェルカムフルーツがプルメリアの花びらと一緒にラップにくるまれたまま置かれている。ポケットからデジカメを取り出すと、それらを写真に収めた。
そのままきびすを返すと、洗面台のドアを開けた。ドアの脇にある照明のスイッチを点けて、視線をめぐらす。バスタブとシャワールームは別れていた。アメニティはまとめて白い貝殻の中に包まれている。アメニティのパッケージも貝殻で、リゾートをテーマにしているデザインなのがわかる。
バスタブや水周りも念のため写真に収めたところで、はたと気がつく。
本来なら全部、寝こけてるあいつの仕事だ。なんかこれって。
「敵に塩を送ってるみたい」
「なにに塩って?」
後ろから声がした。振り返ると、ゆったりと腕を組んだ奏が楽しげに口元を緩めてこちらを見ていた。
「起きたんですか」
なんだか家捜ししているところを見つかったようなバツの悪さを感じて、慌てて言う。奏はにこっと笑った。
「うん、寝てないしねそもそも」
さばけた口調に驚いて、言葉の内容は遅れて届いた。届いたけれど、理解できなかった。眉をひそめて、やっぱりまだ酔っているのかと訝る。
「あの、お水飲みますか?」
アメニティと一緒に洗面台の棚に置かれているミネラルウォーターを取ろうすると、肘の上あたりを後ろから掴まれた。
え?
振り返る。いつの間にか近づいた距離にまず驚いた。びくりと肩を引くと、奏が片方の口の端を上げて笑った。
「いらないよ。必要ない」
そう、ですか。伸ばしかけていた手を引いて、腕を振り払うしぐさを見せる。けど奏は気づいていないのか、相変わらず明里の腕を掴んでいる。むき出しの腕を直接掴まれて、送り込まれる熱が熱くて振り払いたくなる。
「あの、手」
離してください、というニュアンスをこめて相手を見る。奏はじっと明りを見たまま口を開いた。
「気づかないの」
たしかめるような口調。なんのことかわからずに眉をひそめる。いつの間にか背中がガラス鉢の洗面台にピッタリ付いていた。
「ちょっと、離してくださいよ」
酔っ払いだからって、いいかげんにしてほしい。おもいきり腕を振ると、ようやく手が離れた。その反動なのか、奏はうなだれるように頭を垂らした。
まさか、吐く?
おもわず固まっていると、
クッ。
息の鳴る音がした。
クックック。
奏が腹のあたりを両手で抑え、下を向いたまま肩を震わせる。
最初、泣いてるのかとおもった。でもちがう。
笑ってるんだ。
「……本田さん?」
呼びかけると、笑い声は止んだ。奏が顔を上げる。ゆらり、前髪の間からのぞく猫の形。
――――あ。
肌の内側が、ざわりと波立つ。
昼までの奏とちがう、でもひどく見覚えのある顔。
「敵、ね。そうだよな。おまえからしたら、敵だよな」
目を見開く。くだけた、を通り越した乱暴な口調。おまえ、という呼び方。
そしてこの、冷めたような眼差し。
どれも強烈な既視感があって、熱いのに冷たい熱がうねるように体内で膨れ上がる。
本能が警鐘を鳴らす。なにか考えるより先に動こうとすると、
ダン!
大きな音がして、アメニティの箱が足元にバラバラと転がった。
奏の両手が、行く手を遮るように明里の両脇の壁を突いた。呆然と奏を見る。前髪の間からちらちらと覗く目が強く光っていた。
「久しぶりだな、コニシキ」