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ギンユーカッパー ヤークユーカットーン――知らない振り

 明里は遮光カーテンのすき間からこぼれる光を見ながら、ぼうっと寝そべっていた。もう起きないといけない時間だ。カーヴィンに電話しないと。

 そう思うのに、動くことができない。淀んだ水に沈みこんだように体が重い。のろのろと寝返りをうつと、汗をかいたパジャマが背中にへばりついた。

 手だけを伸ばしてベッドサイドに置いためがねを探る。普段はコンタクトだけど、家にいるときはめがねにしていた。中学生のときのようなぶ厚いめがねではなくて、黒縁のオシャレ系デカめがね。それでも自分に似合ってるかイマイチわからず、人前ではかけないようにしている。

 2014 04 01

 めがねの隣に置いていたデジタル時計が、年数と日付を表示している。にせんじゅうよねん、と心の中で繰り返して、肩でゆっくりと息を吐く。

 きちんと時間が過ぎていること。それがいつも明里を安心させていた。

 それなのに。

 ベッドから起き上がって遮光カーテンを開けると、いつもの光景が広がった。

モーターサイとトラックのエンジン音。タワーマンションが日差しを受けて目に痛いくらい白い。

 明里の大好きな景色はきちんと用意されているのに、心は晴れない。

 原因はわかってる。

 ベッドサイドに置きっぱなしのスマホから、LINEの着信を告げる音がした。近づいて、黒い画面に浮かび上がっていた文字を見る。


 星野奏

 おはようございます!今日から僕も出社で……


 うんざりした気分でスマホをひっくり返した。なんでLINEなんて教えちゃったんだろう。せめてメールアドレスにしておけばよかった。

 昨日も一通来た奏からのLINEは、きっと既読表示が相手に出ている。だけど明里は返事をしてない。できるはずがない。

 ベッドに腰掛けて、はぁーっと再び大きな息を吐く。

「天の助けだと思ったのになぁ」

 奏とキスしてしまったあの日を最後に、学校に行くことはなかった。必要な手続きは全て母親がやってくれた。

 あのとき、両親は最後まで明里になにも聞かなかった。明里がそれを望んでいたから。

 大人になった今ならわかる。どれだけ心配だっただろう。どれだけ聞きたかったろう。そうしないことが、どれだけ大変だっただろう。

 当時はそこまで思う余裕もなかったし、環境が変わっても初めのうちは人と話すことが恐かった。だけど。

 窓の外の景色を振り返る。喧騒と強い日差しに包まれた国。いいかげんで適当で、あたたかい国。


 タイをあらわすとき、よくマイペンライという言葉がつかわれる。大丈夫、気にしないよ、そんな意味だ。熱心な仏教国だからか、人に対しても自分に対しても寛容で、全体に流れる空気がいつもゆったりしている。もちろんそんな人ばかりじゃないけど、けっこうな確率でそんなかんじの人に出会う。出会えてきた。

 人は人、自分は自分、と考えて、変に干渉しない。見放してるわけじゃなくて、頼めばちゃんとやってくれる。親切さえも、押し付けない。

 この国にはじめて訪れた十二年前。まだBTSも無いし、タクシーもメーターが付いてなくて全部交渉制。今と比べて不便なこともいっぱいあったけど、タイ人も日本人もみんな優しかった。明里が無口なことも、太っていることも、誰も気にしなかった。

 そんな人たちに囲まれて、一ヶ月もする頃にはすっかりこの国が好きになった。そして暑さのお陰か、アパートについていたプールで毎日遊んでいたお陰か、次第に体の肉も取れていった。一年後には標準体重になって、以来、当時より痩せはしても太ることはない。

 すべてはマイペンライだ。そんなふうに考えると、太った体とは対照的に痩せこけた心が、すこしずつ太く育っていくのを感じた。

 だから高校(インター)を卒業する歳に帰国が決まったとき、何年かかっても必ず帰ってこようと決めたのだ。

 この国で生きていく。ここが私の居場所なんだと、そう決めた。

 

 再びスマホが鳴って、ひっくり返していたそれをゆっくりと手に取る。無意識に息を止めていた。

 再びLINEの文字が表示されている。差出名は、カーヴィン。

「行かなくていい?」

 LINEの文章の上にでかでかと表示される時刻が目に刺さってくる。おもわず叫んだ。

「遅刻!」




 在タイ日本人が多く住み、高級住宅地やオシャレな飲食店も多いスクンヴィット通り。通り沿いの商業ビルの一階に、ひときわフロアを多く取った旅行会社がある。

 名前をファー・ツーリストといい、ここが明里の職場だ。日本に親会社がある大手旅行代理店が、現地法人として建てた旅行会社になる。

 モーターサイから転がるように飛び降りた明里は、走ったままの勢いで社員用の扉をバンと開けた。

「おはようございます!」

 明里の声に、十数人のスタッフが一斉に振り返る。サービスカウンターと仕切ったパーテーションの手前で、社長の斎野(さいの)が社員を集めてミーティングをしているところだった。

「星野」

 斎野は無表情に明里をじっと見つめた。四十過ぎの斎野は、タイに住む日本人男性の例に漏れずゴルフ焼けの黒い肌をしている。白髪混じりの髪を短くカットして、丸く垂れた目の下のシワはタヌキのような愛嬌がある。

「スコールの季節にはまだ早いはずだぞ」

 斎野の言葉に、周りのタイ人スタッフたちが笑う。ストレートパーマをかけていても、明里の剛毛くせっ毛は雨季になるとうねりがひどい。急いでいて櫛を通す暇もなかったボサボサの髪をそんな風に揶揄されたのだとわかって、明里は照れたように笑い返した。

「そんなにひどい?」

 ミーティングの輪に入って、スーに尋ねる。

「嵐の中からきたのかと思った」

 スーがおかしそうに笑う。スーが笑うと白い歯の歯列矯正がのぞく。タイ人の女の子は歯の矯正をしてる人が多い。美しい歯並びが美人の条件なのだ。あと、歯列矯正のブリッジがかわいいらしい。まったくカルチャーってふしぎだ、と思う。


「はい、そいじゃ、みんな集まったところで報告するよ。本日付で、日本から駐在員が赴任してきたから、みんな仲良くするように」

 転校生を紹介する先生のような口調で斎野が言った。明里は目を丸くしておもわず口を開いた。

「社長もしかして本帰国になったんですか」

 親会社からの出向は斎野だけで、明里も含めたほかの社員は全て現地採用だ。メンバーが増えるということは、斎野の駐在期間が終わったということだろうか。そんな話は全然聞いておらず、寝耳に水のような気持ちで上司を見つめる。

「ちがうちがう。ほんとはもっと早く言う予定だったんだけどね、デモの所為でバタバタしてたから」

 デモ、と聞いて眉がピクリと反応する。


 バンコクで去年から続いている、首相交代を巡るデモ。観光客も多い交差点を封鎖して行われていた大規模デモは、タイの観光業に大きな打撃を食らわせた。

 日本からも渡航注意喚起が発表されて、親会社からの問い合わせがひっきりなしだった。

 デモ隊たちがデモキャンプ地を公園一箇所に移したのはつい最近のことで、ようやく渡航注意喚起も解消され、問い合わせの件数も減ってきたところだ。

 たしかにあの最中では、普段温厚な斎野も気忙しくて、新人が入ることなんて話題にする時間もなかっただろうと思い返す。


 明里が当時を思い返していると、斎野はカウンターの手前に設置されたパーテーションを振り返った。

「はい、そいじゃ、おいで」

 新人スタッフはすでに裏で待機していたらしい。カウンターから物音がする。その音にそわそわとスーと顔を見合わせる。

 どんなひとなんだろう。親会社からの赴任っていうことは、いわゆるエリートだ。

 いい人だといいな。


 パーテーションの向こうから姿を現したその人を見て、明里の表情が変わっていく。

「テーナチャイマイ?(かっこよくない?)」

 スーが浮かれたように明里にひそっと囁く。そんな言葉も耳に入らなかった。

 

 うそでしょ。


「こんにちは」

 穏やかに笑って、本田奏がこちらを見ていた。


「四月一日付けで、ワールド・スカイ・ツーリストよりこちらに着任した本田です。よろしくお願いします」

 奏はそこまで言うと頭を下げた。週末とはちがい、細いストライプのはいったグレーのスーツを着ている。身長はあっても太ってはない自身の体にきちんと合うサイズのジャケット。サラリーマン姿の奏が、あの中学生と同じ人物だと到底思えなくて、呆然とその姿を見る。周りは口々によろしく、と言って頭を下げながら手を合わせていた。


「明里ちゃん」

 いやな予感がした。この社長は頼みごとをするときだけ社員を名前で呼ぶ。既に腰の引けている明里に笑顔を向けると、

「同い歳らしいじゃない。本田君の面倒、たのむよ」

 予感的中。明里は眉をひそめてそろそろと視線を動かした。

 奏は爽やかな笑顔を向けて、明里を見ていた。

「これからよろしくお願いします」

 最悪、と心の中で呟く。

 LINEが来るだけなら無視していればいつか連絡も途切れただろう。

 それが同じ職場なんて。

 はじめて、タイに帰ってきたことを後悔した。 




 あちこちに設置されている大型扇風機が唸り声を上げて空気をかき回す。クーラーのない屋外なのに、肌をさらりと滑る風が心地いい。四月の夜風は気持ちよく、昼間の熱でほてる肌をなだめてくれた。

 ぱたぱた、と木の芽のような小さな葉がいくつも木製のテーブルに落ちていく。真上に生えている名前も分からない巨木は、この店のシンボルだ。葉にはタイ北部・チェンマイの有名な伝統工芸の傘があちこちに吊るされている。木の根元に設えた舞台では生ライブもやっている、観光客向けのタイ料理屋だった。


「はい、そいじゃ、新しいメンバーも加わったことで、これからよろしくねということで」

 明里の正面に立つ斎野が、グラスを片手に集まった社員たちを見回す。

「チョンゲーオ!」

 斎野のかけ声で、皆が持っているグラスがぶつかり合う。グラスの縁ギリギリまで注がれたビールは、その衝撃で泡をとろりと縁にすべらせていった。

「チョンゲーオってなんですか?」

 奏の声が、ななめの方から聞こえてくる。明里はすべてを流し込むようにビールを飲んだ。乾杯って意味だよ、とインド系タイ人のスタッフが教えている。ファー・ツーリストで働くタイ人は全員英語ができ、スーのように日本語が話せる社員も数名いた。

「奏さんこれおいしいですよ」

 そのスーが甲斐甲斐しく世話を焼く声が聞こえた。日本人男性はタイ人女性にモテる。優しいし、一般のタイ人に比べてお金持ちだから。親会社の駐在員なんて、玉の輿相手としてぴったりだ。

 まぁ私には関係ないけどね。

 ゴッゴッゴッ。喉の奥でビールの流れていく音が鳴る。熱い体を冷やしてくれるビールの冷たさが嬉しかった。

「あいかわらずいい飲みっぷりだねぇ」

 正面に座る斎野が呆れとも感心ともつかない声で言った。

「それだけが取り柄なんで」

 言いながら油でテラテラに光っている(クー)(シン)(サイ)に箸を伸ばす。辛い。うまい。やっぱりタイ料理はツマミに合う。

 ドッと弾ける笑い声。奏たちじゃない、通路を挟んだ隣に座る欧米人のグループだ。年度始まりの四月に日本人の観光客は少ない。

 なにを頼んでいるのか気になって、おもわずテーブルを見てしまう。タイは色んな国の人たちが遊びに来る場所だけど、人種によって食べ物の趣味もちがう。たまにこうやってチェックしておくと、いざお勧めの食べ物なり店なりを聞かれたときすぐ答えられる。外食するとき周りをキョロキョロしてしまうのはクセになっていた。

「星野の取り柄は、その仕事熱心なところだよねぇ」

 のんびりした口調で、斎野が言った。明里の視線の先をちゃんとわかっていて、そんなことを言う。面映いような照れ臭いような気もちで肩をすくめるように頭を下げて、残り少なくなっているビールを飲みこんだ。

「だからね、その熱心さを生かしてね、新人の面倒もお願いね」

 斎野が垂れた目をさらに垂らして笑う。話はそこに戻るのかとゲンナリして、口に含んだビールが苦味を増した気がした。

「私よりスーのほうがいいんじゃないですか?」

「なんで」

 本人が張り切ってるからとは言えない。いや、ほら、と口の中で呟いて、

「タイ語の勉強にもなるし」

 言いながら、テーブルの端に置いた瓶ビールを取ろうとすると、すっと奪われた。空のグラスにビールが並々注がれていく。

「お疲れさまです」

 奏が明里の顔をのぞきこんで笑った。


 コトン。瓶ビールを置いた奏が、ここいいですか、と斎野に言いながら明里の右隣に座った。斎野は手で座るよう促がす。チラッとスーを振り返る。別の同僚につかまったスーが、不満げな顔でこちらを見ていた。その様子にため息を吐く。

 斎野が奏に、どう初日は、と尋ね、いやまだまだですね、と奏が答える。そんなやり取りが右耳を通過していく。会話に入る気もおきず、黙々とグラスを空けていくと、

「お酒強いんですね」

 ふいに奏が明里を見て言った。急に話しかけられて動揺した明里の口からは、「あぁ」と「さぁ」の間のような変な声が出た。

 視線を避けるように奏のグラスを見ると、乾杯のときに口をつけたきりなのか全然減ってなかった。水滴がグラスにプツプツと垂れている。

 奏のグラスを持つひとさし指に水滴がたまっていくのを見ながら、

「あの」

 おもわず声が出て、奏が問うように見返してきたところで後悔した。したけれど、今さら引き返せない。

「飲み物、他のでも良いと思いますよ」

 タイ風焼きそばのパッタイが盛られた皿と小皿の下敷きになっているメニューを引っ張り出して渡す。奏が言葉の意味を探ろうとするように明里を見ている。明里は再び目を逸らしてテーブルを見た。

「ビール苦手なら、もし」

 変な語順になってしまった。でもいい。伝わるだろう。

 グイッと残り少ないビールを煽る。ぬるくなってもビールはビール。好きじゃない相手に飲ませるなんてもったいないだけだ、と言い訳のように思った。

「優しいですね、星野さん」

 やけに穏やかな声が隣から聞こえて、おもわず視線を返す。

「この間も助けてくれたし。まさか同じ職場なんて思ってもなかったですけど、ほんとに再会できてよかったです。ありがとうございます」

 奏は微笑んで明里を見ていた。明里があの星野明里だなんてまるで気づいてないようだ。たしかに、自分は変わったと思う。日に焼けた細い体は、あの頃の対極にいる。奏だけじゃなく、ほかの同級生だって明里に気づかないだろう。

 というより、もう奏は十二年前のことなんて覚えてないんだろうか。ひとりのクラスメイトに、なにをしたかなんて。


 してやろうか。


 猫の目が、こちらの全てを見透かすように歪んで笑う。押し倒してしまった奏の華奢な体。重なった唇。クラスメイトが笑う声。

 今思い返しても、胃が冷たく重くなるような、ひどい思い出。

 息苦さを覚えて、知らず丸まっていた背をグッと伸ばした。


「星野さんて、俺と同い歳なんですよね。四年目ですか」

 奏が質問してくる。相手を見返すことができずに、そうです、と頷きながら食い散らかされたパッタイを皿によそう。汚れたテーブルを拭おうと紙ナプキンの箱に手を伸ばすと、奏の手が先に伸びて一枚渡してくれた。うわぁと思いながら頭を下げる。

「現地採用って聞きましたけど、ずっとこちらなんですか」

 再びそうです、と答える。答えながら、心がざらりと固くなった。

 現地法人採用の明里と、親会社から赴任の奏。同じ歳でも待遇面でかなりの開きがあるだろう。明里はある日突然日本に帰らされる心配はない。その代わりに、駐在員のようにお手伝い(アヤ)さん付きの生活はできない。

 今までそれを不満におもったことはない。それなのに、相手が奏となると別だった。

 いじめっ子の奏と、いじめられっ子の明里。子どもの頃からの階級差が大人になってからも変わらないんだと言われているような、そんな気になってしまう。


 明里の重い気分とは裏腹に、奏はへぇ~と感心したような声を上げた。

「大学卒業してこっち来たんですよね? 海外で働こうって思うなんてすごいなぁ」

 奏を横目で見ると、屈託なく笑っていた。本気の笑顔なのかそうじゃないのかわからない。先生用に出していたやたら高い声を思い出そうとして、けれど声まで記憶は再生されなかった。

「星野はさ、その前にずっとこっち住んでたもんな」

 口数の少ない明里をどう思ったのか、付け足すように斎野が言う。その言葉に、明里のビールに伸びた手がピタリと止まった。

「え、そうなんですか」

 驚いたように奏が尋ねる。そうそう、と答える斎野を制するように見るけど、本人はまるで気がついてない。

「学生のとき、数年だけ」

 なにか言われるより先に、明里は色々と濁して答えた。奏は特に変わった様子もなく、へぇと感心したように言葉を受け入れた。

 その話はそこで終わり、後は奏が生活のことを斎野に尋ねていた。どれが洗剤でどれが漂白剤かわからないとか、水道水で米は炊かないんですかとか、そういう質問に斎野が答えていく。

「ほかにもわかんないことあったらね、いつでもこの先輩に聞けばいいから」

 斎野は笑って明里を示す。やめて、と眉を寄せる明里に気づかず、奏はくるりと体ごと振り向いて笑った。

「それじゃよろしくお願いします、先輩」

 どこかおどけたように言う奏に、うっと息が詰まる。無邪気に笑う奏のななめ後ろで、なにがおもしろいのか斎野はニヤニヤと笑う。

 ああもう。

「……よろしく」

 悪い冗談だとしか思えない。思えないけど、これが現実なのだ。

 息を吐いた明里を笑うように、頭上の木が木の芽をぱたりと頬に落ちた。




 さすがに飲みすぎたみたいだ、と重い体を引きずりながら寝室まで行く。玄関を開けたすぐ右手にはカウンター付キッチンとシャワールーム。玄関の正面奥には大きな黒いソファがあるリビング、寝室はその右手にあった。

 体をベッドに投げ出すと、鈍い音とともにベッドが小さく揺れた。


 海外で働こうって思うなんてすごいなぁ


 さっきの奏の言葉が頭の中をぐらりと回る。中学のとき、汚い物を見るみたいな目で明里を見ていた奏。その奏に、すごい、なんて言われる日がくるなんて。皮肉だし滑稽だ。

 ごろん、と体を仰向けにする。開け放した窓の向こうからBTSの走る滑走音と、車のクラクションが重なって聞こえた。

「十二年も、たってるんだもんなぁ」

 聞かれれば答える。最低限の会話のキャッチボールはするし、最後は割と普通に話していた。

 店でお客さんが座るサービスカウンター。あのカウンターを頭の中で自分と相手の間に置くと、どんな相手とでも笑顔でしゃべることができる。仕事をするうちに培った特技だ。

 できれば一生、会いたくなかった。

 だけど会ったら会ったで、それなりに応対できる。

 おとなになったのだ。 

 そのことをどう受け止めていいのか、考えがまとまらないうちに睡魔がやってきた。明里は全身の力を抜いて、まどろみに身をゆだねた。



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