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クルーンタイナン――内側で燻るもの

 長い時間が経っていた。

 話し疲れたように奏がダイニングチェアーに身体を預ける。明里はなにも言えず、掌の本を凝視していた。

 息を吐くと、震えてまっすぐに吐き出せない吐息がぎくしゃくと固まって空気に溶ける、その軌跡が目に見えるようだった。


 いったいどうしたらいいんだろう。

 タイムカプセルで埋めた誰か宛の手紙を、本人の与り知らぬところで見てしまったような、地に足のつかない心もとなさに襲われている。

 よこされたものが大きすぎて、自分の両手には余る。明里にとってもたしかに痛いときの話をされたはずなのに、なぜこんなにも。

 胸に拳をあてると、中で脈打つ心臓の音を感じて、脅えるように手を離した。

 ドキドキしている。さっきからずっと。

 長い話を終えた後の休息としての沈黙が、次第に重く張りつめたものになっていく。最初に口にした話題で全てが決まってしまうような、緊張に満ちた空気。


「スーパーで会ったとき」

 奏の声が室内に響く。声に引力があるかのように、明里は振り返った。

 奏が明里をまっすぐに見ている。それだけのことで、容易に息は止まった。

「本当はすぐにわかった。ずっとおまえのこと考えてたんだ。痩せてたってめがねじゃなくたって、俺にはわかるよ」

 そう言って、少し眉を寄せて困ったように、諦めたように笑った。

 再会したときのことを思い出す。


 あの、良ければ連絡先を聞いても良いですか


「……なんで」

 かすれた声が、根本的な疑問を紡ぐ。

「なんで、私なの」

 いじめていた、その罪の意識が捩れて不可思議な気もちに昇華されてしまったんだろうか。気がついた途端相手がいなくなっていた淡い思いを、どうしてこの人はこんなに長い間持っていられたんだろう。

 奏はその疑問に、甘く苦く、笑った。

「そんなのわかんねぇよ」

 立ち上がった奏が、ゆっくりとこちらに歩み寄る。その姿を前にしても、もう警戒は起きない。心は黙っていて、ただ奏の動作を見つめている。

 奏は明里の前まで来ると、目の高さを合わせようとするようにしゃがみこむ。奏のシャツに寄る皺。照明がもたらす影。髪の毛の先。そういう奏を象る細部が異様なほどはっきりと目に止まる。

 心臓の音が鳴り止まない。


「ずっと想像してた。おまえはどんな大人になってるんだろうって。何パターンも考えたんだ。だけど実際の明里は、そのどれともちがってた」

 なにを思い出したのか、奏は苦笑と笑顔の間のような顔で目を細めた。

「まさかさ、スリから助けられるなんて思ってもなかった。でも話してると、やっぱ変わってなくて、俺が知ってた星野明里もちゃんといた」

 そこで言葉を区切った奏の、片手が伸びてくるのをなんとなく目で追い――その掌が頬を包んだときも、身じろぎひとつできなかった。

 下道を走るモーターサイや車の音が微かに聞こえてくる。


 明里の頬に手をあてた奏の目が、憂いを帯びて鈍く光る。なにかの魔法にかかってしまったように、目を逸らすことができない。

「俺はおまえを見てると胸が痛いよ。俺がどんなに最低だったか、その証拠をずっと突きつけられてるみたいで」

 少し歪んだ顔でそう言う。傷ついた猫みたいだ。

 それでも、と吐いた息で奏が囁く。伝える前に自分の内側で温めているような、そんなわずかな間の後に言葉を落とした。


「それでもずっと見ていたいんだ。明里が好きなんだ」

「――――」

 ああもう。どうしたらいいかわからない。

 じわり、と目の縁が痛む。なにもわからないのに、泣きそうになっているのはどうしてだろう。

 奏が床に膝をついたまま身を乗り出す。近づいてくる間もずっと目が合っていた。猫の形の目に、自分が映っているのが見えてくる。近づく温度を拒むことはできなくて、濡れた睫毛が瞼に触れたから、自分が目を閉じたことが分かった。

 そっと唇が重なる。

 押し当てられた唇は、どこまでなら拒絶されないかそっと試しているみたいだった。膝の上に置かれた本がパサリと床に落ちる。

 ゆっくりと熱い舌が唇を割って入ってくる。昨日のように奏が背中と頭の後ろを支える。目を閉じたまま奏の肘のあたりに触れたら、自分とはちがう皮膚の感触を感じた。なんとなく怖気づいて、そのまま拳を握りこむ。

 キスに答えながら、私は、と思う。

 愛なんてまだ、本当はわかってないのかもしれない。 

 こんなふうに体を使って相手を知ろうとして、それなのにこの気もちがどこから来ているのかわからない。衝動のスタート地点に、なにがあった? 読めない自分の心に翻弄されて、それでも明里の髪の中を撫でる指先や、時おり唇の端が歯に当たる感触を嫌だとおもわなかった。

 図書室で垣間見た奏とユリのキス。今こそ自分があの時のユリと全く同じことになっている。体も、心も。

 そうとわかっても、嫌悪は沸かなかった。じわり、じわりと体が熱を帯びるのがわかる。


 やがてどちらからともなく、呼吸を整えるために体を離した。動物同士が間合いを取ろうとしているような、思考の余地を挟まない密度の濃い空気が漂う。

「どうしてここに来たんだ?」

 髪を撫でながら、掠れた声で奏が尋ねる。湿った吐息が唇にかかる距離。靄がかかったような頭で聞かれたことを反芻する。

 私がここに来た理由。

 

 本田さん、日本に帰っちゃうかもしれないんだって

 

 スーの言葉がよみがえる。無意識に尋ねていた。

「……本当なの? 日本に帰るって」

 奏の手先から髪の毛がするりと落ちる。中途半端に開いた指先を残したまま、驚いたように奏が目を見開く。

「誰から聞いたんだ?」

「――――」

 身体の内側を炙っていた熱い熱が急速に冷えていく。

 本当、なんだ。

 ぐらり、と地面が揺れた気がした。そんなことない。なにも起きてない。問題ない。

 ただ、自分がものすごく馬鹿なことを知っただけ。


 否定されない言葉に傷ついた。傷ついたことだけ、わかってしまった。

 指先が冷たく震えて、握りつぶすように拳を固めた。

「……帰る」

 俯いてそう呟くと、まだ熱のこもった体を起こして立ち上がる。

「明里?」

 奏が訝しげな顔でこちらを覗きこむ。その近さと、さらりと名前で呼ばれるようになったことが明里の心臓を直撃する。轟くその音がうるさくて、なにも考えられない。

 衝動のままに、明里は部屋を飛び出した。


 笑えない。

 あいつと出会って十二年。今までされたどんなことより、いなくなる事実に一番傷ついたなんて。

 そんなの全然、笑えなかった。


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