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グワッグワイサイソン――見たくもない、会いたくもない

「タイ?」


 晴天の霹靂。そんな言葉が頭の中に浮かんだ。

 母親は、そう、タイ、と天気の話でもするように気楽に言ってお茶を啜っている。

 明里(あかり)は母親を呆然と見ていた。熱いお茶の温度も感じない。

「お父さんの転勤が決まったのよ」

 なにも考えられず、母親を見つめる。泣いたばかりの目は、まばたきをするとパサパサと音を立てた。

「行くの? みんなで」

 そう、とやっぱり気楽に母は頷いた。

「私も?」

 声がかすれる。咳払いをしている間に、あたりまえでしょ、と返事が返ってきた。

「急な転校になっちゃうから、なかなか言えなかったんだけど」

 そう言って、明里のふっくらとした頬を親指で撫でた。涙の跡が残る、しめった頬。

「大丈夫、これからずっと楽しいから」

 カップにポトポトと涙が落ちていく。ほっとして、心の底からほっとして、涙が止まらなかった。

 それが十二年前の話。




 あっつい。

 明里は口の中で呟いて寝返りを打った。からだの下のシーツが熱くなって寝心地が悪い。

 薄く目を開けると、遮光カーテンの隙間から白い光が漏れていた。

 ふふっと笑って、大きく伸びをした。眠気はスーッと消えていく。

 だって朝だ。一日がはじまった。

 もったいなくて、眠ってなんかいられない。

 ジャマなシーツを蹴飛ばして、勢いよく起き上がる。焼けた腕をおもいきり伸ばせば、細いそれは日の光をおもいきり受けた若木のようにしなる。

 シャッ。カーテンを引いて、その窓の向こうに広がる街を眺めた。

「おっはよー」

 目の前の景色に向かって微笑む。


 いくつものタワーマンションが、子どもが無計画に作っては途中でやめたおもちゃのブロックのようにあちこちに建てられている。都心のどこかと似た景色だけど、木々の色がちがう。建物同士の隙間を埋めるように、そこかしこに生えた木たちはどれもブロッコリーのようにもっさりと集まって、濃い緑色をしている。


「あっついなぁ」

 ふたたび呟いて、汗ばんだ首筋に貼りつく髪の毛を持ち上げた。

 暑いはずだ。あさってからもう四月なのだから。

 タイは四月がいちばん暑い。

 窓を開けると、途端に下道を走る車のクラクションやバイクのエンジン音が重なって聞こえた。バンコクの朝晩は毎日がお盆ラッシュだ。スカイトレインのBTSが開通してもうずいぶん経つけど、貧富の差が激しいタイでは中流階級以上のひとでないとBTSは使えない。お金がかかるから。まだまだ車移動がメインの交通機関だった。

 目の前の景色を眺めていると、体がウズウズと騒いで、踊るように明里の内側をノックする。途端に外に飛び出していきたくてたまらなくなる。

 あぁバンコクだ。

 もどってきた。私はこの国に帰ってきた!


「ペンガイ(やぁ)」

 コンドミニアムを出ると、ガードレールの前にバイクを立てかけた青年が片手を上げた。

「ペンガイ、カーヴィン」

「ワンニーパイティナイ?(今日はどこまで?)」

「ビッグB。洗剤が切れちゃって」

 それは大事件だ。カーヴィンはそう言って馬のように大きな目を丸くして見せる。明里は笑ってバイクの後ろに跨った。

 タクシーのようにお金を払って乗せてもらうバイクのことをモーターサイ、通称バイタクと呼ぶ。バイタクのドライバーは今のカーヴィンのようにオレンジ色のベストを着ている。

 狭い車の間を何度もカーブしながらすり抜けていくバイタクだけど、そのぶん事故も多い。カーヴィンはあまり無茶な運転はしないし、なにより待ち合わせ時間を必ず守る。ホワイトカラーでもない限り、遅刻は当たり前のタイ人のなかでとても貴重な存在なので、乾期の今はどこに行くにも呼んで専用のドライバーになってもらっていた。


「でも、明里はめずらしいよね」

 モーターサイが走り出して、足元のエンジンが熱くなる。そのまま足をあてていると火傷してしまうから、サンダルを履いた足をエンジンマフラーより少し上にひっかけた。

「なにが?」

「日本人の女性はモーターサイあまり好きじゃないよ。タクシーかシーローばかりなのに、バイタクばかり使うなんて」

 目の前の背中がかすかに揺れて、カーヴィンが笑っているのがわかった。シーローとは軽トラの荷台に座席を敷いて座れるようにした定額タクシーのことだ。明里も笑いながら首を振る。

「日本人女性って、ほとんど駐在員の奥さんたちでしょ? 家族ビザで来てる人たちと一緒にされちゃ困るわ」

 カーヴィンがまた笑う。タイ人は笑い上戸だ。ずっと笑っていて、見ていて気もちいい。

 カーヴィンのモーターサイが片側二車線の通りをすいすい移動していく。右斜線と左斜線の間を走り、左斜線を抜けて歩道に乗り上げ、角地で再び車道に戻って窓のないバスを追い越す。はじめはこの動きで酔いそうになったけど、今はもう慣れた。渋滞知らずのモーターサイは、一度使うとやみつきになる。


「何年だっけ?」

「なにがー?」

 モーターサイが、軽トラックと並んだ。軽トラックの荷台に無造作に詰められたたくさんの籠。その籠に入れられた鶏の集団が、お互いを羽で叩き合うように暴れまわっているのを横目で見る。

「明里が、こっちに来て」

「えーっと」

 頭の中で計算する。

「七年? あ、この四月で八年かな」

 カーブする車の排気ガスが熱風を伴って顔にかかる。コンタクトをした目が乾いて、瞬きをくり返した。

 赤信号になって、カーヴィンが振り返った。ヘルメットから覗く濡れたように光る目が明里を映す。

「そんなに長いっけ? だって君まだ」

「間があるの。十四歳のとき父親の仕事でこっち来て」

 すっかりこちらを向いてしまったカーヴィンに代わって、信号を見ながら明里は答えた。

「十八のときに日本に戻って、それから私だけ帰ってきたのよ」

「タムマイ?(なぜ?)」 

 カーヴィンの熱い背中に体に身を寄せて、にんまりと笑う。

「ここが私の居場所だから」

 カーヴィンが楽しそうに笑って親指を立てた。信号が青になり、モーターサイは再びくねくね曲がりながら車道を走っていった。


 ビッグBは地元の人向けのスーパーだ。日本にあるチェーンの百円ショップも併設されていて、使い勝手が良い。ここで週末いろいろ買い込んで翌週まで過ごすのが、明里のお決まりのパターンだった。

「コップンカー、ジャトーパイナ(ありがと、また電話する)」

 明里がモーターサイから降りると、カーヴィンは手を上げて市街へ戻っていった。明里はスーパーの入り口で止まり、スマホに書いた買い物メモを取り出す。後ろから、中華系タイ人夫婦が喋りながら明里を追い越して店内へと入っていった。買い忘れが無いか、誰かと確認できないのが一人暮らしのちょっと不便なところだ。


「えーっと、洗剤と歯磨き粉と」

 あぁそれと、会社のおやつ当番今月私じゃなかったっけ? そう気がついておもわず顔を上げたのは偶然だ。

 二階に上がるエスカレーター。そのエスカレーターを、四人のタイ人の男たちが二列で乗っている。そこまでなら普通の光景だった。

 あ、と思ったのは、その四人の男たちに囲まれるようにして立っている外国人の男がいたこと。自分と同い歳くらいのようだった。男たちに囲まれたその男の顔はよく見えない。けれど着ている服の雰囲気から、日本人だろうかと咄嗟に思う。男たちの体越しに、とまどうように身じろぎしている。そして男の後ろのタイ人たちは、ニヤニヤと嫌な笑い方をしていた。

 明里はおもわず舌打ちをした。エスカレーターで取り囲んでスリ。よくある手口だ。

 咄嗟にスーパーの扉を開いて中を覗く。いつも暇そうに立ってるスタッフが必ず一人はいるのに、こんなときに限って誰もいない。

 あぁもうしょうがない!

 サッと自分の身なりを確認する。ショートパンツのベルトバックにつけた小さなポシェット。持ち物はそれだけ。念のためサンダルを履いた足首をほぐすように回して、エスカレーターに向かって駆け出した。


「あー! ヨシキじゃない!」

 エスカレーターを上りながら、無邪気に日本語で声をかける。タイ人たちが、弾かれたように一斉に振り返った。

 その視線に気づかない振りをしたままニコニコ笑いながら、手前に陣取るタイ人を押しのけてその人の腕を掴んだ。

 間近で見たその人は、思いのほかきれいな顔をしていた。男のひとにきれいという言葉で正しいのかわからないけど、バンビのようなクリッとした目のタイ人に見慣れていた明里は、咄嗟にそうおもった。

 バンビではなく、猫。目尻の上がった猫のような目が、驚いた顔でこちらを見ている。浅黒い肌が、目元だけを見れば優美な印象のみが際立つ処を抑えるように精悍さを醸し出している。

 男の顔から、肩に下げられたA4サイズほどの革バッグに視線を移す。真ん中のボタンで留めるだけで、両端から中身が見えるタイプ。狙われたのはこれだろう。

「偶然だね! なにしてるのこんなところで!」

 できるだけ大きな声で言いながら、男の隣に立つタイ人を押しのけて体を割り込ませた。グイッと男の肩に自分の腕を回して、二人の体で鞄を挟みこむ。男がとまどっちょうに体を強張らせたのがわかるけど、無視する。そうしながら反対の手で腰に下げたポシェットを掴んで、これもやっぱり二人の体の間に滑り込ませた。後ろと前に立つタイ人の男たちが顔を見合わせているのがわかる。

「まだ取られてないね」

 スリなら、取った時点でいなくなるはずだ。確信を抱きつつ小声で聞くと、男は目を見開いたまま頷いた。と同時に後ろから声がかかった。

「ムング」

 ムング、なんで下品な呼ばれ方されること、めったにない。ちらりと振り返った相手の目は、剣呑な光を宿している。よく見ると自分と変わらない歳に見えた。

「走るよ」

 小さくそう告げると、男の手首を握ったまま残りのエスカレーターを駆け上がり、そのまま斜めにある百円ショップに飛びこんだ。

 弾丸のように飛びこんできた二人を見て、アイフォンをいじっていた店員が目を丸くする。

 ハッハッハッ。

 荒い息を吐きながらかがみこんで両膝に手をあててると、後ろから声がした。

「あの、ありがとうございました」

 振り返ると、鞄を片手でしっかり握った男が頭を下げた。

「どうしようかと思ってました。ほんと、助かりました」

 ほんとにありがとうございます、と言った男が微笑んだ。やっぱりきれいな微笑みだった。

 明里は起き上がると、男に笑いかけた。

「余計なお世話かもしれないけど、そういう鞄は危ないからやめたほうがいいですよ。皮製だし、けっこういい物なんですよね」

「あ、たぶん。もらい物なんでよくわからないんですけど」

 手に持った鞄を見下ろしながら、男が答える。恋人からのプレゼントなのかもしれない。これだけ整った顔をしてるんだから、きっとモテるだろう。

 とりあえず、大使館のお世話になることを防げてよかった。結果に満足した明里はニコッと微笑んだ。

「それじゃ、私はこれで」

 店の出口に向かうと、男が慌てたように声をかけた。

「まだ行かない方がいいんじゃないですか」

 あぁ、と明里は頷く。

「ただのスリだからね、もうどこかに行ってると思いますよ」

 スリにしては手際が遅かったことを考えると、もう少し別の目的だったのかもしれない。そんなことを男にしてはきれいな顔の男を見ながら思ったけれど、それは言わないでおいた。

「もし心配なら、迎えを呼びましょうか」

 狙われた当事者だし、まだ外に出るのが嫌かもしれない。そう思って尋ねると、男は横に首を振った。

「いえ、大丈夫です。ちょうど買う物もあるので」

 そう言いながら、鞄の中からスマホを取り出した。

「あの、良ければ連絡先を聞いても良いですか。お礼をさせてください」

 思ってなかったことを言われ目を丸くすると、男は照れたように頭をかいた。

「すみません、実はこっちに来てまだ三日目で、なにもわからなくて。もし嫌じゃなかったら、その」

 言いよどむ男の言葉を理解して微笑む。

「もちろん大丈夫です。なにかあったらいつでも連絡してください」

 明里もはじめてこの国に来たときは、右も左もわからずに戸惑うことばかりだった。新しい国に来て、ちょっとしたことの相談相手がほしいのは誰だって同じだろう。

「こちらにはお仕事ですか?」

 尋ねれば、はい、と男がスマホを操作しながら頷く。

「明日から出社なんで、とりあえずこの週末に必要なものは買っとかなきゃいけなくて」

 連絡先を交換しようとする気安さか、男の言葉が少しだけくだけたものになる。

「LINEでいいですか」

「あ、じゃ俺ID言いますね」

「はいお願いします」

 教えられたIDを検索すると、画面に写真と名前が浮かんできた。

 ――――え?

「あ、それです俺」

 男の声が、耳を素通りしていく。

 本田奏

 画面に浮かぶ名前を凝視する。


 おまえ、女のコニシキみたい。


 記憶がぐるんと再生されて、永いこと眠っていた魚が水の中で蠢くように、心の奥がビクリと揺れた。

 まさか、そんなはずない。考え直して笑顔を作った。

「これ、なんて読むんですか?」

 つとめて明るい声を出す。

本田(ほんだ)(そう)です。よく、かなで? って聞かれるんですけど」

 本田奏。名前の読み方を心の中でひっそり繰り返す。だけど奏は朗らかに笑っていて、特に変わった様子はない。そのことに安堵する。

 やっぱりひとちがいだ。

 奏が自分のスマホに目を落としながら、

星野(ほしの)明里(あかり)さん。……へぇ」

 感心したような声を出した。店の扉が開いて、子連れのタイ人夫婦が入ってきた。明里は道を開けるように脇にずれながら尋ねる。

「どうしました?」

 奏が笑いながらこちらを見た。

「僕の昔の同級生に、そんな名前の子いたなぁと思って」

 息が止まった。

「途中から転校していったんですけどね、その子」

 目を見開いて、相手を見る。

 おかーさん、なにかうのー? 

 ほら、こっち来なさい。

 店の奥から子どもの高い笑い声が聞こえる。明里は呆然と奏を見ていた。


 記憶を紐解いて、彼の姿を久しぶりに思い出そうとする。目の前の男との共通点を探す。

「星野さん? どうしました」

 奏がこちらを見る。その目を見て、血の気が引くのが分かった。

 猫の形の目。


 してやろうか。


 埃を被っていた記憶の蓋が、音も無く開く。

端が釣りあがった、どこか強い眼差し。

たしか、あの男もこんな目をしていなかった?


 ちょっと、なにしてんのよ!


 教室中に響く声。囃し立てる声と笑い声。

 ほんだ、そう。

 ぶるっと寒気がした。奏を見たまま、目が離せない。

 なんてことだろう。

 この男だ。この男が。

 かつて同級生だった、あの本田奏だ。


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