最終章 世界最期の日(五)
「よく俺様に素手で向かってこられたな。大したものだよ」
バフォメットの手が俺の首を掴みあげる。くはっ。悪魔の指が首の血管を圧迫し俺は地面を離れた爪先を宙をかき回すようにばたつかせた。瞬きするほどの力も湧いてこない。俺は、次第に、手足をぴんと伸ばして人形のように垂れさがった。
ごめんよ。俺はだれも救ってやることができなかった。
足から滑り落ちた下駄が脳内に反響する。
「グアアアアア!」
突然バフォメットが咆吼とも悲鳴ともつかない叫びをあげた。俺は、彼の手から解放され腰を打つ。見上げると悪魔は大きく顔をゆがませて自分の胸に浮かび上がった十字の蚯蚓腫れを狂うように掻き毟っていた。
「哀れな亡霊よ、信じる神を見誤ったか」
この声は!
すかさず振り返ると、入り口にシスターの姿があった。聖なる光が彼女を取り囲うようにきれいな円を描いて煌めいている。彼女はワンピースの形をした修道服からロザリオを取り上方にかざして声を上げる。
悪魔祓い(シズム)!?
「Sancti
Abi nunc ex oculis meis.」
シスターの呪文と共にバフォメットはテレビの電源が切れたように残像を残しぷつりとこの場から消え失せた。
「消滅したのか」
「はい」
彼女はよもやゴキブリを駆除した面持でこう付け加える。
「一度、彼を逃したのは、カミサマ、いえ中村くんの居所を知りたかったから。もう、彼に用はありません」
教室の隅では催眠術から解放された金剛がなんとか会話に追いつこうと周囲をきょろきょろ見渡し状況の把握に努めていた。
【異端のエクソシスト】
常時さいだいHP・MP共に+200を超え、悪魔系モンスターを一撃で倒すことができる我がゲーム史上最強の異名を持つシスター最上位職。
Lv100以上と魔石の入手が必須条件にあり一から育て上げるのは困難極めるが、エクソシストの職業スキルを習得すればチートもチートの完全無敵コースが待っているという幻のレアキャラクターである。
シスターは尻もちをついている俺を見下ろしなんとも涼しい顔を向けて言う。
「美麗さん、もしかして私のことも怖くなりましたか?」
「ゔえっ、」
汗を握っている自分に気付く。命を狙われても仕方のない状況だ。俺はこの世界の破壊児。だが、これだけ体力をすり減らして、ゲーム最強メンバーの彼女から逃げられるとも思えない。蛇に睨まれた蛙とはこういうことをいうのか。
ふたりの不穏な空気を悟って金剛が俺に駆け寄り腕を取った。俺を立ちあがらせながら入り口のシスターに向かって捨て台詞のようなものを吐き捨てる。
「三鈴といったか、今日はもう遅い。寮に戻れ」
「たな、美麗さんは!」
田中と言いかけてシスターは口を塞いだ。
「え、俺は……」
俺はここに残る。バフォメットが金剛を操るためだけに実験室に立ち寄ったとはどうしても思えない。バフォメットの背後にあるカミサマ、すなわち中村は、もっと大きな仕掛けを企んでいると思えて仕方がないからだ。俺は、この場に残って金剛から話を聞くことにするよ。
俺はたったそれだけの事務連絡を言葉にできずにいた。声を失った人のようにただ口をぱくぱくさせている。
というのも、彼女が怖いのだ。いや、”彼女が”というより”彼女の本心を知ること”が堪らなく恐ろしいものに思えた。たった一言の会話で俺たちの関係は壊れてもおかしくない。シスターに拳銃を向けられたとき、俺のこころは正気を保っていられるかわからなかった。それだけ俺はこのゲームの世界で彼女を頼りにしているのだろうと思う。
黙っている俺に代わって金剛が後を引き継いで答えた。
「美麗は私と話がしたいそうだ。私と!」
ベールの影から、シスターがぴきりと青筋を立てるのがわかった。
え、シスター?
「いえ、金剛さん。美麗さんは私と! 寮に戻ります」
なになになに。
やだな。二人に怖い顔されるとお兄さん、ちょっと冷や汗が。
「私の見たところ、彼は、シスター! あなたに愛想をつかせて私をめちゃくちゃに抱くために準備室に向かっていたところだったろうと思うわ」
断じて、それはない。
「彼……金剛さんあなた、まさか美麗さんが男だってご存じなの?」
「ふん。おあいにく様」
ああ。
「なおさら、ふたりにしておくわけにいきません!」
「なら、泊まっていく?ソファがひとつあるだけだけれども!」
俺は、思わず金剛のふくれっ面にぷっと吹き出す。
「金剛、さすがに定員オーバーだろ。あのおんぼろ、二人でギイギイうるさいのに」
「おんぼろがギイギイってなんですか」
俺のボヤキにシスターが低く声をうならせた。
「田中くん、あなたって人は……」
シスターはラスボス並みの形相で全身に殺気を纏っている。
「ばっ……きみは何か勘違いしている!」
修道服の袖口から銃口が光った。
「けがらわしい!!!!」
彼女は感情にまかせて乱射。慌てて金剛が魔法のシールドを広げた。弾丸が制服を掠って俺は再び尻もちをつく。穴だらけの実験教室を見て思った。シスター、やっぱり俺はきみが怖いよ。
□ □ □
枕元で小鳥のさえずりを聞く。朝か。目を瞬かせて、軽く伸びをしようとしたが、両腕の重みに制された。
右にシスター左に金剛。
なんという……。
爆弾を抱えて眠っている気分である。
二人掛けの小さなソファはさらに窮屈を極めた。夏の日に冷房もままならない部屋でふたりの人間に挟まれて寝るのはまさに蒸し風呂地獄。
俺は何とはなしに、すやすやとお行儀よく寝息を立てるシスターの寝顔に目を移した。こうしていると昨日、バフォメットを破った彼女とは別人のようだ。修道服を皺にすることはできないと、彼女は素肌に金剛の白衣を羽織っている。俺は柔らかな髪を見つめながらインタビューをする八年前の三鈴さんを思い起こしてみた。十九歳の彼女も栗毛に素朴で愛らしい顔立ちだったと記憶している。そういえば、タートルネックの豊かな胸は何とも見事だった。ふと俺のプリーツスカートの中に無いはずのものが疼きそうになるのを感じて慌てて回想を止めた。隣に眠っているのは、中学生のもうひとりの三鈴さん。自分で作ったアバターでもないだろうに専門学校時代の彼女によく似ている。
シスターの目が開いてぎょっとした。いや、彼女の方が驚いたようだ。シスターは身体をさっと離してどうしてここで眠っているのか昨日の記憶を辿っている様子である。ようやく事態を飲み込めたらしいと思ったら今度は自分の乱れた衣服に目を丸くしてその場でぴょんと跳ね上がった。潔癖性の彼女にとって、この状況は刺激的だったに違いない。シスターはすこぶる高速な手さばきで大きな襟首をきゅっと閉じて頬を染めている。そうされるとこちらとしても気まずくるなるのだが。彼女は華奢な体をより小さくしてちょこんと大人しく座っている。向かい合うように俺は体を起こして胡坐を組んだ。まだ左半身には金剛がすり寄ってぐうすか眠っている。
「おはようございます」
挨拶しながら尚もむずむず恥ずかしがるシスター。こんな彼女を見るのははじめてで、彼女が下を向くのにつられて、ついこちらまで顔を逸らせてしまった。
「あ、ああ」
「たっ美麗さん」
「田中でいいぞ。男であることを隠す必然性が近頃感じられん」
伏し目がちの彼女の睫の先に朝日がまとう。十三歳のきみに俺はどういう顔をしてやればいいのか分からない。
「田中くん。私が信じるのは己の心にある神なの。人はありのままに生きるべきだと思うわ。運命の歯車を元に戻しましょう」
ああ昨日の会話の続きね。真面目な話題にほっとするような、少し未練が残るような……しっかりしろ二十七歳!
「シスター、俺、このゲームを降りようと思うよ」
「どういう意味」
「現実の世界に戻ったところで、まともに身体が動く保障もないだろ。だからってこのゲームの世界で中村に培養されるのもごめんだね」
「死なせないわよ」
三鈴さんの目がまっすぐ俺を貫く。
「誰に愚痴ったこともないけどよ、俺だって強かない」
何を言ってる。中学生の女の子相手に。
「あなたには未来があるの」
膿のように沸き上がってくる感情。もうどうにも止められなかった。
「もう無理だ。もう生きられないよ。俺にはきみたちと違ってどこにも信じられるものがないんだ。お願いだ、シスター。死にたいって言わせてくれ」
俺は、彼女の小さな胸に頭を押し当て、その白い太腿に涙をこぼした。
誰も知らない。行方知れずの孤独。きみの温もりが二十七の蕾に一粒ずつ雨水を落としていく。
俺は顔も知らない女の人の懐かしい匂いをきみの中に探そうとしていた。
もし俺に母親がいたらきみのような人だったろうか。
室内に差し込む光がきらりきらりと揺れ動き、すべてが泡になって弾けてしまいそうに思えた。
小さな手が髪をなでつけている。
俺は彼女の空いている手に有無を言わせず銀の玉を握らせた。
「……もし戻れたら俺は、またひとりだな」
それは独り言だったのだけれど、三鈴さんは淀みなく答えた。
「田中くん、信じてちょうだい。私がいるわ。あなたが忘れない限り私はあなたの心の中で生き続けるの。だから誰も死なないのよ」
わかったよ。わかった。もういいから。少しの間、きみの命の音を聞かせていて。
中村、もし、あの夏、俺が死ぬなよって一言声をかけてやれていたら何か変わったのか。




