最終章 世界最期の日(四)
貧血。
遊歩道の大木に手をつく。女って貧弱な生き物だ。どんな能力を授かっても女体を維持し続けるにはホルモンバランスの影響を受けるらしい。生理の十日も前から体力面に変化があらわれるとなると、月の半分を女は不完全な状態で過ごさなければならない計算になる。そりゃヒステリーにもなるわけだぜ。ところで、俺が二度目の排卵を経験するというのはマリオネット学院の生徒になって幾日が過ぎたという証明でもある。シスターの三鈴さんとも、それだけの時間を過ごしたということ。
走ってきた道を振り返る。男子寮の明りが今はもうあんなに遠く。シスターが追ってくる気配はない。ほっと息をつき肩の力が抜けた。彼女と顔を合わせる根性があればこうして俺が悩める悲劇のヒーローになることもなかっただろう。
俺は、ゲームの世界の天災であるらしい。成り行きの如何でノアの箱舟のようにこの世界を一掃する危険を秘めている。
人工知能となった中村はこともあろうかこの俺に“ゲームの世界で手を組もう”と誘った。もちろん俺は断った。その申し出に応えるわけにはいかない。肉体を捨て半永久的な命を手に入れた彼が果たしてゲームエリア内だけでくすぶっているだろうか、否。中村の暴走を止めなければ。そして俺は現実世界に帰りありふれた日常でもう一度世界を恨みながら人生の時間を進めるのだ。だがカミサマとなった中村を倒すことになれば、おそらくゲームの世界も同時に滅ぼすことになってしまうだろう。
世界を壊したい俺とそれを止めようというシスターの存在。俺の『正義』が誰かを傷つける。グッドエンディングはだれのもの。
世界は誰のために廻っている?
息を整えながら、無意識に夜空の北極星と街灯の裸電球を比べていた。一〇〇ワットの熱に魅せられた蛾は何億光年の光に興味を示さないらしい。
中村は自分の才能を信じている。俺は何を信じよう。
スカートが揺れ、ポケットの膨らみが腿に当たった。中村が残した銀の玉。あいつが吸血鬼に扮していたからだと思っていたが、シスターの銃を示唆していたのだろうか。彼の去り際の言葉『一人では解決できない』とは……
俺は、しばらく生い茂る樹木に寄りかかって、なまあたたかい風を浴びていた。
頭上から一枚の葉がひらりと舞い落ちる。鼻先に引っ掛かりその葉は動きを封じられる。
「さすが美少女は嘘をつかなくても鼻の高いこと」
俺の独り言を、吹きさぶ風がどこかへ連れて去ってしまった。
ふっとため息をついた瞬間。無数の新葉が一斉に枝を離れ俺を目がけて落ちて来た。ひがむな! いや、自然の逆襲などでない。肌をなでつけている風向きが変わった。木立が騒ぐ。突風か。いや頭上を大きな影が通過した。早い。ミサイルと見紛うスピード。あいつは、こちらに気付かなかったようだ。
バフォメット。忘れられるわけない。あの圧倒的威圧感。
あいつは、迷いなく校舎に向かって飛行していた。
金剛! 悪魔は、金剛に執着している。
この坂を下れば、学校舎の棟。今の時間、電気があるのは実験室くらいだ。金剛の居場所はすぐに見つかってしまうだろう。まずい。
□ □ □
非常灯を頼りに一年校舎の階段を駆けあがり理科実験室の扉を開け放った。勢いあまって扉の補強材が剥がれそうになりながら耐えている。俺は蛍光灯の光に一瞬目を眩ませて真っ白な視界に烏の翼を見た。
俺の読みは間違っていなかったようだ。バフォメットはがらんどうになった室内で入り口に背を向けるように立っていた。奴の向こうにまみりんが身構えている。彼女の無事を確認して俺はそっと胸をなでおろした。
扉の音に気付いて黒い翼を持った悪魔が勿体ぶるように顔を振り向かせる。斜に構える態度がなんとも腹立たしい。ジャケットから浅黒い肌を覗かせ半開きの口からは牙が光る。切れ長の目が俺を捉えて威嚇した。
「夜に金髪美女か。悪くはないな」
呼吸を整えろ。
「お前みたいな生き物がいるから男が誤解を受ける」
身体を反る。
「じゃあ、お嬢ちゃんの思う男は何だっていうの」
教室中の光を取り込むように大きく息を吸った。
「まず、ひとつ。俺は、お嬢ちゃんじゃなぃ!!!!」
台詞と同時に地面を蹴る。エネルギーを一気に解放。全身に青い光をまとい青い弾丸のごとく駆けだした。俺は、ほとばしる光の剣を右腕に握り閉め、バフォメット目がけて振り下ろす。雷鳴の衝撃が走る。だが奴はものともせず、俺の魔法を素手で払いのけた。
ふざけろっ! そのまま俺は、弾き飛ばされ天井に全身を強打。力の差がありすぎる。俺は抵抗することなく逆さになり空気抵抗を受けながら金剛の光る両手を見つめ続けた。地面激突寸でのところで床がトランポリンのようにバウンド。魔女の無効化重力魔法。つくづくまみりんを敵に回したくないと思う。魔法の規模が大きいのなんの。
「おいおい。もっと楽しませろよ。女がふたりもいて白けちまうぜ」
バフォメットがパチンと指をならすと彼の背後にいる金剛の瞳から見る見る生気が失せていくのがわかった。これは!
「あの黒い女みたいに俺を吹っ飛ばしてみろよ。カミサマの野郎も粋なことするもんだよな。この教室だろ。ぞくぞくするぜ。まだ香ってくる。女の血だ」
吐き気がする。こいつの神経回路はどういう造りなっているのだろう。
「だが、その前に新ルールといこうか。おい、魔女女、この金髪の魔法を封じろ」
バフォメットの掛け声に合わせ、金剛が腕を振り上げた。やべぇぞ。敵に回したくないって言ったばかりじゃないか。
「金剛!目を覚ませ!」
悪魔の催眠術。バフォメットは一度、学院中の人間をその魔術で操ったことがある。金剛がすでにバフォメットの術にかかっていたとは油断した。
ぱちぱちと線香花火。
目の前に火の粉が咲き乱れ俺の視界が何度も白く点滅した。
頭がふらつく。左右のバランスが取れない。心に小さな波紋が広がっていくのを感じる。
ぴくりと目の端が痙攣。口端がうずく。指先が反応する。この感情はどこからくる。この悔しさはどこからくる。
脳幹、小脳、大脳、視床下部、自律神経が次々に侵されていく。立っていられない。気を抜くと眼球が飛び出すのではないかと思う。ぎりりと骨が動く。
これは……肉の焼ける匂い。
畔上が俺の中で目を覚ました。
はっと意識を戻した俺は足先に当たった箒を拾い上げ、槍のように突き立て突進する。
箒はバフォメットの肩をすり抜け、俺の手から離れて床に転げ落ちた。
「どうした。隙だらけじゃないか。青い竹刀を出す力も残ってないってか」
俺は髪を掴み上げられ顔面の肉を引き攣らせていた。バフォメットの拳が腹に食い込む。ぐはっ。口から血液まじりの唾液を散らした。喉が焼ける。山羊の目が身体を嘗め回す。力が入らない。
畔上七子。学院で唯一能力を持たない少女。
これがきみの見た世界だったのか。
震えている自分に気付く。すくむ足。抑えられない。
俺、死ぬのか。
「怖いか。女はこれくらいがちょうどいい」
“助けて”
黒髪の彼女が俺の心の奥で悲鳴を上げる。
俺はすかさず、バフォメットの顎を蹴り飛ばし弧を描いて距離を取る。
「威勢のいい奴だな」
畔上の記憶が俺のなかに生きている。
「おまえ、二十歳過ぎたら格段に女の質が落ちたろう?」
時間を稼げ。肩で息をしながら次の攻撃に備えて体制を整えた。
「下半身ばっかで頭使ってねえようだからよ」
「ほう。どうして、俺が頭を使ってないと思う」
「お前、俺に敵対する理由をわかっているのか。救世主を倒したら見られなくなるぞ」
ここは死の世界だ。
誰もがこの鎖の部屋で終わらない夢を見続けている。
「ああ?」
「世界の最期が見たいんだろがぁぁぁぁ!!!!!」
奮い立つ。殺気。これが俺。
関節が外れそうなほど腕を上げてバフォメットに飛びかかる。魔法も勝機もない。十三歳の少女の拳に俺のすべてを込めて。




