第四章 クレイジー・アバウト・ユー 夢うつつ(前編)
(無音)
俺は、朦朧とする頭を持ち上げた。二日酔いの朝を思い出す。消えては浮かぶ脈絡のない記憶の断片。覚醒していく感覚。
「お客様、大丈夫ですか」
ロマンスグレーの渋い声が鼓膜を揺らした。スポットライトに照らされて顔は見えないが声色から穏やかな表情を想像できる。きっと、彼はこの店のマスターだろう。白髪の紳士は水の入ったグラスをテーブルに置いた。どうやら、俺は、バーのカウンター席で眠りこけていたようだ。店内は、手元を照らすライトがあるだけで、店の隅々まで見渡すことはできないが、俺たちの他に人の気配がないことは確か。喉を潤わせようと、手を伸ばす。グラスを握る見馴れた右手。武骨で大きな大人の男の手である。中指のペン蛸が愛しい。どうしてだろうか。俺は今まで長い夢を見ていたような気がする。
そうだ。あれは、夢だった。まさか、自分の書いたシナリオの主人公になるとは。今週は携帯ゲームの依頼に振り回されて自分が思うより疲れていたのだろう。早く帰って久しぶりに布団で寝るか。だが、先ほどから妙に感じていたことがある。俺は、どうやってここまで来たのだろう。ここはどこだ。随分昔から知っているようにも思える。でも、はじめて来たような気もするのだ。靄がかかっているようにはっきり思い出せない。もしかして、これは、夢なのか。まだ夢の中なのか。いったいどこからが夢でどこからが現実なんだ。そもそも境界線なぞ存在するのか。ふとこんな考えが頭を過る。これまでの二十七年間、全部幻だったとしたら。
俺は、専門学校を卒業してから、小さなゲーム会社に入社した。一年もしないうちにストレスで身体を壊し、退社。コンビニのアルバイトをする傍ら、専門時代の先輩の紹介で、申し訳程度の料金ながらシナリオ書きを続けてきた。シナリオにこだわるわけでもない。当初は、意地もあったのだろうと思う。現状を打開しようと焦る気持ちもまだ残っていた。だが、今となっては、単なる現実逃避に過ぎない。新しいことに挑戦する気力がわかないというだけのこと。食べて、タイピングして、怒られて、接客の合間に睡眠をとる。これが俺の人生。金がなければ恋もできないようで、友人も両親もなければ、人に語れる志もない。残ったのは奨学金の返済くらいだ。いや、人がうらやむ自由はある。俺の選択が今の俺を作ってきたと確信できる。俺の人生を作りあげてきたと胸をはって言える。それなのに、今、これを誇れないのはどうしてだろう。これも、幻だったとしたら。たとえば、専門時代にシナリオ部門で大賞に選ばれたことも、中村の自殺も。そもそも、人間として生まれてきたこともすべて。誰にも擦り付けられないココロのわだかまりを、なかったことにできるのだろうか。
――人は目覚めるたび、時計を探す。それは、今自分がいつを生きているのか見失わないためである。きっと、はぐれてしまう人もいるのではないだろうか。
蝶が夢と現をさ迷うように。
カランと鈴の音に俺の意識は引き戻された。背後の扉が開いて外界の風がなだれ込む。ぶるりと身震い。
「いらっしゃいませ。外は寒かったでしょう」
マスターが客をねぎらう。音のない世界にどこからともなく、軽やかなジャズが流れ広がった。心地よく弾ける音色が小さな店内を満たしていく。
客は、マスターにコートを渡すと、俺の隣の丸椅子に腰かけた。
横顔を見て、言葉を失う。
“……中村”
休ませてくれと言いつつ申し訳ない。
ここまで、お読みくださり、ありがとうございます。
物語の急展開に読者さまがどこまでついて来てくださるか作者として不安な日々です。




