第四章 クレイジー・アバウト・ユー(三)
まみりんの驚いた顔が目に焼き付いている。事情を話す時間も惜しくて、俺は彼女の腕を振り払らった。
実験室を出た一年校舎二階の廊下は、西日が届かず、もう夜の気配が忍び寄っていた。
階段の踊り場を廻り、手摺をボードの要領で滑り降りる。
《間に合ってくれ》
俺としたことが同じ非モテ族に油断した。体育館裏だなんて、学校の危険な場所トップ5と言っていい。校舎から死角になっている点もそうだが、放課後なら多少声を上げても部活動生が防音壁になってくれるという絶好のリア充スポット。
あいつのためにも、よくないんだ。これ以上、自分で自分を貶めるこたーない。
《間に合ってくれ》
校舎一階の窓枠を飛び越え、中庭の土に下駄の歯を刺した。
教師の怒声を背中に受けながら、俺はメロスのごとく形相で走る。
息づかいで耳がおかしくなってきた。切り落としたいくらい腕が重い。あと少し太股が上がれば、一歩早くシスターに近づけるのに。
☆☆☆
体育館の正面入り口は、ボールとバスケ部の掛け声が交差していた。
そばの小道を抜け角を曲がると、シスターの後ろ姿が飛び込んできて、その奥に冴内がいた。
ちょうど、やつがスプレーを構えているところだ。
おい、シスター、お得意の銃はどうしたよ。これだから、警戒心のないお人よしは!
「冴内!止めろ」
腹に力が入らない。息切れだ。
俺は、小石に足首を捻り、そのまま、シスターの傍らをダイブで通過して、冴内を押し倒した。
『美麗さん?!!』
冴内とシスターの声がユニゾンする。よせ、脳が揺れる。
☆☆☆
「で、惚れ薬スプレーを浴びて、私のところに戻ってきたわけね」
白衣の魔女が、パソコン机からキャスターチェアを廻して髪を後ろにかきあげた。
すっかり日の暮れた準備室には、蛍光灯の灯りがともされている。彼女のつんと伸びた鼻に白いラインが落ち込み、きめ細かい素肌を映していた。
「さっそくお前の力が必要になるときが来たな!」
「注意書きにあるでしょう。一切の責任は販売元にございません」
俺は、また液晶画面に向き直ろうとする彼女に慌てて食い下がる。
「学院のヒーローを見殺しにするつもりか!」
「おめでたいわね、大統領にでもなった気でいるの?」
「こんのぉ……」
反り返りそうなくらいの憤りが通じたのか彼女は、仕方ないとばかり、実験台に手を伸ばして通販カタログを俺の顔面に押し付けた。
「わかった。3割引きでいいわよ」
示されたページを開くと、ホワイトチューヴの写真の下に、説明がある。
“『魔法除去クリーム75g¥64700』”
「スプレータイプの惚れ薬なら、これで充分ね」
「金取るつもりか!しかも、スプレー缶の二倍はしてんじゃねぇかよ!」
「脂肪もメイクも落とすほうが手間のかかるものなのよ。魔法とくれば、かなり良心的な価格設定だわ。それに私はどちらでもいいのよ。あなたが、恋する乙女のままであろうがなかろうが」
「乙女はやめろ」
「あら、外見はせっかく愛らしい少女なのに、どうして男であることにこだわるのかしらね。理解に苦しむわ」
金剛まみは、顎をしゃくりあげて、腕を組む。
「お前?」
まさか、こいつまで……
「気づいていないとでも思ったの。匂いが違うのよ。いくら、ツインテールを振りまいたってね、男勝りな女の子と男は別物なの」
さすが、伝説の魔女だと言いたいところが、こいつの場合、男嫌いを極めた結果なのだろう。




