5
次の日、梨歌は何事もなかったかのように学校に来ていた。
いや、そう思っただけだった。
匠哉は何度か声をかけようとしたがどれも上手くかわされて、1度も話せなかった。
それはまるで、昨日までの日々をなかったことにされていようで。
少し……いや、大分哀しかった。
「あーぁ、見事に落ち込んじゃってる」
由比が楽しそうに隣で笑っている。
匠哉は机に伏せた顔をあげずに、うるさいと呟いた。
誰のせいでこんなことになったんだと思っているんだよ……。
「あーもう、仕方ないなぁ。私が話してきてあげる」
そう言って、由比は席を立った。
匠哉はもうどうでもいいやと思って、止めることもせずそのまま好きなようにさせた。
*
「安藤さん、ちょっといい?」
雪乃と話していると、由比が横から声をかけてきた。
梨歌はどうしようと思った。
今はこの人と話したくない。
「あーいいよ、どーぞ持って行って」
「ありがとう。屋上でも、行きましょう?」
「え、って雪乃!?」
「逃げてるだけじゃ、ダメだと思うけど?」
雪乃はそう悪戯な笑顔を見せて言った。
*
梨歌は由比に腕を引かれてそのまま屋上に連行された。
「えぇっと、何でしょう?」
「あ、私が連れてきたんだもんね。ごめんごめん」
由比は舌を少し出しながら肩をすくめた。
そして、昨日の朝のように微笑むと、口を開いた。
「安藤さん……私と匠哉の仲を疑っているでしょう?ほら、私が触れても匠哉は平気だから」
梨歌は痛いところをつかれて、由比から視線を逸らせた。
……今はその話はしたくない……。
「そ、そんなことないよ?あ、昨日のこと、気にしてるの?ごめん、ちょっと気分が悪くなっただけだから。大丈夫だよ」
そう震える声で笑って言ったのに、由比は信じてくれなかった。
「それなら、どうしてあの時逃げたの?……嘘でしょ、気分が悪くなったなんて」
「嘘、じゃないっ!」
「……そう。それなら、私の勘違いだったのね。ごめんなさい。ねぇ、1つだけ教えてくれない?ここで、人目につかないところって何処?」
梨歌は何故そんなことを尋ねるのだろう、と首を傾げながら、昨日隠れていた場所を指差した。
由比はその方向に視線をやって、何度か頷いたあと、さっきとは全く違う強い力で梨歌をそこへと引っ張った。
「痛……っ!ちょっと離してよ!!」
「嫌だね。こうやってでもしなきゃ、お前は気付かないだろ」
力だけでなく、口調まで変わっていた。
無理矢理そこに連れて行かれた梨歌はそのまま壁に押し付けられる。
何が起こったのか全くわからなくて、ただその痛みを堪えて由比を見つめた。
「そんな顔したって無駄。逃げられないよ。それに、ここは人目につかない。そう君が教えてくれたしね」
由比は梨歌の耳元でそう囁いた。
耳にかかる息が気持ち悪い。
背筋がぞっとする。
戸惑う梨歌を口元に笑みを浮かべて、由比は面白そうに見つめた。
遠くで授業の始まりを知らせるチャイムが聞こえる。
「さて、どうしようか。どうして欲しい?なんなら、叫んで助けを求めてもいいけど?」
「な、んで、こんなことするのよ……私は渡瀬と何も関係ない!眞琴さんが心配するようなことなんて……」
「匠哉と何も関係ないんだ?それなら余計に離してあげられないね」
「な……っ!」
「その辺にしとけよ、由比」
声がした方に顔を向けると、匠哉が面倒臭そうに立っていた。
由比はやっと来たか、というような顔で梨歌を離した。
離された梨歌はそのまま壁伝いに座り込む。
まだ何が何だかわからない。
頭が追いつかない。
「匠哉が遅いから、安藤さん怯えちゃったじゃない」
由比がいつものように話す。
さっきまでの口調がまるでなかったかのように振舞う姿を見て、梨歌は体が震えた。
怖い。
「その言葉遣いもそろそろやめろ」
「なーんで?別に構わないじゃない」
「今は誰もいない。その様子だと、安藤も知ってるんだろ?」
「分かったよ。ったく、お前もこいつもまだまだだね」
由比は先程の口調に戻した。
たぶん話を聞く限りでは、こっちが本当の由比なのだろう。
匠哉が梨歌に近づいてきた。
思わず体を堅くする。
そのまま匠哉を見ていると、いきなり抱きしめられた。
「ごめん、怖かったよな」
「さ……触らないでよ!訳わかんない、渡瀬も眞琴さんも!!」
梨歌は思い切り匠哉を突き放した。
匠哉は簡単に突き飛ばされ、尻餅をついた。
ただその目は悲しそうに梨歌を見つめていた。
「私が何をしたって言うの?何で私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ……っ!巻き込まないでよ、私巻き込まれたくない!」
「仕方ないじゃん、もう過ぎたことだし」
由比が当然のように言った。
少しだけ呆れも含んでいるようだった。
「俺らのせいじゃないし、勝手にそうされても困る」
「わ、私のせいだって言うの?!」
「こうなる運命だったんじゃないの?実際こうなってるし。過去のことよりさぁ、あんたは今の状況を見つめた方がいいよ」
由比はバカにしたように微笑みながら、梨歌を見下ろす。
匠哉もその視線に気付いたのだろう。
「由比、やめろ。もういいよ」
「よくない、そんなんじゃ美羽ちゃんに示しがつかないよ」
「いいって言ってんだ!これ以上、安藤を困らせるな」
「そんな、泣きそうな顔で言われても説得力ないけど」
「うるせーよ」
梨歌は匠哉の方に視線をやった。
由比の言う通り、匠哉は悲しそうで今にも泣き出しそうな顔をしていた。
……これも自分のせいだと言うのだろうか。
違う、そう思い込ませる。
「そろそろ梨歌返してもらってもいいかな、眞琴くん」
だよね?と尋ねながら、雪乃が現れた。
……ずっと聞いていたのだろうか。
匠哉も由比も驚いたような顔をしている。
「言っておくけど、梨歌を泣かせたら眞琴くんが渡瀬のためにしたように、私もするから」
雪乃は梨歌を立たせながら、そう言った。
梨歌は信じられない気持ちで雪乃を見つめていた。
こんな雪乃を見たのは初めてだった。
雪乃にされるがまま、屋上を出て行く。
その姿を匠哉と由比は見つめるだけしか出来なかった。
「雪乃っ!どうして……」
「なかなか帰ってこないから、心配して来ちゃったの。そしたら、渡瀬も来るし、眞琴さんも性格変わっちゃってるし」
「……ありがとね」
「いえいえ、親友だし?当然のこと、しただけだよ」
梨歌は雪乃の手を握った。
雪乃も握り返してくる。
後から後から流れる梨歌の涙を見てしまわないように、雪乃は梨歌の1歩前を歩いた。
*
「なんか、してやるつもりがしてやられちゃった感じ?」
梨歌と雪乃の姿が見えなくなった後、由比がぽつりと零した。
匠哉はただただその言葉に頷くだけだった。
信じられないのは匠哉も同じだった。
「てか、俺が男だって知られちゃったな」
「自業自得だろ」
「はー?俺はお前のためを思ってやったんだぞ!?」
「……スカートはいて、その喋り方するな、気持ち悪い」
「お前が女言葉やめろっつったんだろ!」
「じゃあ、撤回。制服着て男言葉は使うな」
匠哉はそう言い放つとその場に横になった。
空を見上げれば、いつもと同じように夏独特の白い雲が流れていく。
何も変わらないことを願っていたけども、今は変わってほしいと思った。
「もう、仕方ないから私も付き合ってあげるよ」
女言葉に戻した由比が匠哉の隣に座り込んだ。
昨日梨歌がしたように、今度は匠哉と由比がその日の残りの授業を屋上でサボった。
*
「……あいつら、遅い。あーもう、呼びに行って来る!」
いらいらしたように雪乃が席を立った。
梨歌は慌ててそれを遮る。
放課後、2人で教室に残っていた。
そう提案したのは雪乃だった。
「折角謝らせてあげる機会を作ってあげてるのに」
「そんなのあの2人は知らないってば」
梨歌は苦笑しながら、雪乃の文句を聞いていた。
しばらくすると教室のドアが開かれた。
2人は同時にそちらへ視線を向ける。
そこには驚いたように匠哉と由比が立ち尽くしていた。
「あれー帰ってなかったの?」
最初に口を開いたのは由比だった。
あの喋り方を聞いてから、その言葉遣いを聞くと、とても違和感を感じた。
「帰ってなきゃ、悪い?てか、あんたたち降りてくるの遅い」
「誰も待っててとは言ってないと思うけど。匠哉も言ってないでしょう?」
「あぁ。言った覚えはないよ」
匠哉はそう答えて、自分の席に戻り鞄に教科書を詰めていた。
ね、と由比は微笑むと、匠哉の後に続いた。
「あんたたち、梨歌に謝る気はないの?」
「……屋上で安藤さんに言った通り、私たちは何も悪くないし、謝らなければならない理由もないわ」
「普通男子が女子を怖がらせたら、男子が悪いでしょ」
「それは偏見に過ぎないわ。……じゃ、それだけなら私たちは帰るから」
由比は鞄を持つと、匠哉を連れて教室を出ようとした。
慌てて雪乃がそれを引きとめようとする。
「ちょっと待ちなさいよ!」
「謝って欲しいなら、あなたじゃなく安藤さんがそう言えばいいじゃないの。安藤さんの親友でもあなたは部外者よ。口出ししていいものではないわ」
嘲笑うかのような笑みでそう言うと、そのまま教室を出て行ってしまった。
梨歌の隣で雪乃は悔しそうに唇を噛んでいた。
「……雪乃……」
「ごめん、何も出来なかった。役立たずだな、私。眞琴さんの言っている通り……余計なこと、しちゃったね」
「そんなことないよ……ありがと、私のために。後は……自分でやれるから。頑張るから」
梨歌は雪乃を安心させようと、微笑んで言った。
雪乃も微笑んで、頑張れと言ってくれた。
残りは自分で解決しなければならない。
このまま何もなかったことにするかしないかは自分自身が決めなければならない。
今は何も見えないけど、近いうちに見つけ出さなければならないだろう。
その答えを。
*
「これで、よかったの?」
由比は匠哉の顔を覗き込みながら、言った。
匠哉は静かに首を縦に振った。
由比はそんな匠哉を見て大きくため息をつくと、またテレビに視線を戻した。
「じゃあ、何で私を呼んだの、ここに」
「……忘れちまった、いろいろあり過ぎて」
「私、わざわざ家を出てまでこっちに来たんだけど?まぁ別に住む所提供してくれてるからいいけどさ」
家賃が浮くしね、と由比は続けた。
匠哉は腰掛けていたベッドにそのまま仰向けになると、天井を見つめた。
「やっぱり俺には無理なのかな……」
匠哉はポツリと呟いた。
由比は少し間を開けて、その呟きに答えた。
「何も始めてないのに、決め付けちゃダメだよ。何かやったんならともかく」
「だよなー」
「でも、今の状況じゃ無理かもしれないね。私、安藤さんの友達に喧嘩売っちゃったし」
「……由比にしては珍しいよな、喧嘩売るなんて」
「んー、そうだね。あ、もしかして私も恋しちゃったとか!」
「レズかよ」
「んまー、私は正真正銘の男です!」
「その格好で言われても、無理」
由比はジャージに半袖というラフな格好をしていたが、長い髪のせいでやっぱり女にしか見えない。
「だって髪切ったら、親が怒るんだもん。よっぽど娘が欲しかったみたい」
由比は指に髪を絡めながら言った。
そんなことを言っていながらも髪には自信があるようで、毎朝丁寧に梳かしているのを見かける。
少なくともこっちに来てからはそうだった。
「梨歌って言ったっけ、安藤さんの名前」
「あぁ、そうだけど。どうした?」
「いや別に気になっただけ」
そう言って由比はまた黙り込んだ。
部屋に沈黙が流れる。
1人暮らしなら仕方ないと割り切れたけど、2人でいるのにテレビの音しかしないのはとても辛く思えた。