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「まさかのまさかでしょ」
「どうだか」
注文したケーキをつつきながら、梨歌は首を傾げた。
「うっそー……マジ?」
まるで自分のことのように頭を抱える雪乃から目を離し、窓の外に意識をやった。
もう街中には夜が溢れている。
……匠哉は無事に家に着いただろうか。
「梨歌は絶対あんなのを好きにならないって思ったのに」
「それ……結構酷いよ」
「でもさー」
雪乃は文句を言いながら、ケーキを頬張っている。
梨歌は窓の外から視線を店内に戻した。
「でも、結構いい奴だよ」
「ぶっ……それが有り得ないんだって!」
「……確かに」
無愛想だし、梨歌としか話していないし。
その梨歌とだって、まともな会話は数えるほど。
……今日のあの時間が、今も夢のようだ。
「あんな変な男に捕まるなんて……」
雪乃はまだ悲観的に呟いている。
梨歌はただ苦笑して、残りのケーキを口にした。
最後に残しておいたいちごを食べようとした途端、皿の上のいちごが消えた。
「あっ」
「99%俺の話か」
隣を見ると、いちごを頬張る匠哉が立っていた。
「あーっ!」
「ん、忘れ物。と、今日の詫び」
半泣き状態の梨歌の前に紙袋が置かれた。
雪乃は呆然とその様子を見ていた。
冷や汗をかいているように思ったのは気のせいだろう。
「見て、いい?」
「そりゃお前のだし」
そっけなく答えながら、匠哉は雪乃の隣に座った。
雪乃が体を竦めたが、全く気にも留めないでコーヒーを頼んでいる。
……何で、雪乃の隣に座ったのだろう。
隣、空いてたのに。
こっちの方が近かったのに……。
梨歌は思い切り首を横に振った。
何を考えてるんだろう。
そんなこと関係ないじゃないか!
「じゃ、失礼しまーす」
梨歌はゆっくりと紙袋の中に手を突っ込んだ。
「な、何よ、これーっ!」
紙袋から出てきたのは、この間のテスト。
しかも、過去最悪に悪かったものだった。
……う、いつ見ても悪い……。
赤く大きくはっきりと書かれた赤点に等しい点数。
梨歌はもう1度それを見つめて、テーブルに顔を伏せた。
「にしても、酷いよな、それ」
「……うるさい」
雪乃がちらっと見て、驚いたような表情を見せた。
そりゃそうだろう。
梨歌だってこんな点数初めてだ。
当然これを持ってきた匠哉にはしっかり見られたわけで。
最大のライバルと思っていただけに、ショックは大きい。
「あんたにだけは見られたくなかったのに」
「不特定多数に見られるよりはマシだろ」
「そうだけど」
当分立ち直れそうにも無さそうだ。
梨歌はしみじみとそう思った。
「……あれ、梨歌。他にも入ってるみたいだよ?」
え、と顔を上げると、匠哉が顔を赤くする。
梨歌は首を傾げながら、袋の中を覗きこんだ。
「これ……って」
「ノート?」
入っていたのは、小さなメモ帳だった。
手のひらサイズの赤いノート。
……てか、何でノート?
「い、い、家帰ってから見ろよ!」
「何でー?いいじゃん、梨歌、見ちゃいなって」
雪乃が怪しく笑って、匠哉が一瞬怯んだ。
赤かった顔はだんだん青くなってきている。
「……見ていい?」
「っ!もう勝手にしろよっ」
匠哉は梨歌に背を向けるように座り直した。
少しむっとなったが、気にせずノートを開いてみる。
「……余計なお世話」
「い、いらないんなら、捨てやがれ!」
ノートの中には、びっちりと文字と図形が並んでいた。
所々色ペンが使われていて、綺麗にまとめられていると一瞬見ただけでも分かる。
中身は思い出したくもないテストの詳しい解説だった。
「こんなこと、わざわざやってくれなくてもいいのに」
「……だから、いらないなら」
「嘘だよ、ありがと。学級委員の名に恥じないように、頑張って復習するよ」
そう微笑むと、匠哉は一層顔を赤くして、梨歌から目を離した。
不思議そうに見てくる雪乃にノートをそっと渡す。
「うわっ!よくここまでやるよねー、ライバルなのに」
「……ライバルだからだよ」
「へぇ……これ、私が欲しいんだけど」
雪乃はページを捲りながら、感心したように言った。
「……これだけ、愛が詰まってるってことか」
「はぁ!?」
雪乃の呟きに、梨歌と匠哉は同時に叫んだ。
な……何を言い出すんだ……。
そんな見当違いのことを言われても困る。
……そんなことあるはずがないのに。
「……俺、帰るから」
匠哉は立ち上がると、伝票を持ってレジに向かった。
何故か梨歌と雪乃の分まで払って、店を後にする。
「な、なんかラッキー、だね」
「うん……」
2人はただ黙って見送ることしか出来なかった。
*
「は、転入生?」
「正確には、入学式に間に合わなかった外部生」
雪乃に突然そんなことを言われて、梨歌は絶句してしまった。
確かに匠哉の隣の席は入学当初から空席だった。
でも、まさかまた外部生が特進クラスに増えるなんて……。
「はーい、皆知ってるだろうけど、1ヶ月遅れの入学生が今日からこのクラスに増えるからねー。さ、入って」
苑江に手招かれて入ってきたのは、綺麗な長い髪の女子だった。
「眞琴由比です。よろしくお願いします」
そう言って、由比は優しく微笑んだ。
男子の大半がため息をつく。
正真正銘のお嬢様、という雰囲気を醸している由比は、ある1点を見つめると、宝物を見つけたように微笑んで、その場を駆け出した。
苑江が止めようと慌てていたが、それもあと1歩及ばすだった。
「匠哉っ!」
教室中の目が窓際の最後尾に向けられる。
梨歌もその1人だった。
そして、その姿を捉えると、信じられない気持ちになった。
……眞琴由比が渡瀬匠哉に抱きついていたのだ。
「わ、ちょっとやめろっ!」
「なーんで?久しぶりに会ったのに」
「だからって飛びつくんじゃねー」
匠哉は必死に由比を引き剥がそうとしていた。
その顔色は青くなるわけでもなく、誰かに触れて苦しそうにしている匠哉ではなかった。
「ちょっ、安藤さん!?」
後ろで苑江の声がする。梨歌は思わず教室を飛び出していた。
*
「あー……私は何がしたいのよ」
屋上で空を見上げながら、呟いた。
誰かが必死でドアを開けようとしている。
……無理だよ、外から鍵かけちゃったもの。
「てか、あの鍵、結構錆びていたな……」
このまま開かなかったらどうしようか、なんて危機感も持たずに呑気に言う自分に少し笑えた。
本当に呆れた。
これじゃまるで匠哉のことが好きみたいじゃないか。
誰もがそう思う。
そして、望みのない恋を可哀想だと思う。
冗談じゃない。
……でもこんなことをしてしまえば、取り返しがつかない。
人の噂も75日。
2ヶ月と少し。
それだけ我慢するしかない。
「てか、チャイム鳴ってるのに。授業サボるのかな」
まだドアの向こうで叫んでいる。
何を言っているのかはわからないが、必死だということだけは分かった。
1人になりたいから、ここに来たのに。
このまま居留守でも使おうか。
そう思って、梨歌はドアの反対側に座り込んだ。
ここなら、もし鍵が開いても見つからないだろう。
梨歌はゆっくりと目を閉じた。
*
「安藤っ!」
どうやっても開かないドアを叩く手が痺れてくる。
声ももうカラカラだ。
「匠哉ー、もう諦めて教室に戻りましょ?安藤さんは1人になりたいのよ」
「でも……っ!だいたいお前が勘違いさせるようなことをするから」
「えー、でもいいじゃない。試練があった方が燃えるでしょ?」
「そういう問題じゃないっ!」
「どうもこうも、開かないんだから仕方ないじゃない。安藤さんが自分から出てくるまで、教室で待ちましょう?放課後になっても、夜になっても私、付き合うから」
ね?と首を傾げながら、由比は匠哉の腕に自分の腕を絡めた。
匠哉は名残惜しそうにドアを見つめて、由比に引っ張られるがままにその場を後にした。
梨歌が次に目を開けたときには、もう声はしていなかった。
腕時計に目をやると、もうすぐ4時間目が終わる頃だった。
昼食を食べに戻ってもよかったけど、そんなに空腹でもなかったので、やめた。
心配するだろうと思ったので、一応雪乃にメールをいれておく。
雪乃は『ノートは任せて。気が済むまでそこにいたらいいよ』とすぐに返してきてくれた。
「初めてのサボりだ」
梨歌は体を伸ばしながら、言った。
別に1日くらいいいだろう。
その時、またドアの方で声がした。
しばらくそこで話し込んだ後、すぐに階段を下りていく音がした。
屋上にお弁当を食べに来た人たちだろうか。
少しだけ申し訳ない気持ちになった。
*
匠哉はドアの前に梨歌のお弁当箱を置いた。
「匠哉は相変わらずお人好しなのね」
由比が笑いながら言う。
少しだけむっとしながら、由比の方へ振り返る。
「うるせー、お前も相変わらずじゃねーか」
「そうだね、似た者同士仲良くしましょ」
それは嫌か、と由比は苦笑する。
昔と変わらない由比の姿を懐かしく思った。
それでも、この怒りは収まるわけがない。
「このまま安藤が出てこなかったらどーすんだよ」
「え、やっぱり私のせいにするの?」
「お前しかいないだろうが。大体お前が誤解を招くようなことをしなければ、こんなことにならなかった」
「しかも、あの子は匠哉の力のことを知っていた、から余計に?」
「じゃなかったら、何でこんなことするんだよ」
「匠哉が情けないから。ちゃんとしないから、じゃない?」
匠哉は黙り込んだ。
そして、小さくため息をつくと、帰るぞ、と言って階段を降り始めた。
由比は慌てて匠哉を追いかける。
隣に並ぶと、匠哉は小さく呟いた。
「俺の、せいか」
由比は優しく匠哉の肩を叩いた。
大丈夫だよ、と呟きながら。
放課後になり、そろそろ教室にも人がいないだろうと思い、屋上を出ようとした。
が、案の定なかなか鍵が開かない。
何度か鍵を回してみるが、どうも上手くいかない。
雪乃には先に帰ってもらったし、誰も待っている人はいない。
慌てずにゆっくりすれば、いつかは開くだろうと、何度も鍵を回してみた。
数十回目になった頃、既に辺りは暗くなっていた。
ドアのすりガラスから光が微かに漏れる。
そろそろヤバイかな、と思ったとき、また人が来た。
今度ははっきりと分かった。
……渡瀬と眞琴だと思った瞬間、思わず昼間ずっといたあの場所に隠れた。
そこはもう真っ暗で、目を凝らさなければ見つからないだろう。
そう思ったとき、ドアが蹴破られる音がした。
梨歌は思わず驚いて飛び上がる。
……そんな力が2人の何処にあるのだろう。
「安藤っ!」
「ダメ、匠哉。ちょっと待って、灯りが無くっちゃ……」
そっと壁から覗いてみると、ペンライトのような灯りが灯った。
誰もいない柵の方を1通り照らした後、こちらに光が当てられた。
梨歌は急いで顔を引っ込めた。
だんだん近づいてくる。
梨歌は反対側に回り込み、様子を伺いながら入口の方へ向かった。
入口の所に由比がいたが、運良く違う方向を見ている。
そっと校舎に入ると、あとは音なんてお構い無しに急いで階段を駆け下りた。
「匠哉、こっち!」
由比が急いで匠哉に知らせている声を聞きながら、梨歌は走った。
*
急いで鞄を引っ掴むと、そのまま家まで走った。
家に着くと、母が不思議そうにしていたが、気にせずに部屋に閉じこもった。
「何、してんだろ。これじゃまるで犯人みたいじゃない……」
梨歌は息を切らしながら、ドアに沿うようにして座り込んだ。
笑いがこみ上げてくる。
同時に、涙も流れる。
「バカ……」
梨歌はそう呟いて、膝に顔を埋めた。
*
「あーもう、逃げられたじゃない」
「お前がちゃんと見てないからだろ……」
「匠哉の足が遅いせいよ」
道の途中で梨歌を見失い、匠哉はその場に立ち尽くした。
弾む息を整えていると、由比が自分の鞄と匠哉の鞄を持って、匠哉に追いついた。
「なら、お前が追いかけろよ」
「それじゃ、意味ないじゃないの。……てかさぁ、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないの?ドアも蹴破ってあげたんだし」
「……何をだよ」
「あの子が、好きかどうかを、よ」
由比は微笑みながら言った。