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「だから、たまたま同じ学級委員なだけです」
「学級委員なだけ?じゃあなんで街中で抱き合ってたっていう噂が流れるんだよっ」
先輩に突き飛ばされて、背中をコンクリートの壁でぶつけた。
痛みが鈍く走る。
そんな中で梨歌は考えていた。
街中で抱き合う?
そんな覚えはない。
ただ倒れた匠哉を街中から運んだことはある。
でもそれは3ヶ月も前の話だ。
何故今更そんな噂で痛い目に合わなければいけないのだろう。
「見たって奴がいるんだよ。堪忍して、土下座でもすれば?」
「……何故、3ヶ月も前のことを今咎めるんですか」
「最初は私らも信じてなかったんだよ。だいたいこんな平凡なあんたが渡瀬くんの相手などしてくれるはずもないじゃない。でもさー、クラスで話してる女子ってあんただけだし?それに中等部の時は結構やってくれてたみたいじゃない」
「まーそんなことはどうでもいいけどさ、謝らないの?」
「謝る必要はないと思います。ただの先輩の勘違いですし」
そこまで言うと、今度は腹に蹴りが入った。
その場にうずくまりそうになったが、それも先輩の手によって阻まれた。
「先輩に逆らう気?あのね、ファンクラブの間では抜け駆け厳禁っていう決まりなの。入ってない奴は入ってない奴で、ファンクラブの人のために遠慮するのが常識なんじゃない?」
「そんなこと、知りません。別にどうだっていいじゃないですか。渡瀬は私のクラスメイトです。話をするのも当たり前でしょう?学級委員だから話す機会は多いかもしれないけど、それは仕方がないことで、それくらい先輩でも分かると思いますが」
梨歌は精一杯先輩を睨みつけて言った。
ここで負けるわけにはいかない。
どうして、と聞かれても答えることはできないが、負けることだけは絶対にダメだと思えた。
梨歌の挑発的な目を見て、先輩はもっと怒りを高めたようだ。
今度は大きく手を振りかざされる。
殴られる、と歯を食いしばった時、誰もいないはずの屋上から声がした。
「そこら辺にした方がいいんじゃないですか?先輩」
「わ、渡瀬くんっ……」
梨歌の胸倉を掴んでいた手を離して、梨歌を隠すように立った。
支えを無くした梨歌はその場に座り込んでしまった。
「な、何のことかしら。私たちは可愛い後輩とお話してただけよ」
「そんな風には聞こえてませんでしたけど。どっちかって言うといじめてるように聞こえました」
「ち、違うわ。怪我している彼女の話を聞いてあげてたのよ。……あら、もうこんな時間。私たちはもう行かなくちゃ。では、あなたも気をつけてね」
何事もなかったように梨歌に微笑みかけ、先輩方は屋上を後にした。
梨歌は安堵のため息をつく。やっと、終わったか。
制服についた足形を叩くように消しながら、よろよろと立ち上がった。
まだ痛みは残るけど、歩けないほどでもない。
屋上を出るために歩き出そうとすると、後ろから腕を掴まれた。
「……ごめん、俺」
「触らないでよ。触ったら、分かっちゃうんでしょ?やめて」
梨歌がそう言うと、匠哉ははっとしたように腕を離した。
そのまま2人の間に沈黙が流れた。
梨歌は壁にもたれかかり、それに沿うようにして座り込んだ。
早く帰ろうと思ったが、なんとなく帰ってはならない気がしたから。
少し間を開けて、匠哉も梨歌の隣に座り込んだ。
「やられちゃった」
「……ごめん。俺のせいで」
「女の執念がどんなに怖いか分かったでしょ」
「あぁ、すっげー怖いな」
梨歌が可笑しそうに笑うと、匠哉も笑った。
それからまたしばらく沈黙が流れて、少しだけ涼しい風が2人の傍を吹いていった。
「ありがとね、助けてくれて」
「いや、俺も最初から聞いてたのに……遅くなって」
「いいって。まぁ蹴られたときはちょっと焦ったけど」
「……痛い、よな」
「まだ少しだけ。あーぁ、痣になったらどうしてくれるんだろ」
嫌味っぽく梨歌は呟いた。
本当に、どうしてくれるんだろう。
まだ顔じゃないだけ感謝しなければいけないのかもしれないが。
それでも、隠せるところだとしても、それを見れば痛みを思い出す。
何故こうなったのかも、ずっと痣が消えるまで。
「俺さ、妹がいるんだよね」
「は?」
あまりにも唐突なことに、梨歌は唖然としてしまった。
いきなり何を話し出すんだろう。
「2つ下で、今アメリカで療養中。父さんも母さんもそっち行って、俺は今1人暮らし。まぁそれはどうでもいいんだけど。……妹も俺と同じなんだ」
同じ、触れれば何でも感じて、分かってしまう。
居場所のない世界で生きている、仲間。
梨歌は静かにそれを聞いていた。
その話を途切れさせてもいけないし、聞かないままでいるのもいけないような気がした。
「俺が年上な分、アイツより分かることも多いだろ?だからアイツのために生きて、俺と同じような道を歩かせないようにしなきゃいけない。本当に無邪気で可愛い子だから、それを失うことだけは絶対にしたくないんだ。……だから、いろんなことしてきた。毎日のように人を傷つけてきたし、自分を傷つけるのも日常茶飯事だった。でもやっぱり傷つけたくなくて。人も自分も。そしたらだんだんと人と付き合うことがわからなくなった。これじゃ、アイツに何もできないのに」
「出来なくて、いいんじゃない?」
梨歌がそう言うと、匠哉は少しだけ視線を上げて続けた。
「ダメだよ、同じ目に逢わせたくないんだ、あの子だけは」
「それでも、渡瀬が傷つかなくてはいけない理由はないよ。その子はその子なりに、自分の幸せを見つけられるよ。だって渡瀬の妹でしょう?渡瀬がそうやって守り続けてたら、その子は強くなれない。余計に傷つくだけだよ」
「お前に何が分かるんだよ……っ」
匠哉は辛そうに言った。
そして、膝に顔を埋める。
梨歌はその様子を痛々しく思ったが、言葉を続けた。
「渡瀬がその子を大切に思っていて、守りたいのも分かる。けど、その子だって渡瀬と同じように、渡瀬の将来を祈ってる。私は渡瀬とその子のような力は持っていないから、わからないけど。でもこうやって、私が渡瀬に触れて、渡瀬が私の考えていることが分からなかったように、その子にもそんな人が現れて、自分でこの力をどうにかしようとするよ。その時に渡瀬よりもその人の方が力になれる。渡瀬はどっちにしろ、何も出来ないんだよ、その子のためには」
梨歌は匠哉の肩にそっと手を乗せた。
小さくその肩が動いたが、梨歌はそのまま優しくその肩を撫でた。
「渡瀬はよくやったよ。だから、これからはその子のために、自分の幸せ見つけなきゃいけない。こんな力があったって幸せになれるんだって教えてあげなきゃ。そっちの方が大切だと私は思うよ。……もう、渡瀬は傷つかなくていいよ」
梨歌はそこまで言うと、黙り込んだ。
まだ手は匠哉の肩を優しく撫で続けている。
ずっとその沈黙は痛いものだったのに、今はとても優しく流れていた。
夕焼けが綺麗に空を染めていく。
それでも梨歌たちはまだ口を閉ざしていた。
梨歌は夕日を眺めて、匠哉は肩に触れる手を想う。
不思議と時間は速く流れていて、あれから1時間以上経っていた。
「……そろそろ、帰る?」
「ん……そうだな」
梨歌が匠哉から手を離すと、匠哉は顔を上げた。
目が少しだけ赤いのは気のせいだろうか。
もしかしたら、夕日のせいかもしれない。
「……ありがとな」
「え?」
「現実、押し付けてくれて」
あぁ、と頷いたのはいいが、それはお礼を言われるモノだとは全く思えなかった。
普通押し付けられたら、怒るはずであって、感謝できるはずがない。
でも、なんとなく匠哉の言いたいことは分かった。
うん、ともう1度頷くと、匠哉は嬉しそうな顔をした。
「妹さんに会いたいかも」
「あぁ、たぶんここ受けると思うから、会えると思うよ」
2年後になるけどな、と匠哉は空の向こうを見つめて言った。
丁度その方向には太平洋があって。
もう少し遠くに進めば、匠哉の妹がいるアメリカがある。
とても遠いけど、こうやって見るととても近く思えた。
今、この兄妹を隔てているのは大きな海しかない。
「じゃ、先に帰るね。また勘違いされたら困るし」
「あぁ。じゃ、また明日」
「うん、バイバイ」
梨歌は手を振りながら、屋上を後にした。
これからのことは分からない。
勢い余って匠哉にあんなことを言ってしまったけど。
じゃあ、俺はどうしたらいい?と聞かれなくて正直安心した。
たぶん聞かれても答えられなかったから。
自分の考える幸せと匠哉の考える幸せは全く違う。
力を持っている匠哉は、正反対と言ってもいいくらい自分の考える幸せと違うんじゃないだろうか。
本当に些細なことが幸せにつながるのではないだろうか。
自分が匠哉の幸せを見つけれることは出来ない。
手伝うことも出来ないだろう。
でも。
匠哉の考える幸せに自分が存在していればいいのに、と儚い願いを持ってしまった。
「梨歌っ!」
校門まで来ると、雪乃が心配そうに立っていた。
あれからずっと待っていてくれたのだろう。
梨歌は嬉しくなって、思わず笑ってしまった。
「何、笑ってるの!心配したんだよ、先輩はとっくに帰ったのになかなか梨歌は出てこないし」
「ごめん、ごめん。渡瀬に説教してたら、遅くなっちゃった」
「説教してたって……あんたねぇ」
呆れた様に言う雪乃にもう1度謝って、校舎の方に振り返った。
たぶん、もう屋上から出て行っただろう。
でも、なんだかそこにいるような気がした。
「何見てるの?」
「何でもない。あーぁ、アイツには関わらないって決めてたのに。結局関わっちゃってるし」
「だね、同情しちゃうよ」
「でも……よかったかも」
「え?」
「あーもしかしたら」
梨歌は歩き出しながら空を見上げた。
雪乃は不思議そうにその後に続いた。
しばらく考え込んでいるようだったけど、突然ヤバイことを考え付いてしまったように慌てて言った。
「あんた、も、もしかして!」
「どうしたの、雪乃。もっと落ち着いて話してよ」
「渡瀬のこと……っ」
とても心配そうに話す雪乃を見て、その後の言葉はだいたい予想はついた。
そのもしかしてだよ、と言おうと思ったけど、辞めた。
これはまだ胸の奥にしまっておくべきだと思うから。
「変な心配しないで、今からケーキ食べに行かない?」
「え、今から?!」
「いいじゃん、行こうよ。塾も休みでしょ?」
「そーだけど……ま、いっか。じゃあ梨歌の奢りね!」
「OK、心配かけちゃったし、どーんと奢りますっ」
梨歌と雪乃は笑いながら、歩いて行く。
もうすぐ太陽は沈んでしまうけど、まだそれまで時間はある。
その短い時間を大切にしようと思った。
今はまだ暗闇にいるだろう、匠哉とその妹のためにも。
なんだか不思議とその妹と仲良くなれそうな気がして、とても2年後が待ち遠しく思えた。
梨歌が屋上を去った後、匠哉は柵に持たれかかり、校門を見下ろしていた。
暫くすると、校門に立つ女子生徒が走り出す。
すぐに校舎側から、その友達が走って来た。
「安藤、か」
つい先程まで隣にいた彼女が、何事もなかったかのように友達と笑っている。
梨歌には、梨歌の生活があって。
こんな自分が彼女の生活の中に存在していいのか、分からない。
だけど。
彼女の中だけでもいいから、存在していたいと願ってしまう。
「わがまま、なんか言ってられないよな、俺なんかが」
ぎゅっと拳を握り締めて、目を閉じた。
そして、自分に言い聞かせる。
……何も、求めちゃいけないんだ。
特に、梨歌だけは。
純粋で綺麗な彼女は、自分に釣り合わない。
彼女を自分の運命に巻き込んではいけない。
匠哉は、そっと目を開けた。
ふと、校門にいる梨歌がこちらを振り返る。
「え……っ」
匠哉は驚いたように、柵に顔を近づけた。
……今、こっちを見て、笑っていた?
自分に向けられたものじゃない、と心の何処かで分かっているはずなのに。
匠哉はその一瞬に捕らわれる。
「……はは、何してんだ、俺」
梨歌の姿が見えなくなってから、匠哉はその場に座り込んだ。
……本当にどうかしている。
さっきのだって、偶然こちらを見ていたように見えただけかもしれない。
それなのに、こんなにも。
こんなにも、胸が高まるなんて。
こんなにも、有り得ないことに心が弾んでいるなんて。
勘違いして、また1人になるのが目に見えているのに。
自分はまた同じことを繰り返そうとしている。
「好きだ……梨歌」
誰もいない静かな屋上に、匠哉の声だけが響く。
その言葉は、誰かに届くこともなく、風に消された。
まるで今までの自分のように。
まるで、これからの自分のように。
匠哉はゆっくりと立ち上がった。
辺りはもう薄暗くなっている。
西の彼方は、まだ赤い世界が広がっているけれど。
だんだんと紺に染まっていく空を見上げて、匠哉は小さくため息をついた。
「片想い……か。何年振りだろ」
叶うことのない想いに苦笑しながら、匠哉は屋上を後にした。