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1-2

 翌朝、風が高いところの雲を吹き払っている。狼の足跡は、自分が踏んだせいか、蹴散らされ、残っていなかった。

 震えていても、仕方ない。ましろは水を汲みに出かける。

(今日こそは、お母さん、帰ってこないかな)

 小枝を踏む。その音に驚いて小鳥が逃げる。

 考えごとに沈んでいて、気づかなかった。

 ふと目をあげる。

 深い藪の横を、斜面に沿って山道が通っている。その、まっすぐ先に、灰色に見える、大型の獣がいた。

 息を吸い込み、ましろは足に力を入れる。

 木漏れ日で、ちらちらと、獣の表面がまばゆく輝く。獣は、太い四つ足で地面を踏み、軽快に歩いてくる。

(狼……!)

 こちらが気づくのに遅れて、狼が顔をあげた。怪訝そうに。やがて、目を見開いた。

(まずい)

 ましろは慌てて、逃げだそうとしたが、体が硬直して動かない。

(大丈夫、きっと、こっちが手を出さなければ……それと、向こうが飢えていなければ、噛まれたりしない……と、いいな)

 震えながら、ましろは桶を握り直した。

 いざ飛びかかられたら、桶を盾にするつもりだ。だが、あの太い足、ちらりとのぞいた舌と牙の大きさを思うと、戦える自信なんてひとかけらも残らない。桶なんて、きっと粉々になってしまうだろう。

 狼が目を細める。その吐息が、はっきりと聞こえる。

(だめだ)

 狼が、こちらに関心を持ったようだ。ましろが目を逸らしたのに、狼の視線が離れてくれない。

 狼からできるだけ遠ざかろう。じりっと、ましろは斜面に寄る。狼が、一瞬唸り声をあげた。

 桶を構えたとき、ましろの爪先が空を切った。崖に近づきすぎて、足を滑らせたのだ。一瞬の浮遊感、直後にばさばさと派手な音が、肩と耳元、全身を覆い尽くした。

 受け身も取れず、ましろは斜面を転がり落ちた。ひどく長い間、転がった気がした。実際にはほんのわずかな距離であったらしい。

 目を開けると、二、三歩で登れる位置に、先程までいた道があった。

(痛い……)

 ふんふんと、鼻息がましろの頬に当たる。

 何だろう、と穏やかな気持ちでそちらを見て、肝がつぶれた。

「嫌っ」

 先程の狼が、至近距離でましろを見ていた。灰色に見えた獣は、近くだと、真っ白に輝いている。太くしっかりとした毛並みが、今にもましろを突き刺しそうだった。

 無駄だと思いながらも、腕を振り回して、ましろは這って逃げようとした。狼は、ふんふんと鼻面を寄せてきて、離れない。

「なっ、何なのよ!?」

 苛立って叫ぶと、狼は再び首を傾げた。

 見た目は立派な狼だ。それなのに、その仕草は、身近な小鳥みたいな、危険性のない生き物のようである。

 ましろは、近くにあった小石を掴んで投げつける。狼はひょいひょいと逃げるが、離れていかない。近づいてもこない。

 ましろが、だんだん妙だなと思い始めていると、狼は首を傾げたまま、舌を出した。

「お前、親父殿の匂いがする」

「親父って、私そんな歳じゃないんだけど……! え?」

 遅れて、理解が追いついてくる。狼は再度、若い青年の声で喋った。

「親父殿の、落とし子か」

 うんうんそれでか、と独り合点して、狼は頷いている。

 ましろはどうにか、開いたままになった口をいったん閉じた。が、すぐに開け閉めした。

「貴方、何」

「何、って」

 狼は反対側に首をひねった。

「狼だが。山犬と呼ぶ者もいるな」

「見れば分かるわよ! そうじゃなくて、何で、どうして喋ってるの!」

「お前が、親父殿の子だからじゃないのか?」

「は?」

 親父、って。何?

 束の間、ましろはぽかんとした。

「貴方のお父さん? 狼じゃないの?」

「狼だが。一族を率いる、立派な狼だった」

「おかしいでしょ! 私、そんなものの子じゃないし! 第一、そうだったとして、貴方が喋ってる理由にはならない」

「俺は人の言葉も話せるが。今は狼の言葉で話している。狼の言葉がお前に分かるのは、お前が俺の親父殿の子だからだろう」

「どういう意味」

「お前、狼の子じゃあないか。狼の話す言葉を、理解できてもおかしくはない」

 狼が呆れ気味に、ましろを見やった。視線が、ましろの顔よりも少し上に行く。そこにある、ふさふさと毛の生え揃った自前の耳を、ましろはとっさに片手で押さえた。

「違う! 私のこれは、そんなんじゃない」

 これほど立派な耳と尾を持っていて、自分が普通の人間だと言い張るのも難しい。

 狼ではない理由を説明する言葉は、あまり思いつかなかった。

「とにかく! 私の親は人間なの!」

「そうか? お前が知らないだけかもしれないぞ」

 狼は落ち着き払って答えると、ぱたり、と一度しっぽを揺らした。

「まぁいい。ほら、いつまでも座っていないで立て。怪我はないか」

 狼が頭を押しつけてくる。肩と頭で、ぐいと力強く押されて、ましろは簡単に立ち上がれた。

「うちはどこだ。送ってやろう」

「どうして。いらないわよ」

「危ないだろう。ほら!」

 狼を振り払って逃げようとしたが、ましろはすぐ横の崖をまた踏み外した。ずず、と土がえぐれる。

 草を掴んだが引き抜けた。狼がましろの体の下に滑り込み、全身で踏ん張って、止めてくれた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 まるきり力みもない、飄々とした狼の様子は、ましろを拍子抜けさせた。

(狼って、もっと怖いものじゃないのかしら)

 近くで見ると、恐ろしげな顔をしているのに。喋るときにちらりと見える牙は、ましろの顎の骨なんて簡単に噛み砕いてしまいそうなのに。触れると温かい。そして、優しい。

(変な狼)

 狼が首を傾げた。

「ところで、お前、名前は?」

 ましろは、相手をじっと見つめる。相手も、じっとましろを見つめ返した。

 相手は、初対面で、しかも狼で、人間のように話す輩だ。

(怪しすぎる)

 名前など、言わなくてもいいだろう。

「助けてくれたことには、お礼を言わなくちゃいけないけど。それとこれとは、別」

「名前を名乗ったからといって、呪ったりしないぞ? 人間の中には、狼を呪術師か何かと間違えて、まじないをかけてくれと祈ってくる奴もいるが、まじないとか、そういうことをするのは人間だけだ」

「そう言うと、かえって怪しいんだけど」

「俺が先に名乗ろうか? 俺は白露王はくろおうと言う」

「はくろおう?」

 そうだ、と狼が頷いた。

「白い露。真白い狼の一族。四つの氏族の中でも、もっとも強くて大きな狼だ。親父殿もそうだった」

「貴方のお父さんって、この山に住んでいるの?」

「住んでいた。もういない」

 どうして、だとか、何匹くらい住んでいるのかとか、聞いてみたいことが沢山、ましろの胸に兆してきた。落ち着いた声音を聞いていると、何だか狼と話している感じがしない。

「あ」

 ひや、と、胸底に刃みたいな違和感が甦る。

 狼なら――もしかしたら。

(お母さんの、ことを)

 知っているんじゃないだろうか。

 信じるわけではないけれど、もしましろが、狼の血を引いているのなら。母のことを、狼は見たことがあるのではないか。

 もしかすると、小屋を出て、帰ってこない母の、足取りの一部でも、知ってはいまいか。

「あの……」

「ん? どうした」

 ふさふさした尾が、ましろに触れる。

 ましろの尾よりも立派で、耳もましろより大きい気がする。

(何だか、現実味がない)

 狼が喋るなんて、化かされている気がする。

「……何でもない」

 狼に途中まで送られて、ましろはよく分からないまま、小屋に帰った。

 夜更けに雨が降ったが、雨漏りを避けているうちに、眠ってしまった。

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