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序章

序章

 不思議なものを、見たことがある。

 それは真っ白な雪のようだった。

 茂みの向こうで、空を見上げている。かすかに見えた牙。すらりとした体躯。

 白い狼だった。

 逃げだそうと思ったけれど、できなかった。なぜか、それほど恐ろしいとは思えなかった。

 風が吹く。見間違いか、風で茂みが揺れた後は、狼と別のものが立っていた。

 全てを見透かすような、透明な眼差し。精悍な頬。手足は長く、大人のようだ。白地に赤の糸で施された、細緻な刺繍の帯を腰に巻いている。

(人間?)

 この辺りでは見たことのない人は、凛と、涼しい顔で、山を渡る風を見ていた。

 やがて、背を翻して行ってしまった。

 そのことは、結局誰にも言わないまま、忘れてしまった。

 ――いいこと?

 母の柔らかな声が、ましろの耳をくすぐる。

 ましろの母は、機織りでは誰にも引けをとらなかった。

 夜空のような紺色。光る星々のような祈りの紋様。クチナシで染めたうす紅、黄色の変わり紋様。それらが生み出されるのを、ましろはわくわくして見守ったものだ。

 その日も、母の荒れた指先が、ましろの頬をそっと撫でた。

 ――母さんは出かけてくるけれど、むやみに遠くへ行ってはだめ。本当に危なくなったら、村に頼るのよ。本当なら村で、みんなで暮らせるのに。ごめんなさいね。

 そう言って、母は悲しそうな顔をする。だから、ましろは、母さんのせいじゃないよと言ってやる。幼い頃からずっとそうしてきた。

「本当に、大丈夫だってば」

 そう告げて、ましろは母を送り出した。

 母は、織物を籠に詰めて、心当たりの知人のところへ売りに行くのだ。ましろだってついていきたい。けれど、村にいられない原因を思うと、外に行くのは躊躇われた。

「気をつけてね」

 これまでに何度も、母を送り出してきた。だから今度も、帰ってくると信じていた。

 山里の村で、飼われていた山羊が逃げ出した。山際の畑にいた男が、ようやく見つけて、捕まえようと身構える。そのときだった。山道すらない、緑深い木々の間を、何かが音を立てて、駆け下りてくる。

 それは唐突に途切れた茂みから、やはり唐突に転がり落ちてきた。男は悲鳴をあげる。それから、気を引いてしまったことを恐れて口を押さえ、鍬を握って後ずさった。

 相手の獣は、牙をむいて一瞬、白い呼気を吐き出した。一瞬後にはもう、驚いて硬直した山羊の喉元に食らいつき、引き倒している。山羊の足が暴れ、空をかく。何度も何度も。

 獣は一頭だったが、すぐに、斜面のシダを踏み蹴る音が連なった。他にも、複数いるようだ。柔らかな白の毛が、外側にゆくに従って堅くなり灰色になる、大柄な獣だった。

 男は武器となる鍬を手放さずに、しばらく走った。だが、相手に吠えつかれ、武器を手放して全力で駆けだした。

「狼だ! 狼が出たぞ!」

 狼達は悠然と、男の後ろ姿を見送った。

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