零れ話〜晴天の霹靂、または鬼の霍乱〜
先日の活動報告にてお知らせしておりました、新年のご挨拶替わりの小話です。
『里帰り』中のほのぼの(?)エピソードとなっておりますので、のんびりゆったり、お暇なときにでもご覧くださいませ〜。
それは、後宮再編のため、一月半ほどの『里帰り』期間に起きた、ある意味でクレスター家を大きく揺るがす大事件だった。
「ああいうのを晴天の霹靂、もしくは鬼の霍乱って言うんですよね」
後に当時を振り返った侍女リタは、遠い目をしてそう語る――。
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普段ろくな寝床で寝ない人間が、たまにふかふかの寝台で眠ると体調を崩す――という俗説は、ディアナも聞いたことがあった。
が、それがまさか、真冬に川へ飛び込んだところでぴんしゃんしてそうな輩に当てはまるなど、誰が想像しただろうか。
ディアナの『里帰り』に合わせ、ようやく全快した父親と顔を合わせて話をしようと共にクレスター領を訪れたカイに、ディアナはこれまでの感謝も込めて、最上の客間を提供していた。「いや、却って落ち着かないから」と辞退する彼に、「言っとくがウチの天井裏は『闇』専用だから使わせないぞ」とエドワードが分かり難い気遣いを発動させ、結局客間に落ち着いたワケだが。
朝になっても姿を見せないカイに、「いくら何でもアレが他人様の家でここまで寝過ごすとは思えない」と父親である黒獅子、ソラが言い出した。そう言われてしまってはディアナも心配になり、ソラと共にカイが眠る客間を訪れた……のだけど。
「これ……まずそう、ですか?」
「明らかに病人の呼吸ですね……」
ソラはもちろんのことディアナも、扉を挟んだ部屋で眠る人間の異常くらい感じ取れる。呑気にノックする手順をすっ飛ばして扉を開ければ案の定、奥の寝台で掛布を被ってぶるぶる震える物体とご対面した。
まさかカイが、とディアナが一瞬唖然となった間に、ソラは寝台の近くまで移動する。
「カイ……?」
「ん、と……とう、さん?」
「お前、どうしたんだ。何か悪いものでも食べたのか?」
「わっかんない……あれー、この部屋、さむい?」
「寒いのか。よし、薪を持ってくる」
「――あの、いえ、ソラ様。まずは換気をいたしましょう?」
自慢ではないが動植物の薬効に無駄に詳しいディアナは、関連知識として病気にも精通している。事実昨日は、ソラがどんな病でどの薬草が有効だったのかの話になった際、「……その病にマルハバソウなら、煎じるよりも乾かして粉末にしたあと、山羊の乳と混ぜて飲んだ方が効果が高まるのに」と呟いて、ドリー医師をひっくり返らせた。ものすごく今更だけど、そしてディアナにとってはごく当然の知識なのだけど、実のところは文献にも一切載っていない接種法だったらしい。
――と、そんなディアナがぱっと診た限りでは、寝台の上で丸くなるカイは典型的な風邪に見える。確かに部屋を暖めるのも大切だけれど、その前に適度な換気をしなければ、病原菌が逃げてくれずに循環するばかりだろう。
扉をぱたんと開け放し、隣室に続く扉と窓も開けて、ついでに廊下の窓も手際よく開けてから、ディアナは机の上の鈴でリタを呼んだ。
呼ばれたリタは途中で事情を察していたらしく、意外なものを見る目で寝台を眺めている。
「まさかとは思いましたけど……ちゃんと人間だったんですね」
「こら、リタ。失礼よ」
「ですけどディアナ様、不眠不休で分身してるって言われても信じてしまうほど、神出鬼没な存在ですよ。そこで丸まってるお方は」
「そこは否定しないけど、こうして風邪ひいてるんだから、ちゃんと人間でしょう。分かり切ってることを敢えて言わないの」
「人外でも風邪ってひくんですかね?」
「あー、動物の中にはひく子も……って違う! 診療箱取ってきて!」
「そう仰るだろうと思って、さっきシリウス様に」
「……リタ、お前な。分かってるなら自分で取りに行け」
ディアナの診療箱を持ってきてくれたシリウスは、いつもの黒装束とは違うごくごく普通の町人服だ。少しかっちりした型なので、頑張ればぎりぎり貴族の家に仕える従僕に見えないこともない。
ちなみにクレスター主従が馬鹿な会話を繰り広げている間、ソラは一見冷静なまま、「さむい」を訴えるカイを暖めるべく、隣室の掛布やクローゼット内のガウンなどを勝手に拝借し、ひたすらカイに積み上げていた。
シリウスがちらりとその現場に視線を流し、一瞬沈黙してから静かに口を開く。
「……ソラ殿。非常に言いにくいのだが、そこまで積んでは逆に身動きが取れず、カイが苦しいのではないか?」
「そ……そうでしょうか?」
「おそらくは体温が上がりすぎて、相対的に室内を寒く感じているのだろう。暖めてやるのも大切だが、まずは適切な診断を受けて、薬を飲んではどうだ?」
「しかし。適切な診断と申しましても、私には医者を呼ぶだけの金が……」
「……素人診断でよろしければ、わたくしが診ます。正規の医者ではございませんので、もちろんお代は頂きません」
ものすごく落ち着いて見えるのに、クレスター家に客人として滞在しておきながら医療費を心配する辺り、実のところソラは全力で慌てているらしい。普通に考えても、屋敷に滞在する客が体調を崩したら、その面倒を見るのは主人側の役目だろうに。
ディアナの申し出にソラが瞬きをした隙を逃さず、リタが口を挟んだ。
「ご参考までに申し上げますが、ディアナ様は幼い頃よりクレスター領の町医者連盟の方々に師事され、免許皆伝のお墨付きを頂いております。それ以降、この屋敷で誰かが倒れた場合は全部ディアナ様が最初の診断をして、治療をして、お医者様に来て頂くほど重篤な状況にはなっておりません」
「それは大袈裟よ、リタ。たまたまわたくしの手に負える範囲だったってだけ」
「はいはい。今はその謙虚さ、引っ込めといてください」
謙虚というかただの真実なのだが、少女二人のやり取りはソラに、頼んでも大丈夫だという何らかの根拠を与えたようだ。
黒曜石の瞳にじっと見つめられ、ディアナはなんだか座り心地悪くムズムズする。……もしかしてこれは、「先生、ウチの子をお願いします!」的なアレだろうか。
「……お願いできますか、末姫様」
「えぇ、もちろん。ご安心ください、ソラ様」
まんま言われ、思わずディアナは昔習った「子どもを担いで駆け込んでくる親向けの笑顔」を浮かべてしまった。アレは確か幼児向けの診療を習う一環だったはずで、今高熱を出しているのは自分とそう年の変わらない男性なのだけれど。
ソラが陣取っていたカイの枕元を譲ってもらい、聴診器を片手にディアナはカイの肩をぽんぽんと叩いた。
うっすら目を開けるカイに微笑みかければ、反射なのかふにゃりと笑い返されて、顔が綺麗な分無駄にどきどきする。
「カイ。私が分かる?」
「うん、ディー。どしたの?」
「えっとね。あなた今、すごい熱だって自覚ある?」
「えー、熱? 確かにあつい……あれ、なんか重い?」
「よし、ひとまず寒いのは大丈夫そうね」
ソラの努力をさり気なく認めつつ(これも幼児診療で教わった大切なポイントだ)、ディアナはまず脈を取りつつ体温計を挟んで、正確な体温を把握した。四十度近い高熱だと判明し、そりゃー意識も朦朧とするわと納得してしまう。
積み上がった掛布の類を崩さないよう注意しつつ、聴診器で呼吸の音を聞いて。喉を見て、目を見て、大きく一つ頷いた。
「風邪ですね」
「まぁ、見れば分かることですが」
「風邪にしては、熱が高いのでは?」
シリウスの疑問には、少し考えて答える。
「おそらく、ずっとソラ様を助けるために気を張っていて、お元気な姿を見て安心したのでしょう。そこに加えて普段寝ないような寝台に横になったことで、これまで蓄積されていた疲労が一気に表へと出たのではないかしら?」
「要するに、風邪と疲労の両方が同時に来たと?」
「疲労の方は仮説だけど、目も赤いし肩も張ってるし、大きく外れてはないと思うの。寝床が変わると体調崩すっていうのは医学的に根拠のない俗説だけれど、馬鹿にできないから俗説として語られているわけだし」
説明しつつ、ディアナはこれからの段取りをぱぱっと組み立てた。
「シリウス、裏へ行って、薪をもらってきて。そろそろ換気も良いから、今度こそ部屋を暖めないと」
「はい」
「リタはお料理ね。……カイ、お薬飲む前に何か食べた方が良いんだけど、温かいのと冷たいの、どっち食べたい?」
「つめたいの、かなー」
「冷たい方ね。甘いのとしょっぱいのなら、どっち?」
「あー……甘いの食べたいかも」
「甘くて冷たいの、ね。分かったわ。お薬と一緒に持ってくるから、それまで休んでて」
「厨房行って、相談してきます」
「お願いね。あと、疲労に効くいつものお茶に砂糖を入れて、適温に冷ましておいて」
「かしこまりました」
ディアナの指示で、シリウスとリタはそれぞれ部屋を出ていく。それぞれが別の出入り口から出て、きちんと扉を閉める辺りさすがだ。
残った部屋の窓を閉めつつ、ディアナは再びカイの枕元にカムバックしたソラに視線を戻した。
「ソラ様。わたくしも失礼して、お薬を調合して参りますね」
「あぁ、はい。……あの、末姫様」
「なんでしょう?」
再び真剣に見つめられ、微笑んで小首を傾げると。
少し逡巡してから、ソラが口を開いた。
「本当に、ただの風邪なのですか?」
「はい?」
「あぁ、申し訳ありません。末姫様を疑っているわけではないのですが。……この子がこんな高熱を出すのは、今までになかったもので」
……確かに、リタが目を丸くするくらい、カイと熱は結びつかない事象ではあるが。人間である以上、絶対にないとは言い切れないだろう。
ソラとディアナはほぼ昨日が初対面。ディアナは何となくカイのように飄々とした読めない人を想像していたが、実際に会ったソラは黒曜石の瞳に誠実さを映し、深い度量と穏やかさを併せ持ちつつ冷静な視点を失わない人だと感じられた。
見識も豊かで、どんなことにも動じない人だと、何故か勝手に思い込んでいたけれど。
(動揺していらっしゃる……だけよね? まさかとは思うけど、私の知らない重病だったり……?)
俄に不安がこみ上げつつ、いやいや、医者が患者につられて不安になってはいけないと言い聞かせる。
ソラと目を合わせて笑いかけた。
「先ほども申しましたが、疲労で体力が削られているところに風邪になってしまったせいで、いつもより抵抗力が落ちているだけでしょう。体力回復のお茶とお薬を飲んで、熱で体力が奪われすぎないように熱冷ましも用意しますから。ゆっくり数日休めば、またいつものように元気になります」
「そう、ですよね……。すみません。子どもの頃から丈夫で、風邪などあまりひかない子だったものですから、つい心配になってしまって。私自身、この間まで倒れていた身でおこがましいのですが」
「おこがましいなんて。息子さんが高熱で心配なのは、当たり前のことではありませんか」
穏やかに話しつつ、そういやカイも、ソラがある日突然倒れたことで動揺して、ろくに仕事内容を確認しないまま出向いた結果が後宮だったな、と思い出した。親子揃って互いの体調不良に動揺しすぎだろう。まぁ、ソラの場合はマジメに珍しい病気だったから、カイが焦ったのも分かるけれど。
……しかし確かに、ここまで高熱だと親御さんが心配するのも分かる。ひとまず熱冷ましは用意するけれど、薬の調合は少し時間がかかるし、念のため医学書を当たった方が良いだろうか。
頭の中はめまぐるしく動きつつ、あくまでも保護者を不安にさせない対応を心がけ、笑顔を崩さずディアナは口を開いた。
「カイもきっと、初めての高熱で大変だと思いますよ。せっかく親子水入らずで過ごせる機会ですし、傍についていてあげてください」
「そう……ですね。分かりました」
「ディアナ様、薪をお持ちしましたが……」
ナイスタイミングでシリウスが来てくれる。彼が暖炉に火をつけるのを手伝って、ディアナは笑顔のまま振り返った。
「では、ソラ様。カイの看病を、お願いいたします」
「はい」
「失礼しますね」
シリウスと共に廊下に出て、扉を閉じ。少し早足で歩き、客間が遠ざかってから口を開く。
「私、後宮暮らしで腕が鈍ったかしら」
「突然どうなさいました?」
「ソラ様がね、カイはあんな高熱出したことないし、本当にただの風邪なのかと心配されていて」
「……昔から思っておりましたが、ソラ殿は本当に、カイに対しては過保護ですな」
「そうなの?」
「クレスターを避けていた頃でさえ、『息子だけは恨まないで欲しい』とデュアリス様に直談判しにいらしたくらいです。正直私は出会った頃の印象が今でも強く、まさかあの『黒獅子』が子育てできるなんてと、見る度意外に思いますよ」
「わたくしから見れば、息子思いの良いおとうさまなのだけれど……」
「少なくとも、昔からは絶対に想像できない姿ですね」
苦笑して、ディアナの部屋の前でシリウスは足を止める。……他人にあれこれ言う割に、家の中で自然に部屋まで送迎する程度には、シリウスとてディアナに過保護だ。
「心配性な親馬鹿はひとまず置いて、どうぞディアナ様はお薬の調合を。万一ディアナ様の薬で熱が下がらなければ、そのときもう一度深刻に悩めばよろしいのでは?」
「それもそうね。ありがとう、シリウス」
「どういたしまして。では、私はこれで」
去るシリウスを見送って、よしと気合いを入れ直し、ディアナは久しぶりの調薬に取りかかるのであった。
■ ■ ■ ■ ■
一方、息子の看病を任されたソラは、普段は絶対入らない広い部屋の中、そういえば熱のときには頭を冷やすものだと思い出し、絞った布巾を頭に乗せるという基本作業を実行していた。
……ディアナはもとよりシリウスすらも予想していなかったことだが、基本的にいつも忙しかったソラは、カイが体調不良のときは知り合いに預けて仕事へ赴いていたため、本格的に息子を看病するのは初体験だったりするのである。
そもそもカイ自身丈夫な子で、子どもの頃から体調を崩すなんて一年に一度あるかないか。しかも少々の熱なら動いているうちに下がってしまうという、リタが聞けば「馬鹿は風邪ひかないの典型例ですね」の一言が飛んでくる冗談みたいな身体の造りをしているため、寝込むことが真面目にない。……とはいえそれはあくまでも、精神面体力面ともに安定していて、何かあれば助けてくれる父親がいる大前提に基づいての話。今回のように父親が倒れて、金稼ぎのために受けた仕事がクレスター相手の綱渡り、あれこれ動いているうちにクレスター家の末娘と良い感じになって――なんて激動の一年を過ごした経験は、さすがのカイにも存在しない。父親の病気を治すために一年間必死だった息子が、元気になった父の姿に安心してぶっ倒れても、別段不思議ではないのだけれど。
「こんなにすぐ布巾が温くなるのに、本当にただの風邪なのか……?」
如何せんカイ以上に冗談みたいな黒獅子は、彼を主役に長編小説書けるくらい波乱の半生を過ごしている割に、ついこの間死にかけるまで風邪一つひいたことがなかった。そのため、普通の人間は疲れたら熱が出るものだということも、『病は気から』という古今東西に通じる普遍的真理も、頭では理解していても実感として追い付いていない。
せっせと布巾を取り替える父をぼんやりした頭で眺めつつ、カイはいつの間にか、二人で過ごした幼い頃に立ち返っていた。こんな風に細々と世話された記憶は無いけれど、父の仕事にくっついていけないほど身体が重いときはいつも、仕事ぎりぎりまで父は傍にいてくれて、仕事が終われば飛んで帰ってきてくれたものだ。
(……けど、今日はほんとにだめ。からだ、ぜんぜん動かないや)
父もいつもよりカイが辛そうだと思うから、あんなに焦っているのだろうか。
ぼうっと父親の動きを眺めていると、ふと父が何かを持ち、部屋を出ていこうとしたのが見えた。……あぁ、もう仕事の時間なのか。
「い、くの?」
自分ではないような掠れた声に驚きつつ、動かない身体を頑張って起こす。戸口付近にいたソラが驚いて、駆け戻ってきた。
「何してる、カイ。ちゃんと寝てなさい」
「でも……とうさん、しごとに」
「仕事……? お前、何言って」
「ちゃんと、いってらっしゃい、しないと」
記憶が混濁する。……あぁ、そうだ。行ってきますと行ってらっしゃいは、ぜんぜん当たり前じゃなかった。いつの間にか省いて、自分のことばかりにかまけて、確かに一緒にいたのに顔を合わせて言葉を交わすことすらおざなりになって。
――もう二度と会えないかもしれない状況になってやっと、何気ない日常がどれほど尊い宝物だったか気付けたのに。
「ごめん、なさい」
「……カイ?」
「俺、もっとちゃんと、とうさんに言わないといけなかった。ありがとうも、いってらっしゃいも、おかえりも、言えてなくて」
「……そんなことを気にしていたのか。お前にだってお前の仕事があるんだ。忙しくて気が回らず、言葉にはできなくても、だから気持ちもないとは思っていないぞ」
「でも、とうさんが倒れたときだって、俺……!」
子どもの頃から自分を慈しんでくれる手が、優しく頭を撫で、背をぽんぽんと叩いて。
いつだって自分を守ってくれる父が、いつも通り優しく、その黒の瞳を細めて微笑んだ。
「もう、俺は元気だ」
「とうさん」
「今元気にならないといけないのはお前だぞ、カイ。……心配するな。お前が元気になるまで、ちゃんと傍にいるから」
「しごと、いかなくていいの?」
「……あぁ、大丈夫だ」
……そうか。今日は、父はずっと一緒にいてくれるのか。
その事実に驚くほど安心して、知らないうちにカイは、あどけない笑みを浮かべていた。
「よかった……うれしい」
「え……?」
「とうさんがいてくれるの、うれしい」
「そう、か?」
「うん。……わがままで、ごめんね?」
「何を謝るんだ。――そういう我が儘は、もっとちゃんと言いなさい。仕事に行って欲しくないなら、そう言っても構わないんだぞ」
「ううん。今日だけで、だいじょうぶ……」
優しい父に安堵して、カイは穏やかな眠りへと沈んでいった――。
――と、そんな風に獅子親子が水入らずの時間を過ごしている客間の扉の陰では。
(何アレ、なにあれ、何あれぇ……っ)
調薬の待ち時間を利用してカイの様子を見に来たディアナが、図らずも獅子親子の会話、その一部始終を扉の陰から目撃してしまい。意味不明の動悸を抑え、厨房のリタの元へと走っていた。
「どうしよう、リタ! 私も病気かもしれない!」
「はい? 突然何を言い出されるのですか」
「たぶん、カイがね? 熱で意識が朦朧として、あれは退行現象の一種だと思うんだけど。――めちゃくちゃ、すっごく、かわいいの!」
「……はぁ?」
「おかしくない? さっき微笑まれたときもちょっと危なかったけど、いくら中身が退行してても見た目はいつものカイなのに。いつものカイが舌っ足らずに一生懸命話しているの見て、可愛いとか思っちゃうの! 胸の動悸が、変なの!」
何だかんだで面倒見の良いリタは、季節外れのフルーツゼリーを作るべく、細かく切った果物とゼラチン液を混ぜ合わせ、氷に埋めた型に流し込んでいるところだったが。意味の分からない興奮状態の主を宥めるため、ひとまず液全てを型に流し込んでから、大きく息を吸い込んで言い放った。
「よいですか、ディアナ様。あ奴が可愛いかどうかは、今は置いておきましょう。人間には錯覚という便利な能力もありますから」
「え、と……?」
「気になるのなら、彼が元気になってからもう一度、舌っ足らずになってもらえば済む話です。ディアナ様の動悸が病気か錯覚か確認するためにも、まずはアレの熱を下げて通常営業に戻ってもらうべきかと存じますが、いかがです?」
徹頭徹尾、ゼリーを冷やす氷のようにクールなリタに、ディアナも釣られて無事に落ち着いた。……うん、なるほど、そうかもしれない。
「そうね。まずは熱を下げて風邪を治して、それからよね」
「ご理解頂けてよろしゅうございました。私はお茶の準備に取りかかりますので」
「はーい……」
厨房から部屋に帰りつつ、(あれ、ひょっとして適当にあしらって追い払われた?)と気付いたディアナだが、調薬の時間がそろそろであることも確かなので、おとなしく作業へと戻るのだった。
もちろん、カイの熱は疲労と風邪のダブルパンチだっただけで。
クレスター一族で最も薬学に詳しいディアナが調合した薬が効かないなんてこともなく、数日後には普通に動けるようになった。
元気になった彼の、目下いちばんの悩みはといえば――。
「盥持って部屋から出ようとしてるだけなのに、仕事なワケないじゃん。子どもの頃だってあんなこと言った記憶ないのにさぁ……この歳で父親に甘えるとか、勘弁してよマジで」
ばっちり記憶に残っている、熱に浮かされているときの恥ずかしすぎる己の幼児返りである。
思い返しては悶えてしまうので、誰もいない森の中で羞恥心を散らす毎日なのだが、彼が撒けない存在がただ一人。
「カイ? 病み上がりに何してるの。ソラ様が心配していらっしゃるわよ」
「その父さんと顔を合わせられないから、ここにいるの!」
「どうして? せっかく元気になったんだから、ソラ様だっていろいろお話なさりたいと思うけど」
「……その『いろいろ』にぶっ倒れてる三日間が含まれてるなら、絶対やだ」
「えぇ? あんなに心配して、付きっきりで看病してくださったおとうさまに、その言い方はないんじゃない?」
「だから、それが恥ずかしいから、嫌なの!」
「恥ずかしがることないのに。だってあんなに可愛い息子さん、ソラ様が自慢したいのも分かる……あ」
おおよそ自分には似つかわしくない形容詞が目の前の少女の口から飛び出して、カイは思わず凝視してしまった。言い切った後で失言に気付いたらしいディアナは口を抑えて視線を逸らしたが、はっきり言って手遅れだ。
ひくひくと引きつった笑みで、カイはディアナの視線の先へ回り込んだ。
「ディー? 怒らないから、俺の目を見て答えてね? ……なに、見たの?」
「や、えっとね、カイ。全部は見てないから。遠かったし、逆光だったし。ソラ様が部屋から出ようとするのを、お仕事だと思って健気にいってらっしゃいしようとするところとか、そんなのしか見てないから!」
「それ全部って言うんだよ……!」
「むしろあの状態の自分を覚えておけるって凄いわね……」
「全力で今、自分の記憶力を呪ってるよ。……ねー、ディー。この三日間の記憶を飛ばす薬とか作れない? ていうか作れるよね、ディーなら」
「お、落ち着きましょ、カイ。その薬たぶん、記憶以外にもイロイロ飛んじゃうやつだから。安全性に多大な疑問があるやつだから!」
「肉体の安全より精神の健全を取りたいよ……」
――嘆く仔獅子を森の妖精が慰める、そんな平和なクレスターの午後であった。
この翌日か翌々日にシェイラが合流する感じですかね……話聞いて、「カイさんがまさか、風邪で倒れるなどという人間味溢れることをなさるなんて」とかリタ以上に失礼なこと呟いてそう(笑)
お読み頂き、ありがとうございました!
2020年も、どうぞよろしくお願い致します!




