知らない所
私は一晩中そこに座って月を見上げていた。
鳥の声も虫の音も無い静かな夜に、花々が咲き誇る庭園で大きくて鮮やかな月を見上げる。まるで現実感の無い光景だった。
私は神隠しにでもあったのだろうか。それも日本以外の別の国でも、時間を移動したわけでも無い、それこそ地球とはまったく違う別の星へと来てしまったのだろうか。
月が完全に空を去って、太陽が昇りきるまで、繰り返し考えていた。
周囲が明るくなりきったころ、私はようやく空から目を離すことが出来た。
しかし何気なく後ろを振り返った私は、また驚かされることになった。ぼんやりしていた意識も強制的に覚醒する。
私の後ろでは、なぜかまたおじいさんがまた倒れていたのだ。
いつから倒れていたのだろう。やっぱり具合が悪かったのだろうか。今度こそ何かあったのかもしれない。
「ちょ、大丈夫ですか」
慌てて這いずるように近寄って、仰向けになっているおじいさんを覗き込み揺する。
しかしおじいさんはごろんと寝返りを打った後に長く呻いた。だるそうに起き上がり伸びもする。
「寝ていただけですか・・・」
呆然としながら、そして安心で気が抜けた私の声が空しい。床に両手を付いて、深く項垂れる。気持ちの振り幅が大きくてそろそろ辛い。
「何をしている、早く来い」
おじいさんの声が聞こえた。顔を上げると、前方に見えるドアのところでこちらを振り返っている。
慌てて起き上がろうとしたけど、何しろ一晩中、固い床の上に座り込んで居たのである。足、とくに膝から下は全く力が入らない。
何とか騙し騙し起き上がったが、まるで生まれたての子牛のようである。凄くプルプルしている。
それでも何とか前に進み、おじいさんが開けたドアを目指す。
そういえばこのドアは、あの部屋にあったドアのうちでまだ確認していないものになる。先に待っているものが分からなくて不安になるが、とにかく前に進まなくてはならない。
亀のような歩みでも何とか進み、ドアにもたれかかるようにしてあの部屋から出た。
その先は、リビングか食堂、そんな感じの部屋だった。ここもかなり広い。真ん中に大きなテーブルがあり、その向こうにはまたドアがある。ドアは他に右手に一つ、左手には二つ。
左手奥のドアが開いていて、そこからおじいさんの後姿が見えた。
「座っていろ」
おじいさんのそっけない声が聞こえた。縋り付くようにテーブルに付き、荷物を足元に置く。地味に買い物袋が辛い、重い。ぐったりしながらおじいさんを待った。
暫くしておじいさんは戻ってきた。手にはお盆のようなものを持っている。底の深いお椀のような皿に、スープのようなものが入っているのが二つ。底の浅い大皿に、ざっくり切られたパンのようなものが乗せられたのが一つ。スープの入ったお椀からは湯気が上がっている。
おじいさんはそれを一つ私の前のテーブルに置き、もう一つを手近な椅子のあるテーブルの上においた。そして最後にパンの乗った大皿を盆ごとテーブルの上に置きながら座る。
「食え」
一言。それだけ言うと、さっさと自分の手前にあったお椀を持ち上げてすすり始める。
そっけない一言だった。
だけど何故か涙が出そうになった。誤魔化すように私もお椀を持ち上げ、スープをすする。
スープを飲んで、パンを一枚頂く。食欲は無いと思っていたけど、食べ始めると意外と何とかなる。スープは薄かったしパンは固かったけど、温かいスープもパンも私の気持ちを落ち着けてくれた。
おじいさんも同じようにスープを飲み、パンを食べた。食べてる間はどちらも無言だった。
食事のおかげで少し落ち着いた私は、驚きすぎたせいで肝心の質問すらしていないことに気付いた。
「ここはどこなんですか」
「ここはリース聖教国、ラリズの森だ」
やっぱり知らない地名きた。あんな月がたくさんある国が地球にある訳無いと思ったけど、やっぱり実際に知らない地名聞くと力が抜ける。
「おじいさんは誰なんですか。私の名前は佐藤 瑞樹です。」
ぐったっりした状態で、それでも何とかおじいさんの顔を見ながら伝えた。
しかしその瞬間、おじいさんの眉がピクリと動いたことに気付いてしまった。心の中だけならともかく、実際におじいさん呼びは不味かっただろうか。次からはどうしよう。
「私の名前は、ラフィニカ・フィエズ・ギリニテだ」
やっぱりそうだね、横文字名。言われるまでもなく、確かにこの家はもちろんおじいさんも外国の人っぽい。
「ごめんなさい。名前が先なら瑞樹 佐藤です」
潔く正しておく。おじいさんは一つ頷いた。
「地球とか、日本とか、東京とかの場所は知らないですよね」
駄目元で聞いてみた。もし知っていたら一気に解決する。別に東京に住んでいる訳では無いが、日本で有名なのは東京だろう。でなければ、京都、大阪だろうか。
「知らない。ニーフォやトウキョはあるが」
「ちなみに何ですか?」
「野菜だ」
また力が抜ける。もう私にはおじいさんの顔を見ていることが出来なかった。
深く深く息を吐いて、額をテーブルに押し付ける。冷たさが気持ち良い。しかしこのテーブル、そして座っている椅子も不思議な質感がある。硬いのに柔らかい、いや、柔らかいのに硬い?
確かに硬く感じるのに、不思議と包まれるような弾力も感じる。椅子はともかくテーブルが柔らかかったら不味いだろうに、皿を置いていたときも、頭を乗せている今も、まったく違和感を感じない。ひたすら気持ち良い。ちょっと癖になりそう、手のひらでぺたぺた表面をさわる。
「やっぱり自分で来たのでは無いんだな」
そんな状態の私にも冷静な言葉。やっぱり眉間にしわを寄せているんだろうか。
「もちろんです。私に瞬間移動の能力はありません」
テーブルに額を乗せているからか、どこかくぐもった返答になる。おじいさんが頷いている気配がする。
どこかが麻痺しているのか、感情がまったく追いついてこない。夢でも見ているような心地で、これが現実のことと受け入れられないのかもしれない。
夢なら早く覚めないかな、ぼんやり思う。
だけど足はまだ痺れているし、机の冷たさはこれが現実であることを私に伝える。聞かなければいけない事はたくさんあるはずなのに考えはまとまらない。
ああ、でも、これだけは、
「私戻れますか」
おじいさんは答えてくれなかった。