ここはどこ
あまりの言葉に私はとっさに反応することが出来なかった。伝えるだけ伝えてまた口を閉ざしてしまったおじいさんを、完全に表情を無くした状態で私は呆然と見つめる。
ただし呆然としているように見えるのは身体だけだ。せっかく一度は止めようとした思考の渦は簡単に復活してしまったので、むしろ脳内は必死で動いている。
この状態は意外すぎる言葉を聞いたために、私に表面を取り繕う余裕が無くなってしまったからだ。先ほどまで必死に覆っていたものは、ずっと続いている不安感によってすでに押し流されてしまった。
おじいさんも先ほど始めて私を認識したときからまったく視線を離さず、眉間にしわを寄せた状態できつく睨みつけている。いつもの私だったら、すぐに気まずく感じて視線を外していたと分かるほど強い目だった。
しかし今の私は不思議とそれを怖いとは感じず、無言で向き合う時間がしばらく続いた。
「誘拐されたっていうことでしょうか」
とりあえず真っ先に思ったことを口に出してみた。そんなことはありえないと分かっているから、これは否定されるための質問である。
私がいつそんな犯罪に巻き込まれたというのか。
おじいさんは先ほどまで倒れていたし、私はここまで歩いて来た。意識が途切れた覚えは一度も無いし、荷物もちゃんとここにある。乱暴されたと言うほど服も乱れてないし、薬など吸ってないので意識もはっきりしている。
この家に対して多少驚いたたことはあったけど、それ以外におかしなことは無い。いや、無いはずなのだ。
「ここは君がさっきまで居た場所とは違う場所だ」
何を言っているのか分からない。どうやって違う場所に来たというのだ。私は確かに歩いていてここまで来たのに。
「どうやってここまで来たかは分からない。だが確かに君はこことは違う場所から来た」
おじいさんから返答を貰ってしまって、どうやら私の考えは言葉に出ていたようだと気付いた。
そんなことがあるわけ無い。真面目そうに見えて実は冗談が好きな人なんだろうか。ちゃかして笑い話にしてしまいたくなるけど、おじいさんは真剣な表情のままだった。
私を不安がらせて、からかいたいだけなら止めてもらいたい。早く出口を教えて欲しい。そんなに私の存在が不快だったのなら、からかうなどしないで出口さえ教えてくれればすぐに帰るのに。
「何を言っているのか分かりません」
少しずつ気持ちが不安定になっていくのが分かるけど、すべてを強引に押し隠すと平坦な声を出すように努めた。喚きだすことことなど出来ない人間なのだ。
「ならばそのドアを開けてみろ。知っている場所だったら帰ると良い」
おじいさんは自分の右手のドアを指差した。私から見ると左手、先ほど見てしまったドアとは別の物だ。そちらから入って来たのだろうか。外に出られるなら、私はどれでも構わない。
私はここに来たときより多少軽くなった荷物を改めて抱えて立ち上がった。帰る準備は出来ている。
一つおじいさんに対してお辞儀をすると、ゆっくりとした足取りを心掛けてドアまで歩く。
だけどそこに行くまでに、私は何故か自分が非常に緊張していることに気付いた。先程まで逸っていた心はすっかり鳴りを潜めてしまっている。
何か怖くて、何故か怖くて、泣きそうになっている。私の手は震えていた。
おじいさんの言葉は冗談だ。そんなことある訳無い。ドアを開ければ、そこは見慣れた住宅街のはずだ。家を間違えてしまって、普段付き合いの無い近所のお宅にお邪魔してしまっただけだ。
私の手は静かにノブを握った。そして慎重に回す。何故か、私の中のどこかが盛んにストップをかけるけど、私はその思いを強引にねじ伏せて静かにドアを開いた。
そこは確かに外のようだった。室内にくらべてわずかに冷えた空気とかすかな風を感じる。
いつの間にか閉じていた目を必死に開いて、私はドアの向こうを見た。
そして後悔した。そこにあるのは私の望んだ光景などでは無かった。
そこでは室内の人工的な明かりや太陽の暖かな光とは違う、静かな湖面の底を想像させる光に照らされた鮮やかな花々が咲き誇っていた。
人の手によるものとは違い実に様々な色で溢れかえっている。背丈の高さも大きさもそれぞれで、しかしそれでも自らの鮮やかさを競い合うように広がっていた。そこは住宅街には到底有り得ない一面の花畑だった。
その遠く向こうに木々の葉だと思われる、人など簡単に飲み込めそうな濃い緑が暗く広がっている。それはこの場所を閉じ込めるようにぐるりと長く覆っていた。遥か向こうに見えるのに暗い影は長く伸び、だからこそ余計に花の色が引き立っている。
花畑と森はまるで対照的で、しかしだからこそ一幅の絵画のように不思議と調和が取れているように見える。
だけど、それだけだったら、私はその場所にまだ納得できた。いっそ誘拐説を認めてしまっても良かったのだ。
しかし私はその向こうに、ありえないものが見えることに気づいている。
空には三つの月があった。
大きな二つと小さな一つ。偽者であることなど望めない、圧倒的な存在感でそれらはそこにあった。
三つの月のうち、二つはまるで太陽のように大きく重なり合うように存在して、涙にでも濡れたように青い光を発している。その大きさは地球のように遥か遠くから私たちを見守るわけでは無く、手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じることが出来る。
最後の一つ、小さな一つはその二つに比べるとまるで玩具のような大きさで、少し寂しく離れて存在していた。大きさだけなら大きな二つに紛れてしまいそうな儚さだ。
しかし空の主役は間違いなくその小さな月である。
小さな月の輝きはいっそ鮮烈なほどに眩しく、まるで宝石のように鮮やかだった。そしてその白い月の光は、陽炎のようにその後ろを追いかけて長く伸びている。留めきれなくなった輝きがもれてしまったようにも見えた。
美しく幻想的な光を放つ、けして地球では見ることの出来ない月。
腰が抜けてしまったように体に力が入らなくて、空を見上げながらその場にへたり込んだ。
後ろから誰かが近づいてくるのを感じる。ぼんやりおじいさんだと思った。おじいさんは私の後ろまで来ると、同じように座ったようだった。
声が出せなくて、月から目が離せなくて。私はそこから動くことが出来なかった。