帰らなくちゃ
それにしてもおじいさんは不思議な格好をしていた。
銀色にも見える柔らかな灰色一色の、引きずるほど丈の長い上着のみを着ているように見える。フードは付いていたけど本当にそれだけで、他にボタンなどの装飾はまったく無いようだ。
それは上からすとんと被るデザインだった上に、柔らかな質感があるので寝巻きのようにも見えた。むしろ寝巻きで無いと、こんなに丈が長いと足に絡んでひどく動き難いと思う。
煩いくらい響く心臓の音を持て余しながら、私はいつものように必死になって今を取り繕う。何もしていないとまた考え始めてしまうし、手持ちのバナナもこれで最後なので早く帰る準備をしよう。
そういえば私は携帯をどうしたんだろう。硬い床に直に落としてしまったんだろうか。
おじいさんに最後のバナナを手渡すと、私は床の上を探ることにした。しかしいつ下ろしたのかも覚えていない鞄と、いろいろ引っ張り出した買い物袋が邪魔で見つからない。帰るためには先にこちらを片付けたほうが良いのかもしれない。
とりあえず二つあった買い物袋は、中身を幾つか取り出したせいで余裕があった。ごみを入れる袋が欲しかったこともあり一つに纏めて詰め直すことにする。
荷物を片付けていると、乱暴に放り出してしまった携帯がやっと見つかった。拾って傷を確認しながら表面を軽く一撫でして、小さな音を立ててそれを開いた。見た目は平気そうだったけどデータはどうだろうか。バックアップを取ってないので、これが動かなくなると本気で困るのだ。
画面は変わらず、明るい光を発してくれた。電波の表示は変わらずに圏外だったけど、とりあえずメモリが開けられることだけは確認出来たので大丈夫だ。圏外になったままなのは、きっとたまたまどこかで妨害する電波でも出ているからだろう。
私が片付けている間も、おじいさんはバナナを食べていた。食べさせた私が言うのもおかしな話ではあるけど、一度にこれほど食べてしまって本当に大丈夫なのだろうか。胃が痛くならないと良いのだけど。
おじいさんはすべて食べ終わると満足したように息を吐いたので、私は横に置いてあったペットボトルも蓋を開けて差し出してみた。受け取ったおじいさんは一口飲み、その後は勢いよく飲み干していく。私はペットボトルの蓋を握り締めてじっと見ていた。
おじいさんは中身をすべて飲み干し、最後に片手でグイとぬぐう。そして視点がばっちり私に止まり、やっと言葉を発した。
「どうしてここにいる?」
すごく待っていました私、その言葉を。やっとひとごこち付いたらしいおじいさんに話しかけられて、私は現状を説明出来ることにほっとしていた。
「大丈夫ですか?私は気が付いたらここに居たんです」
声が震えないように気をつけながら答えた。すぐにでも出口を聞きたかった気持ちを抑えて現在の体調を聞く。
空のペットボトルを握り締めていたおじいさんから受け取り、キャップを閉めて他のごみと一緒にまとめた。分別なんて家に帰ってからすれば良い。
「ごめんなさい。勝手に上がりこんでしまって。すぐに帰りますので許して下さい」
私を睨むように見ているおじいさんの顔を見ながら話しかけた。
「人を呼んだ方が良いですか?帰ってしまっても大丈夫ですか?」
おじいさんはさっきまで床に倒れていたとは、とても思えないほどしっかりしているように見えた。
眉間に深いしわが寄っているが、意識もはっきりしているようだし、目にも力がある。きっともう大丈夫だろう。
眉間のしわは、いきなり見知らぬ他人が家に居て不審に思ったに違いない。
顔色が良くないようにも見えるが、それははっきり言って私にはよく分からなかった。私が外国の人と実際に会ったことがあるのは、はるか昔の学校や観光地に旅行に行ったときくらいなのだ。
しかし精一杯の言葉だったのだけど、おじいさんは何も応えてくれない。
さっき呟いていたのも日本語だったので、言葉が分からないということは無いと思う。なのにただ強い目で私を睨むだけだ。
しばらく言葉をおいて見たが、何も言ってもらえない。これはもう、帰ってしまっても良いということだろうか。
だけど私には出口が分からないのだ。おじいさんに教えてもらえないと端から開けるしかなくなる。いくらなんでもそんな非常識なまねは出来ないし、おじいさんだって自分の家を他人に覗かれるなんて嫌だろう。
それに何より本当に大丈夫なのかが気になった。実は動けなかったとかいうことは無いだろうか。具合が悪いかもしれない人を放り出してこの場を離れて良いのか。
判断が付かなくて、私は次に進めない。せめて何か話してくれれば次の行動を起こせるのにとじりじりしながらおじいさんを待つ。
「大丈夫ですか?」
お願いだから何か言ってくれ。
「私は大丈夫だ」
返答があった。嬉しくなって笑みが浮かんだ。
「ご無事で良かったです」
これはあれだな。無言の抗議ってやつだったんだろう。私は自分で疑問に答えて納得することにした。
荷物をまとめて抱える。私がいたら休めないだろうし、出口を教えてもらって早くお暇しよう。
「すみません。パニックになってしまったみたいで玄関はあちらですか」
おじいさんの後ろのドアを手でさしながら聞いた。
おじいさんは相変わらずじっと私を見ている。ちょっと気まずく思いながら返事を待った。やっぱり怒られるんだろうか。それにしては雰囲気が怖くない。空気が張り詰めるような真剣な表情ではあるけれど。ただし眉間のしわはさらに深くなっている。
勝手に家に上がりこんでしまったのは、確かに私が悪い。だけどこれは、そう、言うなれば人命救助。訪問販売の人だって、訪ねた先で人が倒れていたら思わず駆け寄るだろう。
そういえばバナナをあげたんだ。食料も提供していることだし、ここは一つ、大らかな心で許してもらいたい。
びくびくしながら、だけど表面上は冷静を装って、おじいさんの言葉を待つ。
長く感じる、だけど実際にはきっとそれほどでも無い時間が経過して、おじいさんはやっと言葉を発した。
だけど、それは思いもよらない言葉で、私はおじいさんが発した言葉に表情を無くすことになる。
「君はここから帰れない」